十五章 白い大地の駅(2)
夜に包まれた深い森を抜けた先に広がっていたのは、どこまでも真っすぐ続く白い大地だった。
夜空は頭上から色を途切れさせ、水を溶かしたような薄いブルーが始まっていた。夜と日中が、見事に隣り合わせのような境目を作って同時に存在しており、そこに流れる空気は乾いてやや冷たく、風はほとんど吹いていなかった。
開けた土地は、ひどく閑散としていた。広大なだけに、美しい大地に何も無いという光景には違和感が伴った。
「これから創造されるはずだった場所ですよ。――まぁ『私』には知りようもありませんが」
エルの問うような視線を受けてすぐ、ホテルマンがそう言った。
これまで出会った夢の住人からは聞かないような、違和感を覚える台詞にスウェン達が訝しげにホテルマンを見やった。ログが顔を顰めて、「おい」と彼を呼んだ。
「お前も『夢人』とやらなんだろ?」
ログがそう問いかけると、ホテルマンは、どちらともつかない笑顔でしばらく彼を見つめ、「――違いますよ」と静かな声色で答えた。スウェンは思案する表情を見せたが、追及する様子は出さずに「先へ行こう。案内してくれ」と慎重に告げた。
ホテルマンの先導で、エル達は、しばらく何も無い土地を歩いた。
大地を踏みしめるごとに、靴底で細かい白い砂利が擦れて音を立てていた。後方の森はどんどん遠ざかり、追って来る巨人の気配すらなく、ひどく静かだ。
「『仮想空間エリス』に到着次第、まずはアリスを救出しよう。脱出口が用意されているか確認して、それからプログラムを破壊して脱出する」
歩きながら、スウェンが考えている優先順位を口にした。ログが大きな欠伸を一つし、ボストンバッグの中から顔を出したクロエもつられて欠伸をこぼす様子を、セイジが珍しそうに眺めた。
ここが終わったら、ようやく『仮想空間エリス』か……
エルは想像してみたが、知っている人間に聞いた方が早いと考えて、すぐ先を歩くスウェンの背中に声を掛けた。
「『仮想空間エリス』って、一体どんなところなの?」
「僕が聞いた話では『美しい未来都市』かな」
エルの質問に対して、スウェンは首を傾け、思い出すように言葉を続けた。
「軍事演習用としての街並みが再現されていたものだけど、今はどんな風になっているのか分からないな」
崩壊が続く現在の『仮想空間エリス』の全貌については、どのようになっているのかは未知数だ。今言える事は、アリスを救出した後、プログラムの本体が置かれている場所まで向かい、ログがそれを破壊する。
スウェンは、簡単にクリアすべきポイントについて、順を立てて説明した。
先頭を歩くホテルマンは、スウェンが説明する間一切口を挟まなかった。エルも半ば一歩引いて、話すスウェンと、彼の言葉に耳を傾けるログとセイジを見守っていた。
スウェン達には話せないでいる可能性なのだが、エルは、『エリスプログラム』が支柱のような単純な代物ではなくなっており、ログの『破壊の力』でも、完全に壊す事が出来ないモノである可能性を疑っていた。
機械的な大部分は壊せたとしても、恐らく、今回の異常事態の直接的な解決には繋がらないだろう。まだ上手く掴めていないが、根本をどうにかしないと『仮想空間エリス』の暴走は終わらないとも思う。
先程のエリアで、ログは『鼠の支柱』を破壊したが、『夢人』であった少年には作用されなかった。
ログは元より支柱を壊そうとしたのだから、結果的にいえば当然かもしれないが、発動に触れた少年について、エルはずっと考えてもいた。もし、今の『エリスプログラム』に『彼女』が関わっているとしたならば、それは少年やホテルマンのいう『夢世界の住人』にも絡んでくるのだろう。
まだ完全には思い出せていないけれど、エルは、『彼女』との約束のためにココへ呼ばれた。それは助けるためで、終わらせるためだ。
想定外に問題をややこしくしている仮想空間という技術について、ログの『破壊の力』は有効であっても、それは機械的な表面上の問題を除いたに過ぎないのだろう。既に事は、そんな単純なものではなくなってしまっている可能性が考えられる。
つまり解決するためには、これまでの支柱と同じように『壊せば終わり』にはならない。
スウェンの筋書きは、現状、エルの知る『正しい結末』までいかないでいた。きっと彼に相談すれば、もしかしたら超人的な推理力で、エルが掴めていない部分までの推測を、あっという間に立ち上げてしまうのかもしれない。
でも、口にするわけにはいかないのだ。彼らには言えない。その『終わり』は、エルだけが果たさなければいけない約束であって……
「あちらですよ、お客様達」
ふとホテルマンの声が耳について、エルは我に返って視線を向けた。
前方に白い駅が見えた。そこには小さな教会のような建造物が一つぽつりと建っており、建物の裏手には雨避けが設置され、その下に三台のベンチが並んだ駅の待ち合い席があった。ベンチの前に列車のレールは敷かれておらず、大地に車輪の痕跡は見られない。
看板もないその白い駅の建物には、大きな木の扉がついていた。扉の向こうにある物については既に予想が出来ていて、スウェンが合図するまでもなく、セイジが動いた。
セイジが力を入れると、大きな扉は、これまで開けられた事がなかったような耳障りな軋みを上げて重々しく開いた。
建物の狭い室内には、『支柱』である大きな銀色の機械が横たわっていた。仕上げられている機械の中心からは、様々な太さの電気ケーブルが伸びて四方の壁に繋がっている。
筒状をした銀色の機械には、小さな厚ガラスが付いており、ガラスの向こうには見慣れてしまった緑色の液体が入っていた。機械が胎動のような稼働音を上げるたび、まるで呼吸するかのような気泡を上げている。
機器から伸びる電気ケーブルは、床を埋めるほどの量ではなく、四方の壁に向かって太いケーブルが四本と、いくつかの細い電気ケーブルが絡み合い連なっているだけのシンプルなものだった。随分と閑散した機械設備のように感じ、まるで利口な機械が、少ない設備の中できちんと動いているような印象を受けた。
とはいえ、ここからはログとスウェンの仕事だ。
何が出来る訳でもないエルは、そう察してゆっくりと後退し、入口付近の壁に背を預けた。クロエも建物内の様子を見届けた後、すぐボストンバッグの中で丸くなってしまった。
ホテルマンはもとより興味もないのか、中には入らず、背を向けて開け放たれたままの扉の段差に腰を下ろしていた。彼は、位置を確認するように近くにいるエルをちらりと見て、視線を外へ戻し、珍しく思案するようにぼんやりと風景に目を止めた。
ログとスウェンの行動を見守るセイジが、こちらに背を向けるホテルマンとエルを所在なく振り返り、ぎこちない笑みを浮かべた。エルも社交辞令で、ぎこちなく笑い返した。
その時、彼らに背を向けるように座り込んでいたホテルマンが、ふっと嘲笑を浮かべた。
「人間は、実に下らない物を作りますね」
その口調は、何かを思い出したような感想だった。
機械の稼働音があるにも関わらず、その声は、やけにはっきりと耳に滑りこんできた。ログが「何が言いたい」と、建物内から大きな声を投げかけたが、ホテルマンは背中越しに肩をすくめ、ちらりと横目でスウェンの様子を見た。
エルも、スウェンへ視線を向けた。彼は支柱の前で何やら機械をいじっていたが、その表情は曇っていた。彼は何度かスピーカーを軽く叩き、「おかしいなぁ」と首を捻る。
「しばらく『外』には繋がらないと思いますよ、『親切なお客様』」
すると、ホテルマンが、どちらともつかない困り顔を作ってスウェンに告げた。
「私達は先程、『仮想空間エリス』側の干渉を受けました。あれは前触れもないバグのようなものですから、恐らく、復旧までにはしばらく時間がかかるかと思われます」
「通信システムに障害が起こっているという事かい?」
スウェンは立ち上がり、苦労損の顔をホテルマンに向けた。
「はぁ。私は『機械』とやらには詳しくはないので、なんとも言えないのですが……先程の干渉は力のうねりの一つで、エネルギーが瞬間的に爆発するようなものでした。ですから、通信とやらに支障をきたす可能性は、十分あるのではないでしょうか」
オジサンの家には近代機器は少なかったが、無知なエルにも、エネルギーの爆発だと言われれば、何かしら障害や影響が起こるだろうとは理解出来た。
説明を聞いたスウェンも、深々と溜息をついて「なるほど、それなら仕方ないね」と肩を落とした。
「僕は何だか胸騒ぎがしてね。気のせいならいいのだけれど、ここにきて『夢人』やら色々あったから、もしかしたらラボでも何か起こっていやしないかと思って、状況を確認したかったのだけれど……」
「考え過ぎなんじゃないか? そんなファンタジーな事が現実で起こる確率なんて、早々ないだろ」
ログはぶっきらぼうながらに励ましたが、スウェンは悩ましげに眉を寄せた。
次の機会は『仮想空間エリス』のエネルギー中心地になるだろう。こちらの状況については、少なからず『外』では把握出来ているとはいえ、こちらには『外』の進展具合を確認する術が他にはないのだ。セイジもスウェン同様、少し不安を覚えたような表情を浮かべる。
先程から『外』では特に進展もない状況ではあったので、確かに問題はないのかもしれない。結局のところ、自分達がアリスを救出し、『エリスプログラム』を破壊しなければ問題は解決しないだろう。スウェン達は、互いに短い言葉でそれを確認しあった。
小難しい話を聞くのは気が引けて、エルはそろりと足を動かせて、三人の軍人を建物内に残したまま、外の段差に座りこむホテルマンの隣に立って白い世界を眺めた。
しばらくして、背後で機械の稼働音が止むのを感じたところで、エルは、ふと『夢人』だった少年の事が思い起こされた。
頑張れば、もしかしたら『外』と通信が行えたのではないか、という考えが脳裏を過ぎった。理由はよく分からないが、そもそも少年以上の事をホテルマンは出来るような気がしたのだ。
エルは、作り物のようなホテルマンの横面を、後ろの三人に気付かれない程度にチラリと盗み見た。
「……本当のところは、どうなの?」
「……何が、でしょうか?」
「……さっきの説明。俺には、なんだか取ってつけたようにも聞こえたというか」
お互い白い世界を眺めたまま、囁く程度に言葉を交わした。
エルが「ただの勘みたいなものなんだけど、あなたになら『通信を繋げてあげる』ぐらいの協力が、出来たんじゃないかと思って」と自信もなく言葉を続けると、ホテルマンが含み笑いをして肩を震わせた。
「えぇ、そうですよ。『遮断』は完全ではないですから、今こじ開けられてはマズイと思いまして」
「だから通信を断ったの? それは、貴方にとって必要な事?」
「外にいる『彼ら』にとっては必要でしょう。建物内でちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまいましたから」
彼は含むように答え、中途半端に言葉を切った。
一体何を遮断したのか、何が起こっているのか分からないが、全てを語ってはくれないのだろうとも察して、エルは仕方ないと質問を諦めて、ホテルマンの隣に腰を下ろした。
「おや、詳細を訊かなくてよろしいのですか? 私、結構な問題発言をしましたよ?」
「うーん、なんというか、困らせる為にやっているんじゃないんだって、そうも思えるんだよね。……うん、謎だらけだけど、きっと貴方にも守りたい物があるんじゃないかと、そう思って」
ただそう感じただけだから俺もよく分からなくて、とエルは彼からの答えを期待せず、そう独り言のように話した。
謎の多いホテルマンは、ピタリと口を閉じ、結局は何も答えてくれなかった。
少しの沈黙の後、ホテルマンが背後から吹き上げる風に顔を上げ、エルの肩を指先でトントンと叩き、上を見るよう促した。作り物のような表情は、愛想笑いも浮かべていない妙な顔をしていた。
エルは促されるまま、素直に風が吹き抜け出した頭上へ顔を上げ向けた。
そこに目を止めた途端、ぐるぐると悩ましげな思考が頭から吹き飛んで、彼女はその大きな瞳を、こぼれんばかりに見開いた。




