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二章 エリスプログラム(下)

 長い階段は、まだ終わりが見えなかった。非常階段には窓もないから、どの地点まで来ているのかも分からない。


 先頭からログ、スウェン、そしてセイジと続き、背丈のある彼らは平気な顔で階段を上り続けていた。そのすぐ後ろで、エルは続く階段地獄と疲労感にうんざりしながら、高さのある階段の段差を踏み進めている。


 面倒な事になったと思いながら、エルは「一体何階建てのホテルなんだろうか」と現実逃避のように考えた。話の流れやスウェンの態度から、そろそろ本題が出るだろうとは予測していたので、しっかりと口は閉じていた。


「計画の最終でしか脱出が出来ないから、現時点では、君がここから出られる方法がないんだ。君がどういった状況でここにいるのか、今は何も分かっていないし、しばらくは僕らに付き合ってもらう事になる」


 スウェンは、反応を待つように言葉を切った。しかし、エルが動揺もせず、質問もないまま呑気に思案する顔に気付くと、どこか奇妙なものを見るように眉を寄せた。


「……えぇと、時間についても約束は出来ない事は、念頭に置いていて欲しい。こちらの世界は時間の流れが速いうえ、想定外の事も立て続けに発覚していて、何もかも未知数なんだよ」

「なるほど」


 エルは、思案しつつそう答えた。想定外なのはこちらも同じだ。まさか旅の途中で、こんな事件に巻き込まれるとは思ってもいなかった。


 現実世界に戻れる方法はあるらしいが、しばらくは先程のような危険が付きまとう可能性はある。その間は、自衛の必要は迫られるだろうが、この世界が頭の中だけの話だと簡単に考えてしまえば、状況は最悪だけという事でもないはずだ。



 ここは現実世界ではない。彼らは、女の子を助ける事と、仮想空間を壊す事を目的に行動している――エルは今一度、自分が置かれている状況を冷静に整理してみた。



 スウェンが同情から同行を提案した訳ではないとすると、エルとしても楽だ。お互いの邪魔にならないよう、お荷物にならない程度に付き合えばいいとも考えられる。エルは幼い頃より訓練を受けていた事もあり、護身には少しだけ自信もあった。


 思案していると、クロエが脇腹に頭を押し付けて来たので、エルは彼女の頭を撫でてやった。


 先程、ホテルの一階で起こった戦闘の緊張感を、ほぼ忘れつつあると遅れて気付いた。この世界が本物ではないと知らされた事で、自身の死という概念が少しばかり、リアリティを欠いてしまっているのかもしれない。


 少なからず死の危険性はあるという事は確かだが、エルは、ほんの一瞬だけ、馬鹿な事を考えてしまった自分を嗤った。



 一人と一匹が一緒にいられる時間は、少ない。


 死は現実世界での絶対のルールで、生物はいつかは必ず死ぬ。それでも、ここで感じる死の痛みは、悪夢から目が覚めるような安らぎすらあるのかもしれないと思えば、少しだけ楽になるのも確かで……



「ッそういえば誘拐されたのって、もしかして関係者の娘さんとか?」


 深く考え込むと立ち直れそうにもない気配を察し、エルは、気力を取り戻すように、思いついた質問を口にした。


 すると、途端に仏頂面の男が肩越しに睨みをきかせて来た。大人しく考え事だけしていればいいものの、という言葉を彼の表情で見て取り、エルは「何だよ」と思わず睨み返してしまった。


「……研究所の所長の一人娘だ。名前はアリス、歳は十二。今回の主犯であるマルクは、アリスの父親んところの助手だ」

「父親の助手? じゃあ娘さんの事も知っていた人が、事件を起こして誘拐したの?」


 エルが素直な疑問を返すと、スウェンが苦い顔をした。


「攫われた女の子アリスにとって、マルクは『良いおじさん』だったみたいだよ。まさかの行動に、上層部も大慌てでね……アリスは、所長と一緒に研究の中心となっていたエリスの娘だし、僕としては、もしかしたら何らかの関係があって、マルクは彼女を攫ったとも推測していて――」


 エリスって、さっきからずっと出て来るキーワードのモデルさん……?


 異国人の名前がややこしすぎる。エルは「ちょっと待った」と、堪らずスウェンの話を遮った。


「待って。ちょっと待って、いきなりで頭が追い付かない。『エリス』っていう女の人がいて、彼女は母親で、『アリス』が娘で……?」

「落ち着きなさい、少年」


 困惑の表情を浮かべたエルの動揺を見て、スウェンが、半ば安堵に近い吐息をこぼし「仕方ないな」というような表情を浮かべた。


「元々エリスは、所長がこの研究に着手した時に配属された、研究員だったらしい。彼女はどうやら『夢』の中で意思を持てたり、見た事もない土地を『夢』で知ったり、その経験を踏まえて協力してもいたようだよ。研究には機械だけでは進められないものがあって、彼女がいてこそ仮想空間は成り立っていた、と報告書にはあったね」


 ああ、だから名前を取って『エリスプログラム』や『仮想空間エリス』としたのだろうか。しかし、一体どういう『協力』が、こんな摩訶不思議な技術の確立に至れたのだろう?


「あのさ、そのエリスって人、まさか機械に繋げられてたりとか……」

「あははは、そんな非人道的な研究じゃないよ。方法までは知らないけど、とりあえずエリスの助言が参考になって実現出来たって事かな。それで、彼女の名前が付けられた訳だけれど。なんというか、エリスとアリスは、ちょっと不思議な体質だったみたいだよ? えっと……――」


 そこで、説明の言葉に詰まったスウェンが、思案顔で顎に手をやった。


「う~ん、日本ではなんと言ったかなぁ。ほら、夢の中で自由に動けたり、たまに未来を見ちゃったり、相手の夢に入ったりするようなこと」

「……多分、『夢見』ってやつかな?」


 思い当たる単語を探り当て、エルは遠慮がちに答えた。すると、スウェンを含む三人の男が、初めて知ったと言うように「へぇ」と半ば感心の声を上げた。


 エルは、そこでようやく、当初覚えていた素朴な疑問を思い出した。


「皆、日本人じゃないよね……?」

「ん? 僕らはアメリカ人だよ」


 一同を代表して、スウェンがさらりと答えた。


「沖縄の基地でしばらく勤めていたけど、今は、フリーの何でも屋だね。出身の部署がちょっと特殊だっただけに、名目は軍の外部機関といったところかな」

「……俺と普通に話しているけど、揃って日本語が達者なのか?」

「僕らは日本語も含めて数ヶ国語はマスターしているけど、仮想空間では言語の概念はないらしいよ。つまり、出身国が違っていても意思疎通に困る事はない訳だ」

「ふうん。そうなんだ」


 頷くエルの表情から、その理解度を確認したスウェンが「そう言えば」と相槌を打ち、唐突に足を止めた。


「ちゃんとした自己紹介がまだだったね。僕はさっき手短に述べたけど、スウェンだよ。で、こっちの東洋風がセイジ。セイジは、母親が日本人なんだ。愛想がない方は、皆からログって呼ばれているよ。名前が長いから、君も彼の事は『ログ』と呼ぶといい」


 紹介された日本人風の大きな男――セイジが遅れて「よろしく」とぎこちなく微笑んだ。無愛想で仏頂面が通常顔のような例の大きな男――ログが、「たかが紹介で足を止めるなよな」と顰め面をそむけた。


 フルネームや本名である必要もないらしい。そう考えて、エルは一つ肯いてこう答えた。


「俺はエル、こっちはクロエ」

「へぇ、『エル君』か。呼びやすい名前だね。分かるとは思うけど、今回の件は軍の機密事項で――」

「大丈夫だよ。俺とクロエは、一人と一匹で自由気ままな旅をしているだけだし、この辺には知人も友人もいないから」


 エルは、意図的にスウェンの話の続きを遮った。その時、ログがこちらを振り返り、初めて問い掛けて来た。



「一人なのか?」



 彼の言葉数は少なくて、ペットを省いたら一人旅って事になるだろう、と怪訝な表情をされるまで、その質問内容を察するのに遅れた。


 エルは、ログのブラウンの瞳からさりげなく目をそらすと、クロエへと視線を移した。的確な返答を考えるために、しばしクロエの頭を撫でて時間稼ぎをしている間、三人の男の眼差しを頭に感じた。



「――親はいないし、育ててくれた人とは死に別れた。だから、今は一人と一匹の、気ままな旅なんだ」



 痛む心を押し殺して、どうにか平気な顔で答えた。一人身である事を明かそうと判断したのは、スウェンの懸念を打ち払う目的もあったからだ。


 スウェンは、きっと涼しい表情の下で、ずっと先の事まで色々と考えているに違いない。軍の秘密を守るとしたのならば、やはり家族も知人も持たない身である事を明かし、後先が面倒にならない人間の方が都合もいいだろう。


 巻き込まれた際の経緯について、続けてスウェンから説明を求められたので、エルは、直前までの行動についても簡単に述べた。簡易宿泊施設を出て、国際通りを歩いていた事。少し違和感を覚えたあとで、例のホテルのランチバイキングへ参加した事……


 エルは言葉数少なく簡潔に、沖縄の北部から始まった雌猫クロエとの旅が、南へ向けて続いている事も話し聞かせた。


「ふうん。若いのに旅をねぇ。気になっていたんだけど、猫が仮想空間内に入っちゃうのって、聞いた事ないなぁ」


 スウェンが小首を傾げ、どこか興味深そうにボストンバッグのクロエを見た。


 シミュレーション・システムは人間用であるので、猫では試さないだろう。馬鹿らしい発想だと気付いたログが、眉間に皺を刻み「さっさと行くぞ」と注意して階段を上り始め、スウェンが「ピリピリしてるなぁ」とログの後を追った。


 セイジが、ログの後に続いたスウェンを少しだけ目で追った後、エルに向かって不器用な愛想笑いを返した。


「この仮想空間は今、複雑な造りになってしまっているようだ。目的地の周りを複数のセキュリティー・エリアが阻んでいて、私達は、アリスが連れて行かれた『エリス・エリア』を目指して進んでいる」


 すると、説明するセイジの向こうで、スウェンが「その話もこれからするけれど」と言葉を投げた。


「実はここ、まだ『仮想空間エリス』じゃないなんだ。その前に立ち塞がるセキュリティーみたいな仮想空間で、つまりセキュリティー・エリアだね。『仮想空間エリス』へ入る為には、マルクが組み立てたらしい複数のセキュリティー・エリアを突破しなければならなくて、稼働の元になっている『核』を壊さないと次のエリアへは渡れない。セキュリティー・エリアを稼働させている核を、僕らは『支柱』と呼んでいるよ」


 スウェンは、手振りを交えながらテキパキとざっくり説明した。


 いくつもこのような世界があるという事だろうか、とどうにか理解しつつもイメージが固まらず、エルはセイジに促されて歩き出しながら、悩ましげにスウェンを見つめ返した。


「あの、支柱って……?」

「空間型のセキュリティー機能、とでもいえばいいのかなぁ。元々の『仮想空間エリス』の設計にはなかったもので、恐らくマルクが急きょ手を加えたものだとは思うけど――まぁ僕らが唯一『外』と連絡が取れる場所でもある」


 そう説明したスウェンが、途端に困ったように微笑んだ。


「ここで全部を説明されても上手く理解出来ないだろうから、実際に見てもらってから話そうかと思っていたんだよ。実際に『支柱』や、セキュリティー・エリアの稼働が止まるところを見てしまえば、科学的に造られている事がよく分かるはずだから」


 その時、先頭を歩くログが「ふん」と鼻を鳴らしたので、三人と一匹は、先頭を進む彼の大きな後ろ姿へ、揃って目を向けた。



「『夢』がテーマの研究にしては悪趣味だぜ。――この世界も『支柱』も、全部ただの胸糞悪ぃ悪夢だ」



 彼が侮蔑するように苦々しく呟くのを聞いて、スウェンが「……そうだね」と、誰にも聞こえない声を口の中にこぼした。

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