十四章 深い森(2)
巨木の檻に閉じこめられたエルは、視界のきかない闇の中で、思わず「どうしよう」とぼやいた。押し潰されるような事態にはならなかった事を、まずは幸運に思うべきだろうか。
エルは、クロエの事を気掛かりに思いつつ、辺りの状況を確認するべく、まずは足元を靴先で探った。足場も幹で覆われているのか、ひどく凸凹として不安定だった。恐る恐る歩き進めてみると、短い間に数回足を滑らせて転倒した。
自分の手さえも見えない漆黒の闇が続いていた。
目を開けているのか、閉じているのかも分からなくなる。
足元から、微かに外からの振動が伝わってきた。エルは、鳥が叩き落とされた様子を思い返して、外の皆は大丈夫だろうかと不安が込み上げた。この森が肉食だとすると、自分は、このまま食べられてしまうのだろうか?
何も確認出来ない暗闇の中で、歩き回る方が危険なのではないかとも考えさせられたが、もし立ち止まっている間に何かが近づいて来て、みすみす喰われてしまうような事態になる方が、よっぽど怖い。
そうなるとしたら、まさにホラージャンルの怪物映画の状況だ。
エルは、意思を固めて歩き出した。またしても地面を覆う木の根の大きな凹凸に躓いてしまったが、畜生と奥歯を噛み締め、「立ち止まるもんかッ」と顔を上げた。
「~~~~ッというか、ホラー系とか断固拒否!」
急ぎ脱出方法を考えようとしたところで――チラリと冷静さが戻り、自分が何者かの意図でここに閉じ込められた可能性が思い浮かんだ。
冷静になって五感を研ぎ澄ませてみると、闇の中に立ち込めている肌に絡みつく空気や、湿った樹木と土の匂いには何処か覚えもあった。慎重に気配を探っても、濃厚な闇からは殺気や敵意を感じない。
手でもう一度触れてみると、足元の木々の根は機能を失ったように完全に沈黙していた。先程暴れていた時には『肉食植物』だと本能から警戒するような意思を覚えたはずだが、今は木が中に蓄えているはずの水音や気配も感じられず、死んで干からびた物体という気もした。
もし何者かの意思で閉じこめられたとするのなら、その目的は、殺す事ではない……?
エルは訝しんだが、どうやら闇の中で殺されるような事はないらしいという直感と共に立ち上がった。恐らく、これも忘れている記憶に関係しているのだろう。どうしてか、この先を進まなければならないという、急かされるような奇妙な感覚も覚えた。
「この先に『何か』があるのかな……」
不安が口をついて出たが、とにかく動かない事には始まらないだろう。
エルは再び歩き出した。死への恐怖感から解放されたせいか、闇の中で慎重に手足を動かせる事に慣れたのか、少しすると簡単に躓いて転ぶ事もなくなった。
先へ進むほど、どこか懐かしい空気を覚えた。エルは、視覚以外の感覚を頼りに、その気配が強い方向へと足を進めた。
不安定な足場は、次第に巨木の一部なのかと素材疑ってしまうほど、見事な平らになった。まるで自分が木々の中に出来た、ぽっかりと空いた異空間に立たされている様子を想像させられた。
何もない闇を見つめ、探るように歩いていたエルは、不意に、この状況に対して強烈な既視感を覚えた。
「……『お姉さん』?」
遠い昔、そう声を掛けながら闇の中を歩き、いつも同じ誰かの姿を探していたような気がする。しかし、思い出そうと深く考えると、失ってしまった遠い昔の記憶を、本能が拒絶するように頭の芯が鈍く痛んだ。
――どこにいるの、ずっと探しているのに……
不意に、澄んだソプラノの声が、暗闇に小さく響き渡った。
何者かのその声が、すぅっと頭に沁み込んで来て、後頭部を押さえつけるような鈍い痛みと眩暈が消え去った。それを疑問に思った時、続いて近くから「こっちよ」と耳朶に触れるような声がして、エルは、ハッとして反射的に振り返った。
――違うわ、こっちに来て。そっちは駄目よ……
同じ声が、先程とは逆方向から木霊する。
妙だなと思いながら気配を探ってみると、生きた人間の意思はどこにも感じられなかった。それでも暗闇の中の唯一の手掛かりだと察し、エルは気を決して、最後に聞こえてきた声の方向へと進んでみた。
次第に自分の手が見え始め、身体がハッキリと闇の中に鮮明に浮かび上がった。一点の光さえもない空間で、自分の身体だけが視認出来る現象は不思議でしかないが、その疑問について思案しようとしたエルは、ギョッとして足を止めた。
まるで突如色でも加えられたように、二匹の人形が漆黒のベールを突き破って、闇の世界へ滑りこんで来たのだ。
それは栗色と白色の、二体のテディ・ベアだった。そのテディ・ベアは、まるでファンタジー映画の一場面のように闇の中を浮遊し、ふわふわと漂いながら、硬直しているエルの顔を覗きこんできた。
栗色のテディ・ベアには、瞳がなかった。その人形は穿った穴でじっとエルを凝視したかと思うと、途端に大粒の黒い涙をこぼし始めた。
『待っているのよ、ずっと……あなた、今、どこにいるの? 何も見えないわ。私を置いて行かないって、外に連れ出してくれるって、そう言ってくれたじゃない。あなたは、どうして何処にもいないの?』
人形は黒い涙を流していたが、前触れもなく、壊れた玩具のように高笑いを始めた。
エルは栗色のテディ・ベアの、裂けた大きな口の向こうに歪んだ禍々しい闇の蠢きを見た。鼓膜の奥まで貫く狂った笑い声は、こちらの言葉も理解する事は出来ないのだろうと察するような、強烈な狂気を発しながら空間中に反響した。
理性のない甲高い笑い声が、恐ろしい何かの象徴のように聞こえた。
出来る事なら耳を塞いで、目も閉じてしまいたかったが、それが出来ないのはきっと、その声の主を、記憶を失う前の自分がよく知っていたせいなのだろう。
何も思い出せてはいないが、恐らく自分は『彼女』がここまで狂ってしまった事がショックでならないのだろうと、エルはそんな感覚を覚えた。脳を激しく揺さぶる笑い声に、幼い頃に失ってしまった多くの記憶が、無理やりぐちゃぐちゃに引き出されるような吐き気が込み上げた。
すると、ブルーの瞳を持った白いテディ・ベアが、自由にならない身体を懸命に動かすように身体を震わせ、エルの鼻先に滑り込んできた。狂ったように笑い続ける栗色のテディ・ベアが、その人形の向こうに隠れた。
『お願イ、モウ、時間がナイの……守ラナ、きゃイケナイ、ノニ…………守、ラナけれ、ばいけない大切なモノ、コノままジゃ壊れ――……』
その時、栗色のテディ・ベアが、白いテディ・ベアを押しのけた。
狂ったように笑い続ける栗色のテディ・ベアが、身体ごと首を回し、穿った双眼で至近距離からエルの姿をガチリと捉えた。エルが恐怖に身構える暇もなく、白色のテディ・ベアも競うように眼前に迫った。
『『早く来て早く来て早く来て早く早く早く早く早くはやくはやく――』』
壊れた人形の亡霊のように、二体の人形が呪われた言葉を捲くし立てる。
しかし、その呪詛のような言葉は、前触れもなく途切れた。
黒い涙を流し続けていた栗色のテディ・ベアの口元が、ピタリとその動きを止めた。白いテディ・ベアも、青い瞳を宙に向けたかと思うと、意思を失ったように闇の中を力なく漂った。
全ての悪夢が静止したような光景だった。糸が切れたように、二体のテディ・ベアは闇の中を力なく浮遊した。ふわり、ふわりと漂うリアルな幻覚を、エルは茫然と見つめるしかなかった。
『――ならば己が選んだ運命を、果たすといい』
人形から、身体を圧迫するような重々しい声がした。
男とも女ともつかない地鳴りのような声が、テディ・ベア双方の虚ろな眼の向こうから、エルに問い掛けた。
『【理】の使者である【我らの子】が、物質世界の殻を持つ事は許されぬ』
『殻は物質世界の、魂を宿すモノの領分である』
『物質世界は命を造り、魂と運命を管理し――』
『――精神世界は根源と狭間を繋いで、生命の過去と未来を守る』
まるで頭部に心臓が宿ったように、脈打つ痛みがエルを襲った。
『人の子よ。お前はソレを選んだ』
『命持つ者に許された【選択】を、我らは尊重する』
大量に流れ込んでくる情報が思考回路を圧迫し、その痛みは瞬く間に全身に回った。あらゆる筋肉が軋み、まるで内臓や骨を損傷したような痛みに襲われて、エルは思わず膝をついた。
いや、違う。
これは『今の痛み』じゃない。
本能的な悟りのように、今の自分が受けている痛みと苦しみの正体を察した。複数の人間が重なったような声も、この痛みも、全ては今のエルが覚えていない過去のもので……
つまりこれは、身体が覚えている『過去の記憶』なのだろう。
エルは、漂う人形を押しのけるように、痛みに抗いながら闇の中を進んだ。少しでも身体を動かせていなければ、ひどい痛みや眩暈に屈して倒れてしまいそうだった。
ぐしゃり、と『過去』の音が耳元に蘇った。
まるで骨が砕けたように片腕が一際重く痛んで、エルは、苦痛に顔を顰めた。
いつだったか、注意されていたにも関わらず腕を掴んで、もう一度、彼女の腕を壊してしまった大きな男がいた気がするが、――やはり、よくは思い出せなかった。




