二章 エリスプログラム(上)
軍の中の研究機関で、バーチャルが注目されるようになった頃、精神研究を行っていたチームと科学班が、実際のミッションを想定した訓練が行えるシミュレーション・システムを立ち上げた。
その中で一人、仕上がりに納得しない科学者がいた。彼は精神的、肉体的の両方に数値として経験が加算されるような、完璧なバーチャル空間を夢想した。
彼は人間が睡眠時に見る『夢』を利用出来ないかと考え、進んだ科学の力を駆使すれば可能ではないかと期待して、自身の研究にのめり込んだ。しかし、その研究は途中で頓挫し、彼の退職により止まってしまう。
それから長い時間が経過し、軍の内部も世代交代した頃に、ある全く異なる分野の若い男に、彼が行っていた研究資料が行き渡った。
彼は軍にとって特殊な位置付けにある優秀な人材で、手放すわけにはいかない男だった。一つの巨大なプロジェクトが終了し、休養期間として自由な時間を与えられた彼が、偶然にも興味を持ったテーマが、過去の男が頓挫した研究に関連するものだった。
彼がその研究資料を参考にしたのかは分からない。しかし、全く異なる分野を専門としていた彼は、とんとん拍子に研究を進めてしまい、まるで過去の男が夢想していたような、バーチャルを駆使した全く新しいシミュレーション・システムを完成させた。
『仮想空間エリス』――被験者は眠りの中で、その世界をリアルな五感で体感出来る。
シミュレーション・システムを支えるのは、当時は珍しい、完成された学習型の人工知能が組み込まれた『エリスプログラム』だった。仮想空間は、メインプログラムの構築強化と成長に併せて設計された空間も拡大し、仮想世界という新しい可能性に軍は期待した。
「けれど、それは死者が出るまでの話だ」
ホテルの最上階へと続く非常階段をゆっくりと上りながら、先に自己紹介も済ませた金髪碧眼の男――スウェンが、そこでようやく言葉を切った。
エルは三人の男達の後について歩きながら、スウェンの長い話を聞いていた。スウェンは一見すると口調も性格も軽い印象を受けるが、説明に必要だと判断した事項だけを、簡潔にまとめているようにも感じた。
長話のような前置きも、きっと、これから話す事に必要なのだろうと推測して、エルは聞き手に徹していた。説明は伏せられた部分も多くあったが、軍の極秘事項であるとは前置きもされていたし、知る事によって危険が発生する可能性も考えて、深くは尋ねないように心がけていた。
というより、エルは情報を詰め込むのに必死だった。
軍やら研究やらの流れに関しては、「正直もういらねぇよッ」と言ってしまいたかったが、これから状況を把握するには必要な前置きに違いないのだと、何度も自分に言い聞かせて我慢した。どうにか話の流れに置いて行かれないよう、頭の中で話を簡単に整理しながら聞き進める。
「いいかい、少年。当時の研究データでは、仮想空間内での肉体的損傷は、現実世界には反映されないと安全性が確認されていたんだ。被験者に残るのは、仮想空間で受けたリアルな体感のはずだった。けれど実際、死者が出てしまったんだよ。『仮想空間エリス』でバグが生じたのではないか、と」
「バグ? たったそれだけの事で、その人は死んだの?」
携帯電話を所持した事がなく、近代のデジタル・ゲームにも馴染みがないエルが思わず尋ねてしまうと、日本人風の男が「私も詳しくは知らないが」と気遣うように補足した。
「どうやら仮想空間内で受けた傷が、現実世界にそのまま反映されたらしい」
すると、先頭を進みながらスウェンが「そういう事さ」と肯き、話を再開した。
「『エリスプログラム』を調べてみても、彼の記録だけが壊れていたようでね。調べている間に、同様の不審な事故死が三件も続いた。仮想空間の反対派でもあったし、三人の兵士の死亡原因が『エリスプログラム』の意思による殺人の可能性はないのか、という話も出たみたいだ」
『エリスプログラム』の母体は人工知能であるので、そんな発想をしたのは一部の夢見がちな科学者である――、スウェンは堅苦しい話の息抜きをするように、「真意のほどは定かではないけれど」として語った。
幅の長い非常階段は、それぞれ三十段で一区切りされていて、どこまでも続いているような錯覚さえ覚えた。
日本人風の男の方が、小さなエルを気に掛けて、時折思慮深げな眼差しを向け「大丈夫か?」と訊いた。子供のような扱いに、エルは苦笑を返して「大丈夫」と答えた。
仏頂面の男は、スウェンのすぐ後ろを進み、相変わらず面白くもないといった顔で、大きな身体を半ば前に倒して先を進んでいた。不機嫌なのは俺がいるせいだろうな、と勘繰ってしまい、エルも無性に苛々した。
駄目だ、やっぱりあいつとは絶対に馬が合わない。
体力的な疲労もあって、エルが大男の背中を忌々しげに睨みつける中、スウェンの話は続いた。
「研究に参加した兵士達の中で、仮想空間には人のような意思があるのではと証言した者もあったようだけど、僕としては、人工知能を持った『エリスプログラム』に、人のような意思や人格が宿るとは考えられないんだよねぇ。『悪夢のようにするりと触れてくるような悪寒を感じる時がある』なんて証言も、現実的じゃないし?」
まるで幽霊を怖がる大人みたいだな、と思ったエルは、そういえばエリスって女性の名前だなと、遅れて小さな疑問が込み上げた。
「『エリス』ってキーワードがあるけど、それって、システムの名前ってだけじゃないの?」
「モデルがいる」
これまでだんまりを決め込んでいた仏頂面の男が、唐突にそう答えた。しばらく続く言葉を待っていたものの、それ以上の詳細を言う者がいなかったので、エルは「そう」とだけ相槌を打って話を終わらせた。
ただの名前の由来だとしても、少し冷静になって考えてみれば、研究に関わる人物がモデルになったのだろうとは予想が付く。スウェンが黙っているという事は、多分そういう事だろうし、彼自身が多くは知らせたくない思惑もあるのかもしれない。
うん、俺としても全部知りたいわけじゃないし、質問には気を付けよう。
一人頷くエルを見て、潔い引き際を察したスウェンが、取り繕うような笑みを浮かべて説明を再開した。
「ひとまず『エリスプログラム』についてだけれど、三人目の死亡者が出てようやく、『仮想空間エリス』にバグがあると数値で確認が取れた――簡単に例えると、『エリスプログラム』の正常稼働反応が青い波長だとすると、見逃してしまうぐらい小さい反応の中に、時々プログラムに沿わない赤い波長が起こるのが確認されたんだ」
手振りを交えながら、スウェンは、エルに伝わるよう説明した。
「でも残念ながら、亡くなった三人の兵士の死亡時刻とは重ならなかったから、『深追いし過ぎた為に誰かに意図的に殺害された』説も捨てきれないし、そうなると、当時いた研究メンバーの中に内部犯がいたという事になるけど、僕らが直面している問題は、シミュレーション・システムが人間を殺せてしまうという事だね」
「夢を見ている状態で人間が死んでしまう、って事でいいんだよな……?」
エルが頭の中を整理しながら口にすると、スウェンが「そうだよ」と、話の重々しさを感じさせないような軽い調子で答えた。
「軍としては、貴重な研究を諦めたくなかったんだろうね。問題はなかったのか、改めて徹底して急ぎ調べられたらしいけれど、その間に数名の調査員が行方不明になり、数日も経たないうちに基地内で死体となって発見された」
けれど実際は、調査員以外にも犠牲者だと思われる不審死があったらしい、とスウェンは続けた。研究所に出入りしていた者であったり、基地内の全く関わりのない軍人だったりと、法則性がなくなって来たのだという。
「『仮想空間エリス』に入っていないにも関わらず、死ぬ者が出始めた。システムの暴走の可能性や、それを引き起こしている内部犯、もしくは外部犯の可能性も出て来て、事は緊急性を要すると判断され直ちに研究部署の閉鎖が決まった」
調査に時間を掛けている間にも死亡者が続く可能性を見越し、軍は一旦、問題の研究事態を封印する事にした。謎の死については、それと同時にピタリと止まったという。
しかし、とスウェンは気楽な様子を一転させた。
「――当時の研究に関わっていたマルクという男が、実験資料と一部のデータを持って姿をくらまし、その直後から、基地外で民間人が消失してしまう事件が起こり始めた」
エルの頭にピンと来たのは、最近県内を騒がせている連続行方不明の事件だった。
ああ、何だか聞いてはいけないような、重い感じになって来たぞ。エルは、そう嫌な予感を覚え、思わず肩から斜めにさげているベルト部分を掴んだ。ボストンバッグの口から顔を出しているクロエが、エルを励ますように頭を摺り寄せる。
「誰も帰って来ていないとニュースでは伝えられているけど、実際に遺体のいくつかは発見されているんだ。まぁ酷いもんだよ、パーツもバラバラで――」
そこで、スウェンが空気を変えるように顔を上げ、エルを肩越しに振り返って「ああ、死体の詳細までは要らないか」と爽やかに微笑んだ。
エルは思わず顔を引き攣らせたが、どうにか精一杯肯き返した。
「実はマルクの方で『エリスプログラム』を、再稼働してしまったみたいでね。実に信じ難い事だけど、彼の方でバーチャル世界に、人間を肉体ごと取り込む事も可能になっているようだ。彼の目的は不明だし、色々と物騒な憶測や軍の事情もあって――まぁ、バーチャルに物質が入り込むなんて、そもそも現実的じゃないからねぇ」
その後一悶着あって、とスウェンは詳細を省くように視線を階段の先へと戻した。
「ようやくマルクの行方を掴んだのは良かったけど、ある人の一人娘が誘拐されてしまって、僕らは正規ルートで『仮想空間エリス』に入る事になったんだ。実際に身体は研究所の方にあって、この世界用にリアルに再現されている感じかな」
「ふうん? そうは見えないけど」
「『エリスプログラム』が造り上げる世界は、ほぼ現実世界と変わらないリアリティーがあるからね。エキストラではないから、怪我をすれば血も出るし、当然痛みもあるよ」
スウェンが手を差し出して来たので、エルは、彼の考えを察して両手で触れてみた。見た目の予想を裏切らず、血が通う暖かさもあり、脈拍も問題なく測れ、まるで本物としか思えない。
手短に語られ終わった直前の話があったせいか、男性にしては指の細いスウェンの大きな手に触れたエルの脳裏に、一つの憶測が過ぎった。もしかして、という可能性だが、現時点では否定する要素の方が少なかった。
いっぱいっぱいなので、すぐには考えられそうにもない。エルが、ひとまず後でいいかと、その思案を一旦思考の脇に置いた時、触れていたスウェンの指先が僅かに強張った。
すぐに動揺は隠れてしまったが、取り繕うように彼の手が、するり、と離れて行った。
……あ、考えている事を悟られたかもしれないな。
それでも何も言わないという事は、これは保護ではなく、利害の一致があって連れる事にした彼自身の判断なのだろう。つまり、エルの推測は高い確率であたっており、だからこそ、スウェンは自分を同行させたのだと理解した。
なるほどなぁ、と半ば腑に落ちた。相手は任務を受けた軍人なので、エルとしては、その方がシンプルで後腐れなくて好みではある。とはいえ、考えなくてはいけない問題は山積みだけれど……
「今回の件については必要な人員がかき集められていて、僕ら以外は『外』の世界でそれぞれ頑張っている感じかな。今回命じられた任務は娘の救出と、内側から『エリスプログラム』を破壊する事だよ」
階段の先へ目を向けたスウェンが、取り繕うように調子の良い声でそう言った。
これは現状を把握するだけでも、かなり骨が折れそうだ。今後の行動に関して考えるために、どうすればいいのか、心の整理も付けなければならないだろう。
ああ、なんだか面倒な事に巻き込まれたな、とエルは粗方の事情を察して吐息をこぼした。




