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十一章 最後のセキュリテイー・エリア(1)

 砂浜に立つ緑の扉は、鼠の顔を象ったドアノブが付いていた。建築材料の一つである板きれ一枚の扉が、どのような仕組みで砂浜に直立しているのか不思議でならない、という不自然さが第一印象だった。


 半信半疑、渋りつつもスウェンが扉のドアノブを引いてみると、扉の枠の向こうには光の洪水が渦を成して待ち構えていた。


 スウェンが持っていた探査機も、確かにここが次のセキュリティー・エリアの接合地点である事を示していた。扉の幅は大人二人分ほどで、少年が作ったらしいその『出口』を、スウェンは、何故だか気乗りしない顔でしばらく眺めていた。


「……僕が推測するに、嫌な予感しかしないんだよねぇ……出来るだけ離れないよう、同時に突入しよう」


 しばらく逡巡したものの、スウェンが諦めたようにそう告げた。


 まずスウェンとセイジが扉へ踏み込み、その直後に、念のためボストンバッグのチャックを締めたエルと、ログが光の渦へと足を踏み入れた。



 途端に視界いっぱいに緑や黄色、赤やブルーといった光が眩しく瞬いた。光の洪水は強烈な風を伴って、進む足を絡め取ろうとする。あまりの眩さに酔いそうになりながら、エルはボストンバッグを後ろに庇い、吹き飛ばされそうになる身体を両足で支えて、一歩一歩確実に先へと進んだ。



 数分も掛からずに、前触れもなく視界が開けた。


 それと同時に、覚えのある浮遊感に襲われて、出口から投げ出されたような感覚を前に、エルの思考は数秒ほど完全に停止した。


 眼前には、水で溶かしたような青い空が広がっていた。大空には、伸ばし削がれたような雲が描かれており、束の間、とても広大で美しい空だという場違いな感想も浮かんでしまった。しかし、今自分が置かれている状況を正確に把握し、エルの表情は「嘘だろ」と強張った。


 足場のない大空に放り出されている事実に、半ばパニックになりかけたところで、エルは、同じように大空に放り出されている男達と目が合った。スウェンの爽やかな顔も見事に引き攣っており、セイジは半ば放心状態だ。近くにいるログの眉間の皺は、最悪である。


 エルは、ボストンバック内でクロエが身構えて丸くなる動きを察し、慌ててバッグを胸に抱いた。スウェンが、咄嗟に近くにいたセイジの手を掴む。


 ログの顔が険悪さを増した時、唐突に四人の落下が始まった。


「あの野郎また空かよ! わざとじゃねぇのかッ!」

「そ、そそそんな事言っている場合じゃないでしょ! どうすんのさ!?」


 耳元を切る激しい風の音が、お互いの声をかき消してよく聞こえない。エルは、セイジがこちらに向かって何か叫んでいる気がしたが、距離が離れている為に聞き取れなかった。


 眼下を見降ろしたスウェンが、一同に向かって一際大きな声で叫んだ。


「そこまでの標高はないし下にはプールがある! 各自、着水に備えるんだ!」


 マジかッ、嘘だろ!?


 エルは恐怖に押し潰されそうになりながら、眼下の様子を確認した。地上には、扇形の敷地を持ったリゾートホテルらしき建築物が佇んでおり、建物の湾曲した内側を彩るように、美しい造りをした巨大なプールが設置されているのが見えた。


 ああ、もう駄目かもしれない。


 エルはそう思い、諦めたように視線を水平に向けたところで、ハッと息を呑んで目を見開いた。


 山々から連なる川が大地を流れる、広大な土地が目に飛び込んできた。ほとんどの土地には生命力溢れる高い木々が生い茂り、美しいばかりの異世界がそこには広がっていて、一瞬、呼吸すら忘れて眼前の光景に見入ってしまった。


 山の傾斜に密集する古びた小さな集落。木々が途絶えた丘には、雑草の群生があり、山の麓を横切る川や海岸沿いに広がる眼下の街並みも、望郷を垣間見たような感動を覚えるほどに美しい。


 緑の山々の向こうには果てがなく、世界は、どこまでも続いているように思えた。空気はひんやりと頬を打ち、肺に取り込まれるたび新鮮な美味さを覚える。


 その世界は、仮想空間という事実を忘れてしまいそうなほど、驚くばかりに多彩な色彩に溢れていた。エルはオジサンと見た映画の、一昔前の西洋の街並みや中東の部落村が、まるで完成された絵画のように配置されているような印象を受けた。


「着水するぞ!」


 ログの野太い号令のような声が鼓膜を叩き、エルは我に返った。しかし、気付いた時にはプールが眼前に迫っており、受け身もままならないまま水面に叩きつけられていた。


 どうにかボストンバッグは抱え込めたものの、全身が鞭で打たれたようにビリビリと痛み、空気を含んだボストンバッグが思わず手から離れた。水は容赦なくエルの全身を飲み込み、彼女の身体は、上空からの落下の衝撃で一度プールの底まで沈んだ。


 耳にまで水が浸入し、その冷たさに、思わず息を吐き出しそうになった。


 とにかく水を飲んでしまわないよう、エルは口と鼻を手で塞ぎながら、辺りの状況を確認するべく目を走らせた。ざっと目測すると、プールは深さ三メートル。頭上を女性と子供の白い素足が、水をかきながら通り過ぎてゆくのが見えた。


 空気が入ったままのボストンバッグが、浮力で上へと引き寄せられている事に気付いて、とにかくクロエを先に空気がある場所へ持って行かなければならないと考え、エルは咄嗟に、自分の身体に絡みついていたボストンバッグのベルトを離した。


 リゾートホテルの客は、空からの珍客に気付きもせずプールを楽しんでいるようだった。少し離れたプールの縁側辺りから、先に辿り着いたらしいセイジの足が見えて、水面に浮かび上がったボストンバッグを引き上げてくれたのも見えた。



 安堵したエルは、そこでふと、どうやって泳げばいいのか、全く分からない事に気付いた。



 思えば、水の中に入ったのは初めての事だ。足を精一杯動かしてみるが、頭に酸素が回らないせいか、いつまで経っても水中から身動きが取れないような錯覚に、焦りを覚えた。


 酸素が口からこぼれ、目がぐるぐると回り始める。足を動かすと余計に呼気を吐き出してしまいそうで、一旦自分を落ち着かせるべく、両手で口を塞ぎながら何か策はないだろうかと必死に考えた。


 クロエは、ちゃんと無事だっただろうか。セイジさんが回収してくれているから、大丈夫なはずだろう。セイジさんは先に上がったらしいけど、ここはかなり深いプールだがログとスウェンは大丈――


 あ。考えたら、あいつら揃って身体がデカいから、問題ないのか…………


 小さいうえ泳げない、という自身の欠点を、すぐに思いつけなかったエルが悪いのだろう。まさか、ここにきて旅の最大の天敵が『かなづち』になるとは思わなかった。一度床につければ蹴って浮上出来そうだが、どうやって潜ればいいのかも分からない。


 エルが、酸素の回らない頭で場違いな事まで考え出した時、水中に飛び込む人影があった。


 大きな手が乱暴にエルの腕を掴み、強い力で一気に水面へ引き上げた。顔が水上に出ると身体が酸素を求めて、エルは激しく咳込みながら、大きな呼吸を繰り返した。


 片方の手でエルの腕を掴んでいたログが、濡れた髪を大雑把にかき上げながら「お前はッ」と怒鳴った。


「馬鹿野郎! 泳げねぇんならそう言え! お前だけいつまでも経っても上がって来ねぇし、飛び込む前にテーブルを蹴り飛ばしちまうし、とにかく無駄に体力を使っちまっただろうがッ」


 息が吸えるようになった途端、近くから罵詈雑言を浴びせられたエルは、次第に自分の咳が落ち着いてくるのを感じながらログを睨み上げた。こちらが沈まないよう、腕を腰に回して支えてくれるのは有り難いが、その台詞は完全に選択を間違えていると思う。


 というか、テーブルにぶつかったのは俺のせいじゃなくね?


 それはログ自身の注意が足りなかっただけであって、何故そこで自分の名前が出てくるのだろうか、とエルは顔を顰めた。


「仕方ないだろッ。俺だって泳いだ事なかったのをうっかり忘れてたの! そもそも、落ちてる時にそんな事告白する時間なんかないもん!」

「何が『もん』だよッ。ったく、猫介の奴は、利口に自分でチャックを開けて泳いでもいたってのに――」

「猫介じゃなくてクロエ! 猫介ってまんま男の名前じゃんッ。なんつう失礼な――」

「はいはい、そこまで~」


 その時、頭上からスウェンが二人に声を掛けた。


「二人とも、さっさと上がっておいで。まずは無事を祝わなきゃね」


 先にプールを上がっていたスウェンが、相変わらずな二人の様子を見て、前髪をかき上げて苦笑した。ボストンバッグを抱えたセイジの足元では、身震いで大まかな水気を払ったクロエが忙しそうに毛繕いを行っている。


 良かった、クロエは無事だ……


 思わず安堵の息をこぼした時、支えてくれているログの腕にぐっと力が入り、半ば彼の方へ押しつけられてしまい、エルは訝しげにログへ視線を戻した。ログはむっつりと顔をそらしているばかりで、追って文句を言ってくる気配もない。


 エルは首を捻ったが、スウェンからもう一度促されて、こちらに手を伸ばしてきたセイジの手を掴んでプールから上がった。そのすぐ後ろから、ログが大きな水しぶきを上げて後に続いた。


「彼女は、すごいな。賢くて落ち着いている」


 エルの身体に怪我もない事を確認したセイジが、両手で髪を後ろへと撫でつけながら水気を拭うログを横目に、そう口にした。エルは、セイジからボストンバッグを受け取りながら、誇らしげに肯いた。


「うん、クロエはとびきり賢くて、美人な猫なんだ」


 セイジは「そうか」と言って微笑んだ。クロエを一人の女性として扱ってくれるような台詞が嬉しくて、エルも「ありがとう」と答えてはにかんだ。エルにとって、クロエは、母親や姉のような存在でもあったのだ。


 再会を喜ぶエルに、クロエが「にゃん」と嬉しそうに鳴き、濡れた彼女の頬を舐めた。

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