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九章 夢人と宿主(2)上

 しばらくじっと息を潜めていたが、追手が来る様子はなかった。もしかしたら鼠男達は、三人の軍人を追いかけるのに忙しいのかもしれない。


 無人の工場に入ってすぐの場所で座り込んだエルは、そう考えながら膝を引き寄せた。軍が追っているマルクという科学者の命令で、この世界のセキュリティーの一部が動いているとしたら、鼠男が、見も知らぬエルへ執着しないのも肯ける。


「……でも俺、詳しくは知らないから、大まかな予想しか立てられないんだけど」


 セキュリティーは、侵入者に対して過剰に反応する。エルも当然のように襲われている現状があるから、ほんの少しだけ排除対象の優先順位が決められている、と考える方が辻褄も合うような気がする。


 どちらかは分からないけれど、少しは身体を休ませる時間があるということだ。


 エルは目を閉じ、工場内に吹きこむ風に身体の熱が冷まってくれるのを待った。目を閉じていると思考が勝手に回り始め、仮想空間に入ってからの出来事が、走馬燈のように脳裏を過ぎていった。




 ……『彼女』はまだ眠りについており、その支配は完全ではないので猶予は残されている。各エリアには『宿主』が存在しており、人間が造り出した機械で『宿主』の世界を完全に制御する事は不可能であるから、『彼ら』の抵抗と手助けもあって、『エリスの世界』へ続く道は、閉ざされる事なく守られているはずだ。


 その身一つで突破するにはあまりにも難しいが、でも、やらねばならない。己が『約束』した結末を迎える為に……




 ハッとして、エルは目を見開いた。


思考していたはずの事が途端におぼろげになり、鈍い眩暈を覚えた一瞬、目の奥を刺すような頭痛に顔を顰めた。


 一体何の話だろう。俺は、今、何を考えていたんだ……?


 続けて、脳裏に見覚えのない記憶がフラッシュバックした。それはセピア色の映像だったが、色彩を鮮明に蘇らせて、エルの目の奥で揺らいだ。


               ===


 蘇った記憶の中で、懐かしい古い家の戸が見えた。戸の前には、見知らぬ小さな靴を履いた子供の足がある。子供は左足に包帯を巻いていた。開いた戸には、サンダルを履いた大きな男の足もあった。


 大きな男の足は、見慣れたオジサンのものだと分かった。下を見続けて動かないでいる子供の前に、一歩、サンダルを履いた男の足が踏み出される。


 チリン、と鈴の音が木霊した。


 小さな子供の足元を、毛並みの良い若々しい一匹の美しい黒猫が通り過ぎた。傍らで白衣の裾が揺れて、脇から飛び出して来たらしい犬が横を走り去る……


               ===

 

 映像は、そこでプツリと途切れてしまった。五感が急速に元の時間軸へと引き戻され、エルは強い吐き気を覚えた。


 気付けば、年老いたクロエが心配そうにエルを見つめていた。あれから十四年も生き続けている黒猫は、記憶の映像と比べると、昔より一回り小さくなったように思えた。


 クロエが励ますように、地面についてあったエルの手身をすり寄せた。吐き気を抑え込んだエルは、クロエの頭を撫でて「大丈夫だよ」と声を掛けた。


 先程フラッシュバックした映像は、恐らくオジサンとの出会いの記憶だろう。


 気付いた時には一緒に寝起きし、クロエとポタロウが側にいたが、エルはオジサンとの出会いを覚えていなかった。事故のせいだとオジサンは言っていたし、エルもそうだと信じて疑わなかったが、映像の中で幼い自分が、自らの足でしっかりと立っていた事に違和感を覚えた。


 俺は自分の足でオジサンの家に行ったのか……?


 オジサンに聞いた話では、かなり重症だったと教えられていた。見える範囲の傷が癒えても、しばらくは絶対安静で、出来るだけ歩くなと注意もされた覚えもある。


 思案に耽って注意がそれたエルは、こちらに近づいて来る一組の足音に気付くのが遅れた。工場内に転がる何かを蹴ってしまった物音が耳に飛び込んできてようやく、エルはギクリとして、反射的に上体ごと振り返った。


「誰だッ」


 思わず警戒の声を発すると、工場の奥から恐る恐るこちらへ近づいて来ていた一人の少年が、驚いたように飛び上がって足を止めた。



「お、俺は、君に危害を加えるような人じゃないよ。本当だよ。だだだだから、怖い顔しないでよぉ」



 少年は十六、七歳ぐらいの西洋人で、白いシャツに黒いベストとネクタイ、スラックスのズボンという清潔感漂う格好をしていた。お洒落なカフェかBARのウェイター、もしくは見習い執事のようにも見える。


 癖っ毛のくすんだ砂色の髪をしており、身体の線は少し細い。頼りなさそうな臆病さが、震える足元や下がった目尻からは見て取れた。目鼻立ちはある程度整っているようにも思えたが、泣きそうな表情のせいか、不思議と『特徴がなく平凡寄りの少年である』という曖昧な印象を覚えた。


「そ、その、体調が良くないのかと思って、心配で……」


 少年は、半ば目尻に涙を浮かべてそう言った。まるで蛇に睨まれた仔兎のようにビクビクとしており、一歩前進した彼は、エルに警戒されたと遅れて実感したのか、鼻をぐすぐすやりながら胸の前で両手を組み「ほんとだよ、全然敵意はないんだよ」と涙声で必死に首を左右に振った。


 ……なんだか、ホテルマンとは違った意味で、面倒そうなタイプだな。


 エルは心の中で呟いたが、何故か、特に目立った要素もないその少年に目が引かれてもいた。他のエキストラとは、どこか違うように感じたのだ。少年がまとう空気の密度は、このエリアに来て出会ったどの人間よりも、人間らしく思えた。


 どうやら彼に敵意はないらしい。エルは一旦殺気を抑え、彼を安心させるようにぎこちなく笑いかけた。


「ごめん、俺は平気だよ。走って来たから、少し休んでいただけなんだ」


 エルがそう告げると、少年は、恐る恐るこちらに近づきながら「本当に?」と訊いた。妙な質問だなと思いながら、エルは、コクリと頷いて見せた。


 ひとまず敵対心は解いてもらったと安心したのか、少年は今度は、毛繕いを始めたクロエをチラリと見た。好奇心が灯った鳶色の瞳を、エルとクロエへ往復させた後、遠慮がちに口を開いた。


「……この子、君の猫?」

「うん。クロエって言うんだ」

「あの、その……ちょっとだけ、触ってもいいかい?」


 エルが肯くと、少年はクロエの前にしゃがみ込んだ。彼は、躊躇しつつ彼女の頭をそっと撫でたが、すぐに手を引っ込めてしまう。


 クロエは、害のない人間には爪を立てたりしない猫だ。エルがそう口にする前に、少年の涙を止めるために一役買う事にしたらしいクロエが、エルに一度目配せし、手をひっこめた少年の膝に己の頭をすり寄せて「ニャーン」と可愛らしい声で鳴いた。


 少年は感激したのか、クロエの頭を撫で、続いて背中も撫でて幸せそうに表情を綻ばせた。エルは彼がこちらに注意を払っていない間に、近い距離から少年を改めて観察した。


 背丈は、恐らくエルよりも頭一個半ぐらいは高い。言動は幼いし、弱々しい目は守られる側のそれだとも分かったので、とりあえず自分よりは年下ぐらいだろうとだけ把握しておいた。外国人風なので、年齢的にはもっと若い可能性はあるが、年上か年下か、それぐらい理解しておけば十分だろう。


 クロエと親睦を深めていた少年が、ふと思い出したように怯えた目で外を見やった。異変のない様子を確認すると、ほっと胸を撫で下ろし、それからエルを振り返った。


「君も、誰かに追われたの?」

「え? どうして俺が誰かに追われたと思ったの?」


 エルが驚いて尋ね返すと、少年が困ったように視線を泳がせ、両手の指先同士を意味もなく擦りながら、「その」と躊躇いつつも答えた。


「俺、変な奴らに追われているんだ。鼠の顔した奴らなんだけど……」


 予想外の内容だったため、エルは返す言葉が出て来なかった。自分が置かれている状況を改めて頭の中で整理し、先程の出来事について順を追って思い出したところで、エルは、思わず「はぁ?」と素っ頓狂な声を上げた。


 そんな馬鹿な。だって、あれは『侵入者向け』のセキュリティーのはずでは……?


 すると、少年はエルの反応をどう受け取ったのか、途端に「当然な反応だと思うよ。誰も信じてくれなかったし」と気落ちした様子でエルの隣に腰を降ろし、膝を抱えて話し始めた。


「……突然だったんだ。あいつらが出て来て、怖い顔で俺の事を追い駆けてきたんだ。街の人達が、奴らと入れ変わって、もう滅茶苦茶だ。きっと俺を掴まえて、取って食うつもりなんだよ。俺、何も――ぐすッ――何も悪い事してないのに」


 少年は目尻に涙を浮かべたが、――不意に鳶色の瞳を見開き、顔を強張らせて素早く外の方へ顔を向けた。


 その表情は、敏感に何かを察知したような顔だった。違和感や殺気は覚えなかったものの、エルは少年の反応が気になって、腰を屈めつつ、彼が向ける視線の先へと目をやった。



 しばらくもしないうちに、桑を背負った麦わら帽子の老人が、片足を引きずりながら工場の駐車場にやってきた。彼はこちらには目を向けず、駐車場の奥まで進んだところで、腰に巻いていた布を地面に敷いた。

 老人は二人の視線に気付く様子もなく、一休憩を取るように、その場に「どっこいしょ」と腰を下ろした。強い日差しを仰ぎ、それから首に巻いていたタオルで大雑把に顔の汗を拭うと、腰に提げていた水筒を取り出して飲み始める。



 不意に、エルは首の後ろが僅かに焼けるような警戒心を覚えた。


 足元にいたはずのクロエが、ボストンバックの中に飛び込んで低い警戒の声を上げた。ああ、もしかしたら、あのエキストラはこれから鼠男にとって変わるための『駒』に選ばれてここへ来たのかもしれない、と用心深くなったエルの思考が、勝手にそれを想像して緊張感が込み上げた。


 いいや、きっと、あの老人は少しもしないうちに『敵』になる。


 理屈や法則は知らないが、そうなるだろうとエルは強い予感を覚えた。しかし、そうすると一つの疑問が込み上げる。それは、老人が現れるよりも早く違和感を察知し、これから鼠男が現れる事を予期するかのように恐怖に震える少年の存在だ。



 そもそも、鼠男に追われているというこの少年は、一体何者なのだろうか。もしかして、自分と同じように『外』からやって来た人間……?



 いや、それはいな、とエルは後者の可能性をすぐに否定した。仮想空間に入っている者の数は、『外』で把握済みだとスウェンは言っていたから、増えていれば『外』が気付いて彼に報告するだろう。現時点でそのような動きはないから、仮想空間内に入っている人間の頭数に変化はない、という事になる。


 鼠男達は、この世界のセキュリティーだ。侵入者を始末する為に動いている彼らが、この少年を追っているというのであれば、彼はただのエキストラではない重要な位置付けにあるのかもしれない。


 謎だらけである事に変わりはないが、ハッキリしている事は一つだ。


 エル達の『敵』であるセキュリティーに追われているというのであれば、少年は、エル達にとって敵ではない。だから、エルは彼を『敵』に渡してはいけないし、彼らが少年に害を加えるというのなら、エルは彼を守る。



 水筒を戻した老人の手が、カタカタと震え始めた。老人の身体から発せられる強い違和感を肌に覚えて、エルは、ああ、来るぞ、と静かに身構えた。

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