一章 白いホテルの惨事(3)
ランチバイキングのメニューは、サラダ、炒め物、煮物、スープ、創作料理、デザート等、種類豊富で彩りも豊かだった。
しかし、どうしてか、テーブルに戻る頃には食欲は減退していた。エルは、とりあえず胃に詰めていったものの、食べたという満足感は薄く、妙な味気なさを覚えた。クロエも、ホテルマンが持って来てくれた皿の上の食事をペロリと平らげたが、いつものように丹念に顔や手を洗う事をしなかった。
一人と一匹は、食後にミルクたっぷりの珈琲と、小皿の牛乳で一息吐いた。しっかり食べたはずだが、やはり、どうにも普段の満足感に欠けるような気がする。
エルは不思議に思いながら、辺りの様子を窺った。
会場にいる客の数や雰囲気は変わっておらず、婦人達は相変わらず珈琲とデザートでお喋りを楽しんでおり、サラリーマン風の男達は、小難しい話に花を咲かせていた。
まるで、映画のワンシーンをずっと繰り返しているような、奇妙な感覚がエルの中に湧き上がった。思い返すと、食べたはずの料理の味や匂いも、ほとんどエルの中には記憶として残っていなかった。
そう言えば、どうして室内なのに、俺はコートを脱いでいないのだろう?
いつもはない失態にようやく気付いて、エルは首を捻った。気のせいか、室内の温度も強くは感じられないような気がする。いつもなら室内ではコートを脱ぐか、袖を捲くるはずだが、と思わず着衣をつまんでしげしげと眺めてしまう。
誕生日に大事な育て親からもらった一張羅のコートだ。袖に食べ物でもついたら大変なので、普段はきちんと外すのだが……
「おい」
その時、野太い声が聞こえて、エルは顔を上げた。
二つ向こうの席にいた、あの暗いブラウンの髪をした、無駄に大きくてどこもかしこもがっしりと太い無愛想な顰め面男と目が合った。彼は椅子の背に身体を預け、上体の半分だけをこちらに傾けていた。
「なに」
エルがそう言って睨み返すと、男は怪訝な顔で、奇妙なものを窺う眼差しをした。
「お前、ここの『エキストラ』じゃねぇのか?」
「は? エキストラって?」
エルが答えるや否や、頑丈な椅子が倒れる音が響き渡った。
彼のそばにいた大柄な日本人風の男が、素っ頓狂な声を上げて過剰反応したのだ。こちらを向いた日本人寄りの風貌をした男の、ひどく驚いた表情を目に止めた途端、エルは、ますます眉を顰めた。
「何なのさ、一体?」
エルが憮然と問い掛けると、日本人風の男が「え、君……だって、その」と、言葉を忘れたような曖昧な声を上げた。彼らの奇妙な反応について、理由を早く知りたかったエルは、いい歳した大人なんだからハッキリ話して欲しいんだが、と苛立った。
……あれ? そういえば、こいつらかなり日本語が上手だな?
苛立ちを口にしようとしたエルは、彼らの日本語が達者な事について遅れて気付いた。沖縄に住んで長いために、流暢な日本語を話す外国人もいるので、やはり基地の人間だろうかと考えようとしたが、――そんな余裕は、次の瞬間には吹き飛んでしまっていた。
前触れもなく、大通り側に面していた窓ガラスが、内側に向けて一斉に勢いよく砕け散った。
ガラスを叩き割った爆音と客達の悲鳴が、嵐のような騒音と化して室内をつんざいた。何者かの侵入と同時に銃弾が次々に飛び込んで来て、エルは、反射的にクロエを抱えてテーブルの下に避難し、両耳を塞いでうずくまった。
突然の発砲音と騒ぎに理解が追い付けなかった。自分が悲鳴を上げているような気もしたが、破壊音と銃声に聴覚は麻痺していた。銀行強盗やハイジャックなど、滅多に起こらないような事件に巻き込まれたらしい事はだけは分かった。
不意に、すぐそばで、ドサリと何かが落ちる振動を覚えた。
両耳を塞ぎ目を閉じて蹲っていたエルは、足元にクロエの温もりがなくなっている事に気付いてギョッとした。素早く顔を上げて確認すると、音がした場所に、ボストンバッグの端を咥え持ったクロエがいた。
危険な状況だというのに、旅を続けるために必要な鞄を、わざわざ保護してくれたらしい。どうにか彼女だけでも先に安全な場所へ、とエルは思った。
「ックロエ、先に逃げろ! 安全な場所にいるんだ!」
エルの切羽詰まった声を聞くと、クロエは躊躇いがちに何度かエルを見て、それからボストンバッグをテーブルの下に残して駆けて行った。賢い猫なので、後で合流出来るようどこかに隠れていてくれればいいのだが、とエルは祈った。
銃声と悲鳴は続いていて、クロエが去って少しもしないうちに、天井のシャンデリアが粉々に砕けて会場に降り注ぎ、エルが隠れているテーブルの上にも落ちて来た。
このまま隠れていても、安全性が保障されているわけではない。
逃げ惑う人々の悲鳴と銃声の嵐を聞いていたエルは、状況を確認すべく、テーブルの下からそろりと抜け出した。
近くのテーブル席は、ほとんどひっくり返ってしまっていた。盾として使えそうなテーブルまで、エルは出来るだけ身を低くして進んだ。銃弾で壁や床が砕けたせいで、辺りには嫌な土埃が立ち始めていた。
エルは、横倒しになっているテーブルに辿りつくと、それを背に、恐る恐る向こうの様子を覗き込んだ。
ワンピースドレスの女性が、四メートル先を走り横切っていく様子が目に飛び込んで来た。しかし、エルが「あ」と声を上げる間もなく、どこからか流れて来た銃弾が女性の背中を撃ち抜いて、女性は床に崩れ落ちてピクリとも動かなくなった。
それを目撃した途端、事件に巻き込まれた実感が腹の底から込み上げ、死の恐怖がエルの全身を強張らせた。心臓が嫌な音を立て、耳の奥で騒ぎ出す。
唐突に巻き込まれた戦闘に、どうして良いのか分からない。
恐怖で胸が痛み、それはあっという間に手足まで広がった。クロエが先に安全な場所に逃げてくれて、本当に良かったと思う。そうでなければ、今の比ではなかっただろう。
動けないのは遠くない死を意味する。
エルは、育て親に教えられた言葉で自分を叱責した。気を引き締めて、時々途切れる銃声の嵐を聞きながら、再びテーブルからそっと顔を覗かせた。
女の死体の向こうを凝視すると、サングラスを掛けた黒服の男達が、それぞれ種類の違うサブマシンガンを乱射している様子が確認出来た。男達は予備として他の銃器も身体に所持しており、ホテルの従業員も客も、見境なしに殺し続けている。
このままここにいたら、殺される。
エルは唾を飲み込んだ。空気が汚れて視界が更に悪くなる中、消炎と破壊の匂いが、全身の神経を勝手に研ぎ澄ませて強い緊張感を生んだ。
その時、視線の先で、二人の黒服の男達が銃弾を受けて崩れ落ち、黒服に反撃する者がいるらしいとエルは気付いた。絶命した黒服の男が持っていたのか、予備として持っていた武器の一つが落とされたのか、爆音と共に一丁のピストルが滑って来て、エルから二メートル程の距離で止まった。
「――俺は、死にたくない」
エルの中で、死への恐怖と、人道に反する行為が天秤にかけられた。
恐ろしさに胸の奥が痛み、全身がギシリギシリと軋むように感じる。いくら自分の身を守る為だとしても、殺生は全くの別問題だ。しかし、生き残るためには、反撃している何者かと同様の手段に出なければならないのも確かだった。
エルは訓練は受けていたが、実戦の経験はなかった。
訓練以外で聞く久しぶりの銃声に怯えながら、エルは、生き残るために震える手を慎重にピストルへと伸ばした。
もう少し、もう少しで届く……
その時、視界の先に転がっていたピストルの前に、黒光りする革の靴が映り込んだ。
エルは、我に返って顔を上げた。どうやら迷いが、戦闘訓練で鍛えられたはずの五感を鈍らせたらしい。気付くとすぐそこに、サブマシンガンを抱えた黒服の男が立っていた。
その男の姿をエルが認識すると同時に、彼も、サングラス越しにエルを見つめ返した。
標的を見付けた人間の殺意を全身に覚え、緊迫感が肌を刺した。エルは、育て親の教えを無駄にするものかと、短く息を吸い込んで恐怖を抑え込んだ。床に転がっていたピストルを素早く拾い上げると、ロックが解除されている事を確認し、銃口を敵へ向けてすぐ躊躇する事無く引き金を引いた。
発砲の鈍い反動を覚えた二発の銃声の後、黒服の男の身体が崩れ落ちた。エルは消炎の立ち上る銃口の先に崩れ落ちた、自分が殺した男の死体を茫然と見つめた。
エルは、自分が狙撃に向いていない事は知っていた。
確実に相手に傷を負わせ、殺してしまえる凶器を使う事に恐怖を持っていたから、大事な育て親も「強制はしないけどな」と笑ってこう言った。
――平和な日本じゃ必要ないだろうが、護身用に一通り使い方だけでも学んでおいた方がいい。
その時、一際細い銃声が耳をついた。煙った空間の向こうから一つの火花が上がると同時に、我に返ったエルの顔のすぐ横を、鋭い風が突き抜けていった。
風に舞った髪先がチリッと焼け、発砲されたのだと遅れて気付いた。
エルはギクリとして、慌ててテーブルの後ろへ身を隠して呼吸を整えた。戦いの場では、少しの隙が命取りになる。今は迷ったり、過去を思い出している場合じゃない。エルは生きて、クロエと合流しなければならないのだ。
この場を切り抜けるためにも、今一度、自分が置かれている状況を確認しようと目を走らせたところで、エルは、縁が破損した隣の立てられたテーブルの背に、一人の男が座っている事に気付いて目を止めた。
それは金髪碧眼の、あの外国人だった。