九章 夢人と宿主(1)上
クロエと共に風呂を済ませたエルは、飽きもせずテラスから見える風景を眺めていた。
先程とは違う、強過ぎない海風が風呂上がりの身体に心地良い。風呂に入って疲労も回復してくれたのか、体調も絶好調のようで身体が軽く「今ならなんでもやれそうな気がする」と気力と自信が満ち、心身共に良好だった。
どうやら、それはクロエも同じらしい。風呂上がりのドライヤーで一時的に機嫌が悪くなっていたものの、今は活き活きとした眼差しで、眼下の景色を眺めていた。
エルが風呂から上がり、入れ替わるようにセイジが風呂に入ってからというもの、リビングは妙に静まり返っていた。エルが風呂から上がった際、テーブルには瓶の牛乳とパンが置かれていて、エルとクロエが水分補給を行い、パンを食べている間も、誰も言葉を発しなかった。
テラスに身体を預けたまま、エルは重々しい沈黙が漂うリビングへ目を向け、変な連中だな、と不思議に思って顔を顰めた。
もしかしたら誤って浴室の扉を開けた時の、閉めるという常識を思いつけなかった事を今になって実感し、反省しているのかもしれない。ログも仏頂面で何事か考えるように押し黙っていたので、なんだか一本取ってやったような気持ちも込み上げ、それであれば少し放っておこう、とエルは楽観的に考え直した。
部屋の出入り口の扉がきちんと閉められているせいか、室内の風の通りも穏やかだ。時間が、とてもゆっくり流れているようにさえ感じた。
近いうちに俺は、『約束』の内容を全て思い出して、そのための何かを成し遂げなければならないのだろう。
エルは、テラスから広がる景色を眺めながら、胸の奥に感じる焦燥感について考えてみた。理由は分からないけれど、虫食いだらけの記憶が本能のようにせっついてくるような気がする。クロエに打ち明けられない悩みは初めてで、唯一把握している『約束』の結末をぼんやりと思った。
その間に、セイジがリビングに戻ってきた。次はログの番だったのだが、彼は深く思案するように、胸の前で腕を組んだまま、テーブルの方に仏頂面を向けていた。
セイジとスウェンが顔を見合わせ、珍しいとばかりに疑問の目を向けた。ログが気付いたように顔を上げ、怪訝な顔でガリガリと頭をかき、それから無言のまま立ち上がって浴室に向かっていった。
リビングの無言のやりとりに気付かないまま、ぼんやりと考え続けるエルの足元で、クロエが心地良い風に欠伸をこぼした。スウェンが、再び組み合わせ手に額を押し付け、セイジがフォローの言葉を探せず視線を泳がせる。
「…………この僕が、女の子を『男』と間違えるなんて」
しばらく経った頃、沈黙が続いていたリビングから、苦渋の呟きが上がった。
エルは声に気付いて振り返った。三人掛けソファには、ひどく落ち込んでいる様子のスウェンがおり、隣にいるセイジに「あの人、どうしたの」と目で問いと、何故か「すまない」と謝られたうえ、申し訳なさそうに肩身を縮められてしまった。
「あり得ない。だって、しばらく一緒に行動していながら、僕が少女と見抜けなくて、ログだけが気付いていたんだよ? この僕が、女の子を少年と誤解したまま、裸を見るまで気付かないとか、あっちゃならない事だよッ」
俯いていたスウェンが、顔を上げて悔しそうに拳で膝を叩いた。女性を見る目は誰よりもあり、経験も豊富で何十人と口説き落としてきたというのに、と彼は自慢にもならないような事を口走りながら頭を抱えた。
……もしかして、そんな下らない事を、ずっと考えていたのだろうか?
これまでのスウェンの沈黙の理由を察し、エルは馬鹿を見るような眼差しを浮かべてしまった。セイジに関しては、『開けたら閉める』という事について反省しているようだが、スウェンは、性別を見抜けなかった事に対して苦悩しているのだ。
生きる上で特に必要な感覚とも思えないし、実に阿呆らしい理由だと思う。
「どうしよう。知っても尚、今の君が少年にしか見えないなんて……あの時はきちんと女の子に見えていたはずなのに、どの角度から見ても健気で幼い少年としか思えない…………はっ、もしかして生身の身体じゃないから、五感の合致率が百パーセントじゃないせいで僕の勘が鈍ってるということかなッ?」
顔を覆ってぶつぶつと呟いていたスウェンが、同意を求めるような目を向けてきたので、エルは顔を顰めて「そんなの知らないよ」と切り捨てた。
「俺は生身の身体のまま来ているんだから、感覚的な違いなんて分かる訳ないじゃん。そんな事よりさ、この後どうするの?」
「そんな事って――」
嘘だろマジかよ、というようにスウェンが目を剥いて絶句した。彼は再び「どうしよう」と頭を抱えたが、苦悩の末、諦めたように項垂れた。
「……何となくだけど、エル君の性格が掴めてきたような気がする……そうだね、とりあえず本題に戻ろうか。さっき確認した感じでは、支柱との距離はそんなになかったはずだから、すぐに辿りつけるはずだし」
彼はそう続けると、後ろポケットから探査機を取り出して目を落とした。
エルは、じっとしていた身体の強張りを解すべく、テラスで腕を伸ばした。ふとセイジと目が合い、「なに?」と半ば条件反射のように問い掛ける。
「その、疲れはないかと思って……」
「? ないよ、ありがとう。そっちは?」
「私も問題ない」
セイジがやんわりと苦笑を浮かべた。エルは不思議に思いつつも、クロエを抱き上げてリビングに戻った。
エルは、テラスで冷えた身体を温めるべく、一旦クロエを足元に下ろして身体を伸ばした。セイジよりも時間をかけて風呂から上がってきたログが、濡れた髪を手でかき上げつつ、怪訝そうに眉を顰めた。
「なんだ。やる気満々って感じだな?」
「悪い? 俺は元々、邪魔にならない程度にお前らに付き合うつもりだったけど、ここからは本気を出さなきゃなって思ったんだよ」
冷蔵庫の中をあさりながら、ログが「ふうん」と気のない返事をした。瓶に入った珈琲牛乳を取り出し、一気に飲み干すと、それを流し台に置きながら面白くなさそうに独り言を口にした。
「……そういうのを心境の変化っていうんだろうが。ったく、お子様には自覚もねぇのが厄介だな」
「おいコラ、聞こえてるんだけど。お前、俺に喧嘩売ってるわけ?」
「じゃあ何かきっかけがあったのかと問えば、お前は答えてくれるのか?」
こちらを振り返ったログが、持ち前のような眉間の皺を寄せながらも、どこか真面目な眼差しを向けてきた。
エルは、訝しげに思って小首を傾げた。
「あのさ、お前が何言っている事がよく分からないんだけど……?」
「ほら見ろ。やっぱりガキじゃねぇか」
「俺はガキじゃないッ」
よし、今すぐぶん殴ってやろう。
二人の様子をハラハラと見守っていたセイジが、腕を回し始めたエルを見て「エル君ひとまず落ち着こうッ」と制止の声を掛けた。続いてログの名を呼び、空気を変えるように気遣う表情で「その」と言葉を続けた。
「少ししか休めなかったようだが、身体は平気か?」
「ああ、問題ない」
ログは、セイジを見つめ返し「安心しろ、俺は問題なく動ける」と答え、頭の水分をタオルで拭い取った。
その時、スウェンが「やっぱり変だ」と立ち上がった。用済みのタオルを適当に放り投げたログが、「何が変だって?」と短く尋ね返すと、スウェンが探査機に目を落としたまま口を開いた。
「信じられないけれど……この支柱、移動しているんだよ。さっき僕がチェックした位置にないんだ。画面の表示角度が変化しているのかなと思ったんだけど、まさに今移動しているみたいで――」
その時、スウェンが不意に言葉を切って顔を上げた。
「…………建物全体が、大きく『歪んだ』」
宙を見つめたまま、スウェンが空間内のバグを視認出来るブルーの目を見開いた。『歪み』は一瞬だったが、これまでとは違って意図して動いたような嫌な感じであり、恐らくセキュリティーの感知範囲が、『移動する支柱』に合わせて動いている可能性がある、と彼はどこか茫然とした様子で呟いた。
穏やかな海風に乗って遠くの賑やかさがぼんやりと伝わってくる中、エル達は、首の後ろをチクリと刺すような殺気を察知し、反射的に身構えた。
セキュリティーが反応しているのであれば、確実に襲来を受けるのだろう。
エルは、危害を加えようとする者の気配を探るよう五感を研ぎ澄ませながら、ちらりとクロエへ目配せした。クロエが一つ肯いてボストンバックのベルトを噛み、それを部屋の隅にある棚の下まで引っ張り、奥へと潜り込んで身を隠した。
その時、唐突にピタリと風が止んだ。
遠くから聞こえていた喧騒が耳から遠のき始めた。
セイジが辺りを警戒しつつ、遠慮がちに声を発する。
「セキュリティーだとすると、相手は『島神の遣い』とやらだろうか……?」
「設定からすると、形としては兵士に近いのかもしれないけど、人間じゃないって『設定』があるから姿形の推測は難しいね」
ひとまず腕が二本で、首があるタイプだったら歓迎するけど、とスウェンが悩ましげに相槌を打った。
訊き慣れない単語を耳にしたエルは、「島神……?」と呟いて、一番近くにいたセイジに目を向けた。そういえば彼女がいない時に話したのだったと思い出し、セイジは「実は」と、先程スウェン達に語った内容をもう一度口にした。
「この島には、秩序に反した者を狩る、正しい人間の目には映らない『島神の遣い』という存在が言い伝えられているらしい」
「俺、初耳なんだけど……この島に神様がいるって事?」
エルは、コートの裾が邪魔にならないよう、前ボタンと紐をしっかりと締めながら尋ね返した。すると、ログが呆れた眼差しをエルに寄越し、「お前、風呂に入ってただろ」と突っ込みつつも説明役を引き継いだ。
「祭られている神に関しては、ただの設定上の言い回しだろうから気にすんな。問題なのは、動けねぇ神の代わりに罰を下しているらしい『島神の遣い』と呼ばれている守護兵だ。セキュリティーとしての『駒』にするなら、ちょうどいい配役だろ。それでスウェンは、次の相手は『島神の遣い』だろうと推測している」
「なるほど」
そう肯いたエルは、ふと前回の工場で出会った化け物のキャラクターを思い出してしまい、悪寒と共に苦手意識が込み上げた。
「……前回みたいな化け物だったら、嫌だなぁ…………」
どうにか鳥肌は抑えたものの、思わず本音が唇の上を滑り落ちた。
エルとしては、あまり体格差があり過ぎる敵は勘弁願いたかった。そして、出来れば、あまりホラーな外見をしていない方を希望している。恐怖物の映画に結びついてしまうようなものは、本当に苦手だ。
記憶を辿るように思案していた彼女が、またしても少しだけ猫が毛を逆立てるのような反応をするのを見て、ログは、何となくエルの苦手な物について絞り込めそうな気がした。しかし、思案しようとした矢先、前回の苦労を余計に思い出してしまい「……まぁ、ラスボス級ではないだろ」と苦い顔で呟き、その思考を放り投げた。
「俺はとりあえず、腕が二本までなら許せる」
「突然なんなのさ?」
「『敵』のキャラクターデザインだ」
「ひょ!? ちょ、腕が二本以上の想像を掻き立てるような事を言うなよッ」
エルが慌てて告げた途端、スウェンとセイジが、ログと動きを揃えて、自分達からは少し離れている位置に立っている彼女へ顔を向けた。
「お前、今、『ひょ』つったか?」
「ッ言ってない!」
「エル君、今、妙な声出さなかった? ログと何の話をしてたの?」
先程のスウェンとログの呟きと、エルとログのやりとりを今一度思い返したセイジが、「……もしかして、スウェンとログはあの工場で、とんでもない形の化け物と対峙したのだろうか」と、遅れて一つの可能性を思い浮かべた。
その時、エルの耳が、背後のテラス側から上がる微かな音を拾った。
それは紐から発生するような鋭い摩擦音で、彼女はそれを耳にした瞬間、オジサンに教え込まれた反射運動で思考を戦闘モードへ切り替えていた。
音の発生源がテラスに降り立ち踏み込んで来るのと、第一の来襲を察したエルが、振り返り様に地面を蹴り上げたのは同時だった。エルは背後に迫ったその人物の頭上まで跳躍すると、『敵』の太い首を両足で挟み込み、勢いを止めないまま後ろへと重心を傾けて落としにかかった。




