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七章 迷宮の先(5)下

 ログが欠伸を三度噛みしめ、スウェンが二回背中を伸ばし終わっても、訪れる者の気配はなかった。


 セイジが落ち着きなく立ち上がり、入口に何度も目を向けながら右左へ足を動かし歩き回った。時々、彼はスウェンとログを盗み見ては、暇を持て余したように自分の靴先へ視線を落とし、特に気にもならない靴の埃を意味もなく手で払ったりもした。


「でも、ちょっと安心したな」


 しばらく二人の様子をチラチラと目に止めていたセイジが、半ば安堵したように胸を撫で下ろして、そう呟いた。


 スウェンが、珍しく独り言をもらした彼に「何がだい?」と問い掛けると、セイジは寛いで座り込む二人を振り返り、少しだけはにかんだ。



「エル君を置いていったりは、しないんだなと思って。だって、いつもなら任務には含まれない事だからといって、構わずに行ってしまうだろう?」



 そう言って、セイジは少しだけ寂しそうに笑った。


 現地でせっかく知り合えた友人や、協力者に別れも告げずに去っていった経験は数え切れないほどあった。部隊として活動していた頃、エリート軍人としての徹底教育を施されていなかったセイジは、特に辛い思いをした。


 感情に揺らいで発言する意見など、誰も受け入れてはくれなかった。戦場下や、失敗の許されない任務で一時の感情は命取りになる。そう学んでいたから、セイジは仲間や上官を責める事も出来なかった。


 それでもセイジの良心は、後悔の痛みを忘れられないでいる。きちんとお別れをしておけば良かったと、その相手が既に他界したのだと後になって知るたび、静かな諦めに似た胸の痛みに苛まれるのだ。


 ログが「ふん」と鼻を慣らし、面倒臭そうに頭をかいた。


「スウェン隊長が待つって決めたんなら、俺も付き合うさ。あのガキは協力すると宣言もしていたし、ああ見えて結構根性もあるから、足手まといにもならねぇよ」


 スウェンは、何事か言い掛けてログを見つめ返したが、結局言葉にはせず、最後は困ったように微笑んで迷い続ける視線をそっとそらした。



 しばらく待った頃、ようやく二組の足音が聞こえ始めた。ログとスウェンも足音に気付いたが、一番に反応してガバリと顔を向けたのはセイジだった。



 セイジは振り返りざま、到着したばかりのエルとパチリと目が合った。


 日本人にしては明るい茶色の色素が際立つ大きな瞳と視線が絡まった瞬間、不意にセイジは、強い既視感を覚えた。けれど、それは本当に一瞬の事で、セイジは、それがなんであったのか思い出せなかった。


              ※※※


 到着を待たれていたエル当人は、閑散とした空間内に足を踏み入れたところで、既に事が終わってしまったらしいと何も無い空間を見てすぐに理解し、「出遅れたっぽい……」と反省を覚えて立ち止まった。


 目が合ったセイジから戸惑う様子が見受けられ、エルは、不思議に思って小首を傾げた。どうしたんだろう、と問い掛けてしまおうかと考えた時、姿勢を楽にして座り込むログとスウェンからも視線を向けられている事に気付き、なんだか居心地の悪さを覚えた。


 どうやら、自分達が最後の到着だったようだと改めて思い返しながら、改めて今の状況について考えてみた。


 待てないほど急いでいるのであれば、先に進んでいてくれても構わなかったのにと思った。しかし、少し考えたエルは、彼らの非難でもなく安堵でもない、他に何か言いたい事でもあるような表情を察し、ますます訳が分からなくなって顔を顰めた。



「……お前ら、揃いも揃ってどうしたの? なんか妙なもんでも食ったのか?」



 本人にはまるで自覚はないが、開口一番、失礼な物言いである。エルの怪訝そうな顔に、こちらの気掛かりなどまるで伝わっていないと見て取ったログは、「俺はパス」と真っ先スウェンに対応を投げた。


 スウェンは内心、拍子抜けするぐらい普段通りのエルに「再会の台詞がそれかぁ……」と呟いた。ぎこちなく愛想笑いを作り、立ち上がりざまに右手を上げて応える。


「なんだか相変わらずだねぇ、エル君。まぁ無事で何よりだよ」

「そんなに俺は弱くないって、先にそう言ったじゃん。クロエは絶対に取り戻すって、そう決めていたもん」


 胸を張るエルのボストンバックから、クロエが顔を出して「ニャーン」と楽しげに鳴いた。


 ログとセイジの視線を覚えながら、スウェンも、何食わぬ顔でエルの身体に傷がない事を確認した。黒のロングコートに少々の戦闘の残りを感じ、ふと眉根を寄せる。


「エル君、もしかして闘ったのかい?」

「馬鹿でかい奴が一匹出てきたけど、あいつと一緒だったから平気だった」


 エルはそう告げて、後ろのホテルマンを指した。


 風呂敷を背中に背負ったホテルマンが、話す機会を設けられたと気付いてすぐ、真っ先にスウェンに向かって大きく手を振った。


「無事でなによりでした、親切なお客様方! またお会いできて、私はとてもハッピーな気分ですよ!」

「え。ああ、そうだね……」


 スウェンは、途端に笑顔を引き攣らせて一歩後退した。ホテルマンは胡散臭い張り付いた笑顔のまま、続いてログとセイジにも陽気に手を振り、一人ケラケラと笑い出した。まるで、何かしら嬉しい事でもあったのだろうかと疑問を覚えるほど愉快そうだった。


 そこでスウェンは、ふと彼が背負っている風呂敷に目が止まり、その荷物の量が確実に増えている事に気付いた。スウェンの視線の先を追ったエルは、思わず舌打ちした。


 こいつ、金目の物を風呂敷に詰めやがったな。


 先程は心に余裕がなかったので、確認する事をつい忘れてしまっていたが、そういえばその問題があったのだったとエルは遅れて思い起こした。心の中で愚痴りつつ、ホテルマンの脇腹を小突き「ちょっと来て」とその腕を引っ張った。


 エルは、ホテルマンを連れたまま少し歩くと、三人に背を向けた状態で小声で彼を叱った。


「やっぱり持って来たのか。俺、置いて来いって言ったよね?」

「置いてきましたよ。ええ、私の荷物が少し大きくなったと感じるのは、あなた様の目の錯覚です」

「そう言ってる時点でアウトじゃん。白状しちゃってるようなもんだよ」

「まあまあ、細かい事はお気きになさらず。将来、ハゲてしまう確率大のあの方のようになってしまいますよ」


 ホテルマンはそう告げて、二人の間からログの方を指差した。


 エルはホテルマンに促され、肩越しに振り返って後方の様子を窺い見た。そこには、セイジとスウェンに続いて腰を上げたログがいて、何故か真っすぐ目が合った。


 視線が絡んだ途端、ログの眉間に深い皺が入った。こちらの内容は聞こえてはいないようだが、何かしら悪口を囁かれていると野性的な勘で察したらしい。エルは彼を訝しげに見据えたまま、ホテルマンに小さな声で答えた。


「……あいつがハゲるって事? そうは見えないけど」

「おほほほほほっ、毛根は繊細ですから、あのようにピリピリされていては、いずれ早いうちに彼の元を去ってしまうでしょう! 恐らく私と同じぐらいの年頃で、まだお若いようですが――ふぅ」


 そこで、ホテルマンが露骨に残念がる素振りで頭を振った。


 セイジが首を傾げる隣で、スウェンが嫌な予感に顔を歪ませて、頼むから騒ぎは起こしてくれるなよと言わんばかりに、ホテルマンとログを交互に見た。


「けれど安心して下さい、小さなお客様。私の毛根はあと百年は残りますので!」


 ホテルマンはそう誇らしげに言い切ると、ニッコリと微笑んだ。そして、ふと身体を屈めるとエルに続けて耳打ちした。


「でも実を言うと私、楽しくて仕方がないのです」

「え、ハゲる話が? お前、阿呆なの?」

「嫌ですねぇ、違いますよぉ。二人で内緒話しというのも、なかなか面白くて楽しいものなのだなぁと思いまして」

「はぁ、なるほど……?」


 内緒話の何が楽しいというのだろうか?


 けれどエルは、ひとまず肯いておく事にした。ホテルマンの心情を察する事は出来そうにもないので、放置の方向でいいだろうと判断したのだ。


 持ってきてしまった荷物に関しては、戻せるわけでもないので仕方ないと目を瞑るしかないだろう。ホテルマンにとって、この人工の夢世界こそが現実なのだ。首のない化け物との戦いでは助かった事もあり、無理やり取り上げてしまうのも可哀想に思えた。


「はぁ。しょうがない。荷物の件は、俺の目の錯覚って事でいいよ」

「あの子兎様も連れて来られれば良か――」

「おいコラッ。その件は忘れるって言ったじゃん!」

「おっと。これは失礼致しました」


 うっかりしていた、と言わんばかりにホテルマンが口に手をあて、そそくさとエルから離れていった。


 畜生、やっぱり一発殴ってやれば良かったか……ッ


 悩ましげに考えたエルは、振り返った先で驚いた顔をしたスウェンと目が合い、ホテルマンへの懸念が頭から飛んだ。何故かスウェンが、どこか呆気にとられたように口を開き、まじまじとこちらを見ていた。


「あの、どうかした……?」

「なんというか、その――なんだか君達、短い間に随分仲良くなったみたいだねぇ」

 

 予想外で少しびっくりしたんだ、とスウェンが不思議そうにぼやいた。


 エルは隣のホテルマンを見上げ、「ああ、多分……」と考えられる理由を思い浮かべた。ホテルマンは、セイジとログに向かって胡散臭い営業笑いで手を振っている。


「……なんというか、どっちも接近戦タイプだったから、なのかな」


 思わず、考えも無しに本音が口をついて出た。性格は癖があり過ぎるが、ホテルマンの戦闘スタイルには親近感も覚えるのだ。


 スウェンが「は?」と疑問の声を上げるのを聞いて、エルはハッと我に返った。彼らは何も知らないのだったと思い出し、慌てて「なんでもないッ」と取り繕った。知っている仲の方が気楽ではあるが、彼らとの距離感を計り間違えてはいけないと思った。



 エルは情報を共有したいと続けて声を掛けられたので、スウェンと一対一で報告会を開始した。謎の女の子の登場には驚かされたが、『仮想空間エリス』でアリスを届けてくれるらしい存在がいる事は、しっかりと頭に叩き入れた。



 痺れを切らしたログが、口笛を吹いて歩き回っていたホテルマンを「おい」と、友好的ではない眉間の皺を刻んだまま呼び止めた。スウェンは、続いてエルからの話を聞きながら、嫌な予感がして彼らを横目に見やった。


 するとホテルマンが、毛根の件を内緒話していたのだと得意げに明かし、ログがブチリと切れた。セイジが「ハゲはしないと思うが」と含み笑いを堪えつつ、ホテルマンに殴りかかろうとするログを後ろから羽交い締めにして落ち着けようとする向かい側で、ホテルマンが唐突に、自分がどれほど優秀なホテルマンであるかを語り出した。


 なんとも緊張感のない男達である。

 先程まであった重い空気が、嘘のようだ。


 スウェンも思わず含み笑いをもらし、報告を終えたエルに耳打ちした。


「珍しいけど、ログはどうやら、君と彼がどんな話をしたのか気になっていたみたいでね」

「そうなの?」

「うん、実は僕もなんだけれどね」


 スウェンは言いながら、二人の内緒話とやらが早とちりな懸念だったらしいと心の中で反省した。まさか、ただの毛根の件だったとは予想外だ。「ほんと、らしくないよ」と彼は呟き、ログを落ち着かせるべく歩き出した。


 しかしふと、スウェンは立ち止まり、エルを振り返った。


「そういえば、エル君。何かあった?」

「え?」

「なんだか、別れる前とは雰囲気が違うような感じがして、少し気になったんだ」

「――特に何もないよ。二人で一緒にモンスター退治をしただけ」


 エルは平気を装い、スウェンが「ふうん?」と踵を返してログ達の方へと駆けていくのを見送った。


 先程出来てしまった秘密を、エルは、彼らに打ち明ける訳にはいかなかった。誰にどんな約束をしたのか、それはいつかわされたのか……多分遠くない先までに、いずれその全てを思い出すのだろうという予感はあった。


 ここへ辿りついた時、エルには、もう一つ思い出せた記憶の風景があった。白衣から、白いシャツと水玉のネクタイを覗かせた、首に薄い古傷を持った男の人の事だった。彼が、包帯だらけのエルの幼い手を取り、オジサンに話しかけている古い記憶の光景が見えたのだ。



「ねぇ、一つだけ訊いてもいい?」



 ログとホテルマンの騒ぎが収まった頃、エルは、出口へと向かう彼らについて行きながら、こっそりスウェンを呼び止めた。彼が目を瞬いて「どうぞ?」と小首を傾げた。


「この研究をやっていた人が、アリスのお父さんなんだよね?」

「うん、前にも説明した通り、そうだよ」

「スウェンは、その人の事も苦手だった?」

「変な事を訊くね」


 スウェンは、ぎこちなく頬をかいた。


「苦手というか……まぁ、何度か見かけた事がある程度だから、どうかな」


 スウェンは答えつつ、例の所長についての記憶を辿った。


 スウェンは初対面で彼の胸倉を掴み、部下を助けないと皆殺しにすると宣言した事があった。その後は、所長である彼との接点はなかったが、まさか、こんな形で巻き込まれるとは予想にもしていなかっただけに、少し複雑でもあったのだ。


 今回の件でスウェンに話をつけたのは、現場にいたハイソンであるので、所長については他に記憶に新しいものは何もない。


「う~ん、そうだなぁ。僕が彼を見た印象では、教師か文学者を思い浮かべたな。聞いていた話とは全然違っていたけど――ああ、そういえば、首に古傷があったっけ」


 所長と初めての対面で彼の胸倉を掴み上げた時、首の古傷に気付いて、咄嗟に力を緩めたの事は印象的に覚えていた。先に死んだ部下のローランドの首にも裂傷痕があり、よく痛むのだと語っていた困った顔を唐突に思い出して、思わず手を離してしまったのである。


 脅す為に少しは痛い目に遭わせてやろうと考えていた気持ちは、そこで一気に萎えてしまっていた。殺してもどうにもならない。白衣を着ている人間が全て悪いわけじゃない。助けてくれる人間もいるのだと、スウェンは、ログやセイジ、そしてローランドから教えられたのだ。



――ひどい傷だ。大丈夫、きっと、助けて見せるから。



 エルは、物想いに耽ってしまったスウェンから視線をそらした。ホテルマンがまた何かしら失言したのか、笑顔で逃げ回り始め、それを追い駆けるログを、セイジが遅れて追う様子を眺めた。


 脳裏に浮かぶ古い記憶の中で、真っ青な顔をした白衣の男が、傷だらけの幼いエルにそう告げていた。日本人寄りで端正で優しい顔立ちをした男のシャツの襟元には、そんなに古くはない裂傷痕が白く覗いている。


 関係性はまるで分からないけれど、その男こそがこの研究をしていた『所長』で、アリスの父親なのだと、エルは不思議と腑に落ちるようにそう理解していた。

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