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七章 迷宮の先(4)下

 自分一人しかいないだろうと思っていたエルは、唐突に声を掛けられて飛び上がった。腕の中にいた小兎が驚いたように逃げ出し、立ち上がった拍子に、他の小兎達も床に飛び下りた。


 振り返りざま目に飛び込んで来たのは、開いた扉に寄りかかり、こちらを悠々と見降ろすホテルマンの姿だった。彼は腕を組み、大人ぶった顔で何度も肯いている。


「お、おおおお前、いつからそこにいたのッ!?」

「え? あなた様が『もし抱きしめて、もふもふした兎に頬ずり~』と独り言をされている辺りから、こちらにおりましたが?」

「え、マジか。俺、考えてる事、全部口に出てたの……?」


 嘘だろ、とエルが目を向けると、ホテルマンは「さあ、どうでしょうねぇ」とはぐらかすように口笛を吹いた。


「で、猫ちゃん様は見つかりましたか?」

「うッ……。そっちこそ、後ろの袋は何なのさ?」


 ホテルマンの足元に置かれた白い袋は大きく膨らみ、押し込められた品物で凹凸していた。エルが負けず嫌いで尋ね返すと、ホテルマンは、勝ち誇ったように襟を整え、それらしい表情で息を吐いた。



「まぁ、落ち着いて下さい、小さなお客様――」



 ホテルマンが凛々しさを装った声を発し、もったいぶるように、もう一度「ふっ」と息を吐いた。


「――私もまだですよ」

「駄目じゃん。何我がもの顔で盗ってるの。それ、犯罪だからね」


 指摘されたホテルマンは、途端に胡散臭い爽やかな笑顔を浮かべ「それでは私はこれにてッ」と、荷物を背負って逃げるように駆けていった。どうやら、本来の目的を忘れて本気で遊んでいたらしい。


「……これが、誘惑というトラップなのか」


 ホテルマンの事だけを悪く言えないと反省し、エルも小兎の部屋を出た。


 しかし、廊下に出て扉を完全に閉めたところで、途端に猛烈な恥ずかしさが込み上げて、エルは頭を抱えて悶絶した。



 完全に失態だった、むちゃくちゃ恥ずかしい、あのポヤポヤした笑顔を浮かべていたところを見られたッ。畜生、似合わな過ぎるの絶対に笑われるパターン……!



 その場で叫び出したいような衝動にも駆られたが――むしろ、あのホテルマンを取っ捕まえて、その記憶がなくなるよう頭に強い衝撃を与えてやりたいぐらいだが、とりあえず、今はそんな事をしている場合でもない。


 ホテルマンに関しては、後で口封じはしておこう。


 エルはどうにか自分を落ち着けて、歩き出した。ふと、先程の小兎との触れ合いを思い出して、自分の両手を見降ろしてしまう。


 両手にはまだ、小兎に触れた感触が生々しく残っていた。まるで本物のようだった。冷静に思い返すと複雑な思いにも駆られて、エルは、コートの一部ついていた小兎達の毛を手で払った。


「ん? ちょっと待てよ。動物は本物っぽいのに、それに比べて……」


 エルは視線を持ち上げて、廊下の様子を見渡した。部屋内と廊下で、受ける現実味に大きな差があるような気がする。


 あの兎は本物としか思えないのに、歩いているこの廊下だけは作り物のような違和感を覚えた。部屋の中に比べると、廊下だけが現実感のない場所のようにも思えてくるのだ。


 何百と続く左右の扉をじっと眺めていると、扉に物質としての気配や存在感がないように感じた。集中して五感を研ぎ澄ませてみると、扉から僅かに漂ってくる気配は、陽炎のように掴み処がない。暗闇に一枚の映像が投影されているだけのような、そんな薄っぺらさを覚える。


「……なるほど。フェイクの部屋は、内側だけがリアルに設定されているって事なのかもしれない」


 その中で、エルは奥の方に、濃厚な気配を覚える扉を見付けた。


 こちらからは絵柄まで確認出来ないが、自然と視線を引き寄せるような強い存在感のある扉は、そこにクロエがいるのだという期待感が込み上げた。早速確認してみた方がいい。


 エルは駆け出そうとしたが、強烈に目を引く色の扉を見付け「えッ」と声を上げて二度見してしまった。


 

 それは、何も装飾がされていない異色な扉だった。

 その扉は唯一何も柄が入っておらず、ペンキを塗りたくったような強烈な青色をしていた。扉の大きさも大人一人分が通れるほどの幅しかなく、高さもエルぐらいの身長程しかない。



 エルは何故だか、その扉がひどく気になった。


 恐る恐る近づいて扉に触れてみると、ほんの僅かに触れただけで、扉は勝手に内側へと開いてしまった。


 扉の向こうには、一点の光もない濃厚な闇だけが広がっていた。そこには、何も存在していなかった。これはまずい類のものかもしれないと思ったが、前触れもなく重力が消え失せたように身体が浮かび上がり、エルはギョッとした。


 浮いた身体は、流されるように部屋の中に引き込まれた。戻れなくなってしまっては大変だと振り返るが、既に開いた扉からは、二メートルも距離が開いてしまっていた。エルは慌てて、「うわッ、まずい」と手を伸ばしたが、当然のように届かず――



「ああ、ようやく来てくれたのね、あなた」



 その時、凛とした少女の声が空間に木霊すると同時に、何者かに背中から抱きしめられて、開いた扉へと伸ばし掛けたエルの手が宙を彷徨った。


 視界の端で、ふわりと流れる金色の髪があった。


 桃色のワンピースドレスと、レースの入った腰元の大きなリボンが視界の隅で揺れたのが見えた途端、なぜか、理由も分からず背筋が凍りついた。自分が何か大切な事を忘れてしまっているように思えて、――エルは、慎重に肩越しに振り返った。


 そこには、ドール人形かと思うほど美しい顔をした女性がいて、こちらに微笑みかけていた。とても美しい西洋人の女性だったが、彼女の顔はログが見せてくれた、写真の女の子をそのまま大人に成長させたように似ていた。


 なんでもありの世界なら、もしかしたら、アリスの可能性もあるのか?



 思わず「アリス?」と問いかけそうになったエルは、しかし、すぐに言葉を引っ込めた。



 その女性は、面影が似ているだけの別人だと気付かされた。西洋人の顔の判別は少し難しいが、思い返せば、写真で見たアリスはストレートの髪ではなかったし、何より少し釣り上がった勝気な青い瞳は、彼女がアリスとは違う人間である事を物語っているような気がしたのだ。


 目が合って数秒もしないうちに、女性が明確な意思のある微笑を浮かべた。年相応の女性には見えない、無邪気な子供のような笑顔だった。


「ずっと待っていたのよ、私。もう、待ちくたびれちゃうぐらい」

「え……?」

「どのぐらい待ちくたびれたかというとね、沢山の数を数えても足りなくて、一人で物語を声に出して読んで、でも聞いてくれる人はいなくて。あ、そうだわ、私『彼』に会えたのよ。沢山の場所へ案内してあげて、いつか、あなたにそれを聞かせてあげたいって、ずっと思っていたの」


 女性は、外見の年齢に合わない幼い喋り方をした。一方的に話し続けたかと思うと、エルをくるりとひっくり返し、今度は正面から抱き締めた。


 自分よりも頭一個分以上も大きな彼女に勢いで抱き付かれたエルは、彼女の胸に顔を打ち付け「ぐぇっ」と苦しい息を吐いた。体格差を考えてほしいのだが、女性は容赦なくぎゅうぎゅうに抱き締めてくる。


「ちょ、待て、すげぇ苦しいんだけどッ」

「うふふふふふ、嬉しい」


 嬉しいってなんだ。こっちは酸欠になりそうだわッ


 エルがそれを訴えようとした時、満足したらしい女性が身体を離し、それから、ようやくエルをまじまじと観察して「あら?」と小首を傾げた。



「あなた、ちっとも大きくならないのね。今も、私の方が大きいわ」



 その言葉を聞いて、エルは一つの違和感と共に困惑を覚えた。


 忘れてしまうほど遠い昔に、こうして話した事があるような気がする。オジサンと出会うもっと前の、事故に遭って記憶の大半を失うよりも以前に。


「……君は、俺を知っているの?」


 思わず尋ねると、女性がきょとんとした顔でエルを見た。


 不意に、空間に漂う空気の質が変化したような気がした。女性の青い瞳から、ふっと無邪気な輝きが消え、その顔から表情が抜ける。



「…………私、どうして、あなたを待っていたのだったかしら」



 エルが見つめる先で、ぼんやりと呟いた女性の髪が、ざわりと揺らいで少し短くなった。胸の膨らみや、長い頸筋といった全体の全てが幼さを帯び、その容姿が二歳ほど若返ったところで、ピタリと変化が止まる。


 年頃が十六歳ほどまで若返り、少女と呼べるような身体付きになった彼女が、一体ここはどこだろうと当ように、左右へゆっくり顔を向けた。


 エルは、訳が分からず目を丸くしていた。その少女はエルを見ずに左右を探し、まるで迷子になった子供のような表情を浮かべたかと思うと、突然手で顔を覆い、うずくまって泣き出してしまった。


「えッ。あの、君、大丈夫?」


 理解が追い付かないまま、エルは慌ててそう声を掛けた。


 瞬間、彼女の手が素早く伸びて、エルの腕を力強く掴んだ。それは少女の力とは思えないほど強く、掴まれた腕がギシリと軋んで、エルは堪らず苦痛の声をもらした。


 不意に少女が顔を上げ、美しく澄んだ異国の青い瞳でエルを見据えた。


 強引に腕を掴んでいるとは思えないほど、その表情は理性を窺わせるような申し訳なさを浮かべていた。大きな瞳は無邪気さもなく、混乱もなく、先程とは全く別人のように優しげだった。


「ごめんなさい。ごめんね、本当に、ごめんなさい。私は、あなたを巻き込みたくなかったの。だけど、どうかお願い。早く『エリスの世界』に来て。もう一つの身体が、『私』を押し込めてしまうのよ。もう、私……」


 一体、彼女は何をいっているんだ? 訳が分からない。


 しかし掴まれた腕に更に力が加わり、エルは、掛けようとした言葉を飲み込んだ。エルが見つめる前で、少女の表情がまたしても失われ、目の焦点が合わなくなった。


「……どうしてかしら、どこを探しても『彼』はいないの。私の大切な人だったはずなのに、忘れてしまったのよ。ねぇ、あの子も、どこにいってしまったの? 私の、小さくて可愛いお友達も探せないでいるのよ。私、後どのぐらい待てばいい? ずっとずっと、私、……独りぼっちだわ」


 呟く少女の手から、ふっと力が失われた。彼女の手から解放されたエルの身体は、出口へと誘われるように闇の中を漂い、彼女と少しずつ引き離され始めた。


 同じ顔をしているのに、中身だけが全くの別人に、ころころ入れ替わっている気がする。


 気圧されて何も言えずにいると、闇に取り残された少女が、またしても表情を人間らしく歪めて、一人うずくまり声を押し殺して泣き出した。次第にその姿は曖昧になり、闇に溶けて消えそうになったが、最後に彼女はエルを見上げて、泣きながら嗚咽のような声を絞り出した。



「…………助けて、※※※」



 彼女が口にしたのは、エルの本当の名前だった。


 聞き覚えがあるその呼び声に、色褪せるほどに古い記憶の一部が、喉元まで引きずり出された。もどかしいほどに内容を思い出せないが、確かに、忘れてはいけない約束があったのだと、本能的な悟りのようにエルの心臓を鷲掴みにした。


 気のせいではなく、確かに『約束』があったのだ。


 その内容や経緯も思い出せないけれど、それによって起こされる一つの結末だけは理解した。唐突の事で混乱しながらも、漠然と、それは絶対に果たさなければならないのだ、とも。



 ああ、そうか。……だから、俺はここにいるのか。


 

 事件に巻き込まれて訳ではなく、それは初めから決まっていた事だった。だから、旅の終わりを曖昧のままに留めておく事は、もう出来ないのだろう。


 つまり、クロエとの『旅』の終着点は――……


              ※※※


 それから数秒ほど、エルの意識は途切れていた。気付くと黒い廊下の真ん中に佇んだ姿勢で、自分の足を見降ろしていた。


 約束を果たす為に、自分は『ここ』にいる。


 悟りのような冷静さは、衝撃の余韻から醒め始めると困惑に変わった。欠落した記憶への自覚に吐き気が込み上げ、一歩を踏み出すと、目まぐるしい思考で頭痛まで覚えた。


 大事な約束を果たす事について、改めて考えてみたが、思い出せる記憶はそれに以上なかった。


 忘れてしまってはならなかったはずなのに、その記憶がポッカリと欠落してしまっているのだ。思い出さなければならない何かがある事は確かだが、そもそも今のエル自身にとっては急な事であり、非現実的過ぎて、頭の整理も追いつかないでいる。



 あの青い扉はなくなってしまっていた。振り切るように足を進め、エルは、ようやく猫の装飾が施された扉の前に辿りついた。



 震える手で開いた扉の先には、鉄製の作業台がいくつか並んだ工場が広がっていて、ポリエンス性の袋や白いタッパー、計量機がそれぞれの台の上に揃えられていた。部屋の奥にビニールシートが置かれた台が一つあり、その上でクロエが丸くなっている姿が目に止まった。


 エルが室内に足を踏み入れると、クロエが顔を上げて「ニャー」と鳴いた。近くにはボストンバッグが転がっており、どうやらクロエは寝心地が良い上の台へ、自分で移動していたようだと分かった。


 そっと抱き上げると、クロエが満足そうに鳴いた。エルは彼女を抱きしめながら、込み上げる記憶の欠如への不安を胸の底に押し込んだ。



「……これは、俺の我が儘だって事ぐらい分かっているんだ。でも、お願いクロエ。――どうか、最期の時まで傍に居て」



 クロエは、つぶらなエメラルドの瞳で幼い主人を見つめ、――それから、涙を堪えるようなエルの頬に顔をすり寄せて、宥めるように「にゃ」と穏やかな声で鳴いた。


 廊下の向こうから、こちらに向かってやって来る一つの足音が聞こえた。

 ホテルマンの陽気な鼻うたが、近づいてくる。


 ああ、この動揺は誰にも悟られてはならないのだと、エルは、一度強く目を閉じた。

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