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七章 迷宮の先(3)上

 エルとホテルマンが、長い落下時間を経て、ようやく一体の化け物との対面を果たした頃、廊下を真っ直ぐ進んで一番に『会場』に辿り着いていたログとスウェンは、既に戦場に身を置いてしばらくが経過していた。


 そこは、ひんやりとした薄暗い食肉の下処理場だった。内臓を取り出されただけの豚の死体が、狭い間隔で天井から何百と吊るされており、最悪な視界状況の中、どれほど潜んでいるのかも分からない頭部のない化け物が、次から次へと出てくる環境下だった。


 化け物は巨体ながら破壊力の他に、一瞬にして銃弾を避けるスピードもあり、一体倒すだけでもかなり骨が折れた。天上から吊り下げられた豚の死体が視界を邪魔し、高確率で近い距離から飛び出してくるため接近戦となる。


 一番手っ取り早い急所は首ではあるが、その化け物には折るべき首がないので、刃物で急所を壊すか、肉弾戦で化け物の肋骨を砕いて肺と心臓を潰す方法が主だった。必要以上に力も要り、スウェンとログは五感を研ぎ澄ませながら、強靭な筋肉に覆われた敵を倒しつつ先を急いでいる状況だった。


 視界は不良で、こちらが二人なのに対して、頑丈な身体をした敵は無数だ。長期戦には、圧倒的に不利な環境だった。


「くそ、出口はまだかよッ」


 吊るされた豚の死体の血のせいで足元が滑りやすい事に舌打ちし、ログが素早くナイフを放った。狙いがそれたナイフの先は、化け物の腹部に深く突き刺さったが、凶器が振られるのを阻止するまでには至らない。


 薄暗がりから発せられた銃弾が、化け物から振り降ろされた長い肉切り包丁の刃に当たり、動きを僅かに鈍らせた。ログはそのタイミングで、足元に転がっていた肉切り包丁を掴み上げると、化け物の両足を切断し、崩れ落ちる瞬間に上から真っ二つに切り裂いた。


 崩れ落ちた化け物の切り口から覗いていたのは、作り物の人工筋肉と、やけに目立つ青い人工心臓だった。現実世界では有り得ないため仕組みは不明だが、その体内には一つの液体も通ってはいないし、電力もない。


 何度見ても、化け物が持っている肉切り包丁の切れ味にはゾッとするものがあった。抵抗もなく、吊り下げられた豚の死体も完全に切断してしまえる代物だ。ログは、「やれやれ」とそれを肩に担いだ。


「これで俺たちを真っ二つにしてやろうって魂胆か。趣味悪ぃな」


 ログが背中に担いだ長い肉切り包丁を、二回ほど上下させた時、スウェンが脇から顔を覗かせて「どうだろうね」と言い、用済みのライフルを投げ捨てた。


「というか、君がそれを簡単に振り回せる事が不思議でならないよ。それ、すっごく重いんだから」

「セイジなら、俺よりも上手に使うだろうさ」

「そうだよねぇ。こんな時にセイジがいたらなぁ」


 豚から漂う異臭と酷い血の匂いが充満した工場内の床は鉄造りで、オレンジ色の小さな電球が、ぽつりぽつりと空間内を照らし出しているばかりだ。


 豚の死体が吊り下がる工場は全貌も終わりも見えず、冷房の稼働音に紛れて化け物が飛び出してくる環境は最悪だった。幸運だった事は、踏み入ってすぐスウェンが小さなヒントに気付けた事だろう。


 豚の死体に薄らと書かれた『F』という青い字が、どうやら道導となっているようだった。アルファベットがどの言葉の略かは知らないが、それ以外に道標らしき物はないので、二人はそれを頼りに先を目指していた。


 進む方向さえ見失わなければ、次の『F』の道標を見付けられる確率は高い。


 ここへ踏み入った時から方向感覚は狂ってしまっているが、進む先だけは間違えないよう、意識は強く持っていた。


「あ~、でもアレだな。セイジは器用じゃねぇから、この状況で探索も兼ねるとなると、ちとキツイかもな」


 化け物との闘いに意識を向けていると、方向感覚が鈍くなってしまう。常に三、四つの事を考えながら戦うスウェンであれば問題ないが、指示者がいなければ、ログの方もとっくに迷子になってしまっていただろう。



 次の『F』の記しを確認し、二人は再び駆け出した。



 どうやら首のないあの化け物は、音に敏感に反応するらしい。構っている暇と体力はないので、化け物が足音に引き寄せられて襲いかかって来るたび、出来るだけ手短に始末するようには努めていた。


 もう何十体目か分からない化け物を切り倒し、走り続けながら、ログがスウェンも見ずに呟いた。


「――おい、あいつらは大丈夫だと思うか?」

「そうだねぇ。エル君は戦えるっぽいけど、このゲームが正当なものであれば、あの胡散臭いエキストラと足して割っても、ここまで難易度はないと、そう期待したいところだね」


 その時、ようやく視界が開けた。豚の死体が吊り下げられていない円形状の広い空間に出た二人は、同時に足を止めた。


 ぽっかりと開けた空間は、かなり高さがあり、頭上には薄暗い陰りが濃く続くばかりで天井は確認出来なかった。中央には、巨大な銀板が一台置かれており、強靭な腕が六本ついた巨大な化け物が、こちらに背を向けるように佇んでいる。


 侵入者を待つその化け物は、全身に黒い体毛をはやしており、組んだ足には蹄がついていた。六本の腕には鋭利な刃物が握られ、ダイヤ形の剣やカーブを描く物、幅が太い肉切り包丁や長剣など多種だった。


「……ラスボスが出やがったか」


 ログが汗を拭い、口許に不敵な笑みを浮かべた。スウェンは苦笑し、諦めたように頭を振った。


 正直なところ、少しでもいいから息を整える時間は欲しいかった。例えば、ゆっくり腰を落ちつけられるソファや、しばらくは一切の敵も来ないという状況が好ましい。欲を言えば、酒でもあれば尚良いだろう。二人の男は、現実世界が少しだけ恋しくなった。


「やれやれ。歳は取るものじゃないねぇ」

「まだ三十五だろ、何言ってやがる」

「僕はね、君より二ヶ月早く三十六になったんだよ」


 スウェンは疲労顔で苦笑した。彼が、使い勝手の良い改造型のバズーカを構えた時、その音に反応したように、巨大な化け物の赤い眼光が、薄ら暗い頭上から二人を見降ろした。


              ※※※


 セイジは、破壊音が足元に響いたような気がして、ゆっくりと顔を上げた。


 改めて耳を済ましてみたが、物音は一つも聞こえて来なかった。どうやら、自分の気のせいだったようだと知り、何一つ音のない『会場』で止めてしまった足を、再び前へと進め始めた。



 先程『審査の回廊』と呼ばれる廊下から穴に引き込まれたセイジは、しばらくもしないうちに柔らかいクッションの上に着地した。白とも、明るい灰色とも取れない地面はあるのだが、足音は響かず、触れてみても温度がなく素材も分からない。


 ピンクのレースがついた巨大なクッションが所々に打ち捨てられている以外、何も無い場所だった。離れ離れになってしまったスウェンとログ、エルの事が気がかりだったが、ここでは何も知りようがない。


 セイジは、まず何もないこの状況を見てとると、とにかく歩くかと考えた。歩きながら二、三度、仲間の名前を呼んでみた。効果はまるでなかったが、完全に皆と切り離されてしまったという事だけは実感した。



 巨大な空間は広がっているが、天井は果てが見えず四方全てが闇に包まれていた。不思議な事に、己が進む先だけがハッキリと視界に映り、セイジはずっと地面を持った闇の中を、背中を丸めて歩き続けている。


 ゲームは既に始まっているはずだが、静かで何もない空間には、どうやら倒すべき敵すらいないようだった。神経を研ぎ澄ませてみても、彼の五感に障る敵意や気配は、どこにもない。


 風変わりな環境に対して、セイジは順応が早い。彼は、緊張疲れとはほど遠い心持ちで、己のリズムのまま闇の中を歩き続けていた。危機感は全く覚えておらず、冷静である。


 歩きながら、セイジは、もう一度「おおい」と声を上げてみた。


 自分なりに張り上げた声は、反響もせずに遠く向こうまで吸い込まれていった。かなり広い空間に自分は立たされているらしいと、セイジは改めて実感し「ふむ」と肯いた。


 そもそも、どこが入り口で、どこが出口なのだろうか。


 もしかしたら自分は、ゲームの会場にすら辿り着けていない、とか?


 セイジは、ようやくそこで一つの不安を覚えた。危機感とは全く別件の、ある焦燥感が小さな胸騒ぎとなって、彼を申し訳ない気分にさせた。


「……出番が遅れたら、またログに怒られるなぁ」


 いつもそうなのだが、なぜか辿り着く頃には事が山場を終えていることが多い。スウェンとログの危惧が空回りする事が不思議とある――らしいと、セイジは仲間からよく聞かされていた。


 前線部隊の任務の際には、敵の策略や陰謀の場所を、知らずのうちに避けて仲間と合流した事もあった。地雷の海だとは知らず「近道しよう」と足を踏み入れ、一度も地雷を踏んでしまう事もなく、仲間達に驚かれた事も何度かあった。


 誤って彼が落とし穴に踏み込んでしまった時は、偶然にも緊迫した状況が広がっていた場に落下し、主犯格の頭を尻で強打して皆の危機を救った事もある。あの時は、ログも腹を抱えて笑ってくれていたが。


「もしかして、落ちる場所を間違えたのだろうか……?」


 セイジは自分を、ある種の不幸体質だと思っていた。何というか、思い返すと、いつもタイミングが悪いような気がするのだ。


 テロリストが仕掛けた『道案内』が上手く作動しなかった為に、道を間違えて、敵が待ち構えていた場所に辿りつけなかった経験が、彼の脳裏を掠めた。なぜか正面ではなく、敵の後ろから出て来てしまい「なんでお前そっちから出てくんだ!」と驚愕された。


 セイジとしても、当時の珍事件に関しては「それは私が訊きたいのだが」と、思わず敵に問い掛けていたほどだ。


 とにかく、自分の運の悪さは敵すらも巻き込んでしまう事があるらしいと、セイジは経験から身をもって知っていたから、今の状況に少し不安を覚えて、来た道をそろりと振り返った。


 自分を受けとめてくれた大きなクッションの姿は、既に見えなくなってしまっていた。あのクッションが、何かしら必要なアイテムだった可能性はあるのだろうか、と少しばかり考えてみるが、やはり意味などないような気もしてくる。


 スウェンのように裏を読むのは苦手だし、ログのように、最短で行動を起こす事も出来ない。


 セイジは困ってしまった。難しい事に対しては免疫がないのだ。三つの選択肢が目の前にあるとするならば、彼は真っ先に考える事を放棄して、勘で選んでしまうだろう。



 その時、セイジは「ん?」と左方向を見やった。



 こちらへおいで、と手招きされいるような不思議な感覚が込み上げていた。無視するにしては、どうも後ろ髪が引かれる感じがする。


「ふむ」


 セイジは三秒ほど思案し、他にあてもないのだし向かってみようかと、そんな根拠もない軽い心持ちで、そちらへと足を向けた。

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