七章 迷宮の先(2)上
穴の入口が閉ざされた後、エルとホテルマンは、ひたすら闇の中を落ち続けた。
重力にそって従って落下し続けているはずなのだが、途中、右へ、左へと、落ちる方角が変わったような眩暈を覚え、そのたび内臓が捻じれるような圧力が掛かり、エルは気分が悪くなった。
「俺ら、どこまで落ちるんだろうね……」
「叫び疲れてしまいましたねぇ」
ホテルマンは正座のポーズで、エルの向かい側を落下し続けていた。彼が「落ちる」「助けて」と言ったのは初めの一分程度で、それ以降は「困りましたねぇ」「暇ですねぇ」「お茶道具も風呂敷の中でした、クスン」と、悠長に無駄口を叩いていた。
「恐らくですが、私たちは建物の中を移動しているものと思われます。この『ブラックホールモドキ☆(仮名)』の中では、上下左右関係ないのでしょう」
「なに、今の『☆』と『カッコ仮名』って」
こいつ、無駄にテンション高いな。
エルは訝みつつも、ひとまずは彼の言った言葉を考えた。
「じゃあ、落下していると思っていても、その実、上の階へ移動中とも考えられるわけ?」
「はい、左様でございます」
さすがですお客様、とホテルマンは、実に胡散臭いしたり顔で相槌を打った。
「心配には及びませんよ、小さなお客様。受付の方の説明によりますと、このゲームは各参加者のレベルに合わせて、必ずクリア出来るようになっているらしいのです。こぉんなにか弱くて心優しいホテルマンと、こぉんなに小さなお客様の組み合わせで、難しいゲーム設定は行われないはずです!」
「説明通りならそうかもしれないけどさ……で、あなたは何を望む事にしたの?」
「新しい就職先のある『町』に行く為の交通手段です! 勿論、旅費付きですよ!」
ホテルマンは、微塵の後ろめたさもない様子で断言した。
エルは、拍子抜けしてしまった。彼には、自分がオーナーになれるホテルをくれだとか、そういった現実味のある思惑というか、発想は浮かばなかったのだろうか?
「……まぁ、いいけどさ。俺は望む品物なんてないし、クロエを見付けて、ここから無事に出――」
その時、ホテルマンかエルの口許に人差し指を当てた。
「小さなお客様。猫ちゃん様を見付けて、彼らと合流する事が大事なのではないですか?」
気のせいか、離れ離れになってしまったメンバーと合流するのが重要なのだ、とエルの認識を今一度正すようにように、告げたホテルマンの声は少しだけ大きかった。
確かに一人だけ飛ばされてしまったセイジの事は気がかりであり、エルは、その件を促されたのだろうと思い「そうだね」と答えた。重みのなくなった肩と、いつもなら腰辺りに感じる温もりがなくて心細い。
二人の会話がなくなった後も、落下は続いた。ホテルマンは器用なのか、何もない空中で横たわるポーズまで発明し、エルも、頭の後ろに手を組んで身体を休めた。
見えるのは闇ばかりだ。
どこまで落ちるのか不明で、二人はしばらく落ちてゆく際に耳元を掠める風の音ばかりを聞いて過ごした。温度のない空気には強い違和感を覚えるし、はためく衣服も髪も、半ば無重力の中を浮いているようで衝撃も少ない。
どれぐらい暇な時間を過ごしただろうか。不意に、足元に光りが見え始めた。
ようやく、どこかの階へ到着するらしい。ホテルマンが寝転がるように下へ身体の向きを変え、呑気な顔で見降ろす隣で、エルも頭の後ろに組んだ手を解いてそちらへ目を向けた。
「このまま衝突してしまうと、痛いでしょうねぇ」
ホテルマンが、特に危機感もないような、むしろ他人事にも聞こえる胡散臭い台詞を口にした。
「怪我したくなかったら、受け身を取るしかないよ」
エルは、そう答えて衝撃に備えた。徐々に迫って来る切り取られた景色に目を凝らすが、一体どんな空間が広がっているのか見当がつかなかった。切り取られた風景は単色で、そこにある部屋の様子が全く掴めない。
おかしいな、部屋ではないのか?
エルがそんな疑問を覚えた時、二人の身体は、開けた空間に突入していた。衝突するという先入観に、エルは思わず短い悲鳴を上げかけたが、飛び込んだ景色の中で、二人の身体は不意に空中で止まった。
ほんの数秒間、二人の身体は宙を浮いていた。
その刹那に辺りの様子を確認し、エルは驚いた。落ちると思っていた足元に広がっていたのは、網目状の線が入った白い天井だったのだ。
しばし呆気にとられていたため、急速に重力が反転した際の対応が遅れた。二人は受け身も忘れて、勢い良く床に不時着した。穴が開いていた場所はタイミングよく床とすり替わっており、まずは体重のあるホテルマンが背中から着地し、その上にエルが頭から落ちた。
ホテルマンの短い悲鳴が二回上がった。避ける間もなかった彼は、胸でエルの頭を受けとめた後、続けて腹部にエルの背中を受けとめ、ピクリとも動かなくなった。
「ご、ごめんごめん! 大丈夫ッ!?」
「ぐふッ――も、問題ないです、だいじょーぶ……」
慌てて退いたエルの三度目の衝撃に、ホテルマンは苦しい呼気を吐き出したが、「小さなお客様に故意はないのです……」と口の中で呟いた。事情を察せないでいるエルに、彼はもう一度「ほんと、いや、大丈夫ですから」と断ると、少しばかり咳込んで立ち上がった。
ようやく落ち着いたところで、二人は、早速辺りの様子を窺った。
「ここは工場、……でしょうかね?」
「食品を加工する場所みたいだね」
二人が到着した場所は、どうやら使い古された工場の一室のようだった。
リノリウムの床を持った広い室内には、銀色の大きな加工台、切断機器の乗った台や、流し台等が敷き詰められていた。部屋の中央には、ベルトコンベアーが付いた巨大な作業台も設置されている。
室内の壁には、水色のタイルが貼られており、使い古されたまな板や包丁が並んでいるのも目についた。
四方の壁には、雑巾やテーブル用布巾、デッキブラシやホース、ゴム手袋やシートなども用意されていた。物が敷き詰められた工場室内は、整頓されていながら散らかっている、という印象を受けた。
いくどとなく磨き上げられた銀色の台や機械には、細かい傷が模様のような線を描いて、照らし映えの良くない蛍光灯の下で鈍く反射していた。ゴムホースも一部が変色し、作業台の隅には落ちない汚れが浮いている。
「食肉の加工場、ですかねぇ……?」
うちのホテルにもありましたよ、小さいタイプでしたが、とホテルマンが感想を述べた。
室内に立ちこめるアルコール消毒液と、生臭い食用肉の匂いが独特だった。冷房が効いているせいか、やや肌寒い。現実世界ではないのに、三番目のセキュリティー・エリアと違って『ここ』はもっと、いや、格段にリアリティーが増しているとエルは察した。
とはいえ、つっ立っているままでは何も始まらない。
「……俺達、どっちへ進めばいいんだろう?」
「ヒントや案内版があるらしいので、探してみましょうか」
室内には、向かい合う簡易な扉と、荷物を上げ降ろす為の小ぶりな運搬用エレベーターが備え付けられていた。左右どちらの出入り口に進めばいいのか、しばらく考えてみても見当がつかなかったので、二人で四方をくまなくチェックしてみる事にした。
どこを探しても、案内の書かれた看板や張り紙、ヒントとなるような記号や地図らしきものは見当たらなかった。都合のいい案内標識は、どこにもないようだ。
「どこかにヒントが隠されているかもしれませんが、そこまで簡単にはいかないという事でしょうかねぇ?」
簡単に進めると思っていたらしいホテルマンが、そこでようやく肩を落とした。
このまま立ち往生している訳にもいかないだろう。エルは、探している間から考えていた事を彼に打ち明けるべく、話を振ってみた。
「じゃあ、俺が右の扉を見てくるから、そっちは左の方を見て来るっていうのはどう?」
「名案とは思えませんねぇ。私達は、せっかく二人一組で参加出来ておりますし、プレイヤーが独立する事は、あまりよろしくと思われます」
「プレイヤーって、……ああ、ゲームのか。あれ? そういえば俺、貴方の名前とか知らないな。なんて言うの?」
「ふはははははは! 私は世界で一番心優しくて素晴らしい『ホテルマン』ですよ!」
突然、彼が胸を張ってそう宣言した。
「私の事は、どうび『ホテルマン』とお呼び下さい。他に好きな呼び名がおありでしたら、そう呼んで頂いても結構ですよ。なんなりとどうぞ!」
左手を腰に、右手を胸に当てて、ホテルマンが誇らしげに説いた。彼は胡散臭い営業顔で「ばっちこい」と言わんばかりにウィンクまでくれたが、かなり下手くそなのか、両瞼がぐっと動いて、口も変な形になっていた。
それでもなお、作り笑いが崩れないのを、さすがと思うべきなのか、どうなのか……
エルはドン引きしかけたが、はぐらかされたような気もした。しかし、少し考えてふと、エキストラの名前の有無について今更ながら疑問も覚えた。もしかしたら、彼が自分の名前を持っていない可能性が思い浮かぶ。
彼は、仮想空間内――支柱が造る人工夢世界の登場人物だ。『ホテルマン』としての登場人物設定しかされていなかったとしたら、彼自身、自分に固有の名前がない事にすら疑問を覚えていないのかもしれない。
つまり、彼にとっては『ホテルマン』こそが正しい呼び名で、どう問おうがそれ以上の『名前』は出て来ないのだろう。
エルはそう考えて、一つ肯いた。
「分かった、『ホテルマン』って呼ぶよ。俺の事は『エル』でいいよ」
すると、ホテルマンが「とんでもない」と胡散臭い笑顔で首を左右に振った。「お客様を呼び捨てになど出来ませんよ!」と言って、何が面白いのか「わはははははは」と続けて笑う。
「ウェッホン! それでは、どちらの方へ進むか考えましょうか。私達二人の能力値を考えても、難易度は低く設定されているはずですし――さ、まずは猫ちゃん様を探しましょう!」
「うんッ、まずはクロエだね!」
二人がそう意気込んだ時、停止していたはずのベルトコンベアーが、鈍い音を立てて稼働した。運搬用のエレベーターが起動し、ベルトがキュルキュルと滑る音が室内に響き渡った。稼働音に合わせて電灯が震え、湿った生臭い空気が漂い始める。
右方向の扉の向こうに一つの気配を感じ、エルは反射的に身構えた。ホテルマンが、「あらららら」と礼儀正しく直立したまま首を傾ける。
「ゲーム・スタート、というところですかねぇ」
「俺らが状況把握するまで待っていてくれるなんて、ほんと、親切だね」
「ゲームなんてそんなものでしょう。『メイン・プレイヤー』が目的を定めるまでは、イベントは発生しないものなのですよ」
話している間に、飾り気のない銀色の作業場扉のロックが外れ、ゆっくりと扉が開かれた。
そこからまず、のっそりと顔を覗かせたのは、二メートルを超える巨大な肉切り包丁の鋭利な刃先だった。それを直視した途端、エルとホテルマンは、それぞれ余裕も吹き飛んで「うッ」「ぶほぉ!?」とほぼ同時に息をこぼしていた。
二人は、巨大な侵入者が、小さな扉をのっそりとくぐる様子を、恐る恐る観察した。
その大きな異形の侵入者は、エルとホテルマンが「マジかよ」と顔面を引き攣らせ硬直して見守る中、工場内のリノリウムに両足をつけたところで、ゆらりと立ち上がったのだった。




