七章 迷宮の先(1)
蝋燭の炎で照らし出された廊下は、風もなければ匂いもなかった。歩く四人の足音ばかりが、ぼんやりと響き渡っている。
一本道の廊下には窓もなく、同じ風景ばかりが続いていた。まるで閉じ込められているような圧迫感すら覚えて、どこまで進めば終わるのか不安になってくる。歩き出してからずっと沈黙をたもったまま、エルは、スウェン達の後ろをついて歩いていた。
審査が行われるというこの廊下は、セキュリティの感知内なのか、歩いていると心を探られるような胸のざわめきを感じて、なんだか落ち着けなかった。
そんなエルを余所に、スウェン達の方は冷静であるようだった。こういったイレギュラーな事態に対しては、くぐり抜けてきた経験値が違うのかもしれない。エルはそれを羨ましく思いながら、出来るだけ慎重に、穏便に事を考えようと必死になって自分を落ち着ける努力をしていた。
今のエルにとって、失いたくないものも、守りたいものも一つしかない。
このゲームは公平であると聞かされて、自分が頑張ればどうにかなると納得もしたはずなのに、心の準備が追いつけないでいた。エルは、自分の心を偽る方法を知らない。ゲームの参加条件としてクロエと離れる事がないような策を考えようにも、何も思い浮かばないでいた。
もし隠されてしまっても、きっとすぐにクロエを探し出してやる決意はしていた。それでも、離れている間にクロエの身に何か起こってしまったら、と想像するだけで恐怖に身が竦むのだ。
仮想空間内では体調が良いとはいえ、クロエは老猫で、生身の身体だ。クロエは参加者として認定されているわけではないので、恐らく『ゲーム』のイベントで戦う事にはならないだろうが、隠される場所が安全なところであるのかは分からない。あの少年に、その件に関してしっかり訊いておくべきだったと、エルは後悔を覚えた。
エル達は、しばらく歩き続けた。まだ先は見えなかったが、来た道の扉が頼りない蝋燭の灯りの向こうに見えなくなった頃、ログがやや歩みを緩めて、隣のスウェンに目配せした。
「スウェン、ゲームの景品とやらは関係なく、引き続き支柱の破壊を考えて問題ないのか」
彼の隣を歩んでいたスウェンが、「ゲームは形上の『設定』というだけだから、問題ないだろう」と肯き返した。
「ゲームの景品は『形ある物』らしいけれど、この会場は恐らく、僕らの為に用意されているようなものだ。ゴールにあるのは支柱しかないはずだからね。まぁ、出来ればアリスに繋がるような情報でも得られれば、一石二鳥なんだけど、それは無理だろうなぁ」
「アリス自身を、呼び寄せる事は出来ないのだろうか」
スウェンの背中に、セイジが遠慮がちに声を掛けた。
「存在している物が対象なのだろう?」
「アリスは『仮想空間エリス』にいるだろうし、エリア違いであるこの場所に呼び出す事は不可能だろうね。セキュリティー・エリアは、結局のところ独立した不完全な仮想空間で、摩訶不思議な設定も現象も、その空間内のみに限られると思うんだよ――問題は、ゲームの参加条件らしい『隠されてしまう物』の対象だよねぇ」
スウェンはそこで一度言葉を切り、ゆっくりと長い息を吐いた。
「ログ、どこまで思考が読まれてしまうと思う?」
「でたらめな世界だからな。何でもありだとすると、常識そっちのけで、単純に思考が読まれちまうような気もする」
「やっぱりそう来るか、僕も同じ事を考えているんだよね……。読まれるタイミングによっては、不利になってしまうかもしれないな……」
その時、来た道から「おぉ~ぃ」と声が聞こえた。
聞き覚えのある声に、四人は反射的に、ほぼ当時に振り返っていた。こちらに向かって駆けてくる人物に目を凝らすと、既に扉も見えなくなった廊下の薄暗がりの向こうから、例の蝶ネクタイをつけた胡散臭い燕尾服の男が、こちらに向かって大きく手を振っていた。
「置いてかれなくてよかったですぅ! 親切なお客様のアドバイス通り行いましたら、無事にゲームに参加出来たんですよぉ!」
先程別れたはずのホテルマンが、こちらに手を振りながら声を張り上げた。彼は「寂しいし心細いので、置いていかないで欲しいです!」と、ちっとも寂しさを感じさせないテンションの高さで主張した。
ログが、途端にうんざりしたような顔をした。
「……ここは、エキストラでも参加出来ちまうのかよ」
「このゲーム、てっきり外部からの侵入者専用だと思っていたんだけどなぁ……」
珍しく僕の推測が外れたみたいだ、とスウェンが無理に浮かべた愛想笑いで、ホテルマンに手を上げて応えた。出来るならばもう見たくなかったかなぁ、とスウェンは口の中でぼやいた。
「おい、どうする。奴を待つのか? 俺ぁ嫌だぞ」
「え、待たなきゃいけない感じなのかい? 僕だって逃げ出したいよ」
「彼はエキストラなのだろう? それであれば、待つ必要はないのではないかと……」
まるで押し付け合うように男達が意見を出し合った。三人の軍人の心境は、あのホテルの従業員のキャラが受け付け難い、という事で一致していたのだ。
確かに強烈な登場人物ではあるが、たった一人のエキストラに対して、三人の立派な大人の男が「関わりたくない」とする様子は、どこか子供っぽい理由に思えてエルは呆れた。エルとしても、ホテルマンの個性的な雰囲気は苦手だが、だからといって、同じ場所まで来てくれた彼を仲間外れにしようとも思わない。
「お前ら落ち着けよ。というかさ、置いていったら可哀そうじゃない?」
すっかり足が止まってしまった三人の男に、エルはそう告げて、改めてホテルマンの姿を確認すべく振り返ったところで――一つの違和感に気付いた。
ホテルマンは、建物の入り口では大きな風呂敷の荷物を背負っていたはずだが、こちらに駆けて来る彼は手ぶらだった。セイジもそれに気付き、「荷物はどうしたんだろう?」と首を捻る。
セイジの呟きが、十数メートル離れているホテルマンに聞こえた確率は低いが、ホテルマンがそのタイミングで、風呂敷を背負っていたはずの場所に手をやり「あれ?」と疑問を覚えた仕草をした。彼は、こちらへと再び視線を戻すと、荷物が消えてしまったのですけれど、呑気な表情と手振りで伝えてきた。
状況を理解していないログに、セイジがホテルマンの荷物について説明する傍らで、スウェンが眉根を寄せた。
「もう審査が始まっている……?」
その時、仕掛けが外れるような鈍い音が響き、壁に扉の半分程の大きさの正方形の穴が開いた。
唐突に現れたその穴の中は真っ黒で、湿った風が覗いた肌を撫でた。四人が穴の出現に気付いた時には、セイジの身体が見えない何かに掴まれたかのように持ち上がり、穴の向こうへと引き込まれてしまっていた。
「セイジ!」
スウェンが反射的に手を伸ばしたが、僅かの差で届かなかった。
訳が分からないという顔のまま、セイジが、ぽっかりと空いた暗闇の中から三人を見つめ返した。彼の大きな身体は闇の中を漂い、急速にこちら側から遠のき始めている。吸いこまれているというよりは、まるで重力に従ってゆっくりと降下しているようにも見えた。
前触れもなくガコン、と仕掛け音が上がり、穴が元の壁に戻った。
エル達は、慌てて壁に手をあて探った。押して蹴っても、頑丈な壁はピクリとも反応してくれない。スウェンが穴があったはずの壁に手をあて、残る片方の手で額を押さえて「まいった……」と苦々しく呟いた。
「……まさか、不意打ちを食らうとは」
「……お前、昔から変わらねぇな。あいつの事、ちょっと甘やかしすぎなんじゃねぇのか?」
ログが心底呆れた眼差しを向けた先で、スウェンが「申し訳ない」と項垂れながら、両手で顔を覆い「だって」と弁明し始めた。
「仕方ないじゃないか。セイジは一番手がかかる子だったんだよ。確かに利口ではあるけれど、ちょっと抜けているところがあるし、おっちょこちょいなとこもあるし、よく騙されるし……ちょっとだけ、つい『大丈夫かな』って、そう思ってしまったんだよ」
つまり、スウェンがちらりと考えた『守りたいもの』が、審査に引っ掛かってしまったという事だろうと、エルも遅れて察した。セイジはゲームの参加者であると同時に『隠される物』としても認定されてしまったのだ。
恐らく参加者であるから、隠された、というよりは引き離されたという方が正しいのだろう。何が起こるか分からないゲームで、別れて挑むというのも不利な気がする。
ややこしいな、くそ、とログが頭をかきむしった。
「おいおい、しっかりしろよ、スウェン隊長。あいつは、いつでも平気な顔で突破して来ただろうが。メンバーの中じゃ一番丈夫で、スタミナもガッツもあるし、何より強運だろ」
「そうなんだけど、まさか参加している人間も対象になるとは考えつかなかったというか……。ログ、隙を見せるんじゃないよ」
「説得力ねぇぞ」
ログが半ば叱るように答えた。
もうすぐ、離れ離れになってしまう。エルは、出来るだけ落ち着きを装う事を努めながら、ボストンバッグのベルトを握りしめた。セイジのように、クロエが荒々しく飛ばされてしまったらどうしよう……?
あの暗闇の下は、一体どうなっているのだろうか。着地は無事に出来るのか? 落ちた先に危険な物が転がっていて、クロエが大きな怪我をしてしまわない保証はあるのか?
三人の元まで、あと数メートルの距離まで迫っていたホテルマンが、駆け足のまま「あッ」と声を上げた。彼は控えめながらも驚いたような顔を見せ、頼りない声で警戒したように叫んだ。
「小さなお客様! 猫ちゃん様がッ」
その警戒の声と同時に、エルは、肩から重みが無くなるのを感じた。
ギクリとした時には、もう遅かった。ハッとして目を走らせると、クロエを乗せたままボストンバッグが浮かび上がり、エルの目の前で姿が薄れ始めていた。
ボストンバックから顔を出したクロエと、コンマ数秒ほど目が合ったが――実際に声を掛ける暇はなかった。
待って、やめて、お願いだから――訴えるエルの眼差しとは対照に、クロエの瞳は穏やかで「待っているわ」と語りかけているような冷静さが窺えた。実際に言葉を訊いた訳ではないけれど、それぐらいに、クロエの瞳には一切の動揺も見られなかった。
口を開きかけたエルは、続くはずだった「クロエ」という悲鳴を途切れさせた。
クロエが消失してすぐ、エルは足場が突如として消える強烈な浮遊感に襲われ、支えを失った身体が大きくバランスを崩していた。
「小さなお客様!」
足元にポッカリと開いた穴がエルを飲み込むと同時に、すぐそこまで迫っていたホテルマンが再び叫び、やや凛々しい表情をして「助けますよ!」と、ヒーローっぽく手を伸ばした。
しかし、床に出来た穴の存在を一瞬忘れてしまったのか、そこを黒の革靴で真っすぐ踏み込んでしまったホテルマンは、エルと同じように身体の支えを失い、思い切り空振りしてエルの手を掴み損ねたうえ、同じ穴に落ちてしまう結果に終わった。
抗う事も出来ない落下は、もうどうする事も出来ない。
落ちている事実をまずは受け止め、思考を次に進めるべきだとは分かっていた。
エルは突然の事態に驚きつつも、滲みそうになった涙腺を堪え、自分が落ちた穴の入口に目を向けた。穴の内側は漆黒の闇ばかりで、巨大な異空間のように思えた。そこには切り取られた景色が小さくポッカリと開けていて、廊下に残されたスウェンとログの青ざめた顔が見えた。
セイジもクロエも、いなくなってしまった。
そして、自分もまた、暗闇に落ちている。
クロエと離れ離れになってしまった悲しみと、落下する恐怖に半ばパニック状態に陥りつつも、エルは、こうなってしまった状況をどうにか理解した。つまり、自分はセイジと同じ原理で、彼らから引き離れているのだと正しく把握する。
途端に負けず嫌いな性分が込み上げて、エルの腹の中で、半ば八つ当たりのような怒りが爆発した。
「ッこの野郎! 俺はお荷物にはならないって何度も言ってんのに、誰か俺の事を考えやがったな! お前ら、後でぶっとばしてやるからなぁ!」
エルは、怒鳴りつけている自分が、泣いているのか怒っているのかも分からなかった。短い間に立て続けに起こった不測の事態には混乱していたが、セイジかログのどちらかが、エルを保護しなければならないとチラリとでも考えたとは推測出来ていた。
相手が誰だろうと関係なく、守られる側として少しでも考えられてしまった事実が、エルは無性に悔しくて腹立たしかった。
その言葉を最後に穴の入口は閉ざされてしまい、落下するエルとホテルマンを残して、辺りは完全な闇に包まれた。
※※※
その穴はセイジの時と同様に、前触れもなくピタリと閉ざされて消失した。
廊下に残されたスウェンが言い掛けた言葉を飲み込み、伸ばし掛けた手で拳を作った。彼は息を吐くと「僕も、らしくないな」と自分を落ち着けるように呟いた。
スウェンは、同じように咄嗟に駆け寄ろうとする行動に出たログへ、ちらりと視線を投げて寄越した。
「……君が誰かを想うなんて、珍しいじゃないか」
「お前だって、顔面蒼白だったぜ」
「予想外だったんだよ」
スウェンは、若干苛立ったように前髪をかき上げた。
「セイジの指からは、結婚指輪が消えていたんだ。他に誰がエル君の事を考えるんだ? それは僕じゃない。君だろう?」
静かな憤りを口にしたスウェンは、気付いたように自身の口に手をあて、数秒ほど沈黙した。
「……すまない。僕の方も少し冷静さを欠いてしまったみたいだね。巻き込まれた民間人への感情移入なんて、僕らしくもない」
スウェンは自分を落ち着けるように、もう一度前髪をかき上げた。
「あの子は、とても聞き分けがよくて利口だと思うよ。きちんと理解したうえで、僕等とも距離を置こうとしてくれているのも分かってる」
「ガキの癖に、勘は良いらしいからな」
ログがそう言って踵を返した。彼は動揺の見られない確かな足取りで、先へと進み出す。
大した副官だと、スウェンは肩をすくめた。彼の事を前線隊長なんて言っていたのは、一体誰だっただろうか。死んでいった仲間達の名前が、懐かしい顔と共にスウェンの脳裏を過ぎった。
「あのガキ、知ってか知らずか痛いところを突いてくる時があるしな」
「まぁ、大人びた感じの子でもあるよね」
スウェンは素直に認めつつ、ログに続いて歩き出した。
「でもね、あの猫ちゃんが消えてしまった時、あの子、まるで置いて行かれた子供みたいな顔をしたんだよ。とても強い子だと思っていただけに、本当に今にも泣き出しそうな顔が印象的でさ……。そんな事を思う僕の方こそ、どうかしているのかもしれないけれど……――うーん。戦場から遠のいていたしばらくの間に、僕も弱くなったのかねぇ」
「いつも通りだろ。所長に『僕の部下に何かあったら、お前たちを皆殺しにしてやる』つってたのも、ついこの間の事だろ」
「ふふふ、そうだっけ? そんな事、覚えてないなぁ」
あの時は必死だったのだ。普段ならばしないような、滅多になく感情的な行動に出たものだと、思い返すたびに恥ずかしさが込み上げるぐらいだ。スウェンは苦笑し、忘れてくれよ、と思わず本音をこぼした。
ログが両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、口をへの字に曲げ「ふん」と鼻を鳴らした。
「それにしても、威勢のいい落ち方だったな、あのクソガキ。ホテルの野郎も一緒に落ちたんだっけか」
「ふふ、今度会ったら僕ら、ぶっとばされちゃうのかな」
「……お前、なんだか楽しそうだな?」
ログは言いながら、ポケットの中に隠した拳を堅く握りしめ、動揺を落ち着けるべく、瞼の裏に焼きついたエルの表情とその光景を、静かに振り払った。