六章 それは偽りの存在(5)下
四人の客人を見送った後、『利用案内人』である少年は、しばらくそこに佇んでいた。
一つの物音さえ響かない空間には、もはや時間の流れがあるのかさえも怪しい。いや、ココは『ほぼ止めて切り取って』あるのだと、少年は静かにそう思い出した。
その時、不意に一組の足音が響いて、少年は訝しげに思って振り返った。そこにいたのは、胡散臭い顔をした燕尾服と蝶ネクタイをした男で、それは、少年が予想してもいなかった新たな客だった。
長身のその男は、作り物の愛想笑いを貼りつかせたまま、困ってもいない顔で辺りを見回した。
「すっかり置いていかれてしまいました」
男は、シクシクシクシク、と口で効果音の演出を入れた。ご丁寧に蝶の刺繍の入った白いハンカチで目頭を押さえ、悲劇の主人公を楽しむように天まで仰いで見せた。
少年は急ぎ、『自分の世界の記録』を探った。
この工場の入り口に立っていたはずの、受付役の女の姿が見当たらなかった。『夢』世界では、エキストラの数は決まっているので、この世界に少年が知らない役者がいるはずがない。
どうやらこの侵入者は、『役者』の一人が消失した直後に現れた不自然な男であるらしい。その事に気付いて、少年は彼を警戒した。
「招待客の中に、あなたは含まれていませんが?」
「あなたの方こそ、お客様への接客がまるでなっていませんねぇ」
男はハンカチを丁寧に折ると、皺を伸ばし、上品な手つきで胸ポケットに入れた。少年を正面から見るなり「おやおや」とわざとらしく片眉をつり上げる。
「なるほど。外部からの強制命令が届く前に『核』を奪還し、ここへ隠れたという訳ですか。そうすれば、貴方の『案内役』としての権限だけは守れる」
途端に、少年は男から距離を取って身構えた。
「――お前は、何だ?」
問いかけると、ふざけた顔を持った男が「ほほほほほ」と妙な笑い声を上げ、皮肉な顔で少年を見降ろした。
「君は完成されている『夢人』であったのに、勿体無い事ですねぇ。あの人間は、孵化する前に『宿主』から芽を引きずり出してしまった。この世界は既に、君の存在すら維持出来ないほど崩れ始めている」
「『理』を知っているということは――貴方も『夢人』なんですね?」
少年は、ようやく合点がいったという顔で、男を睨み付けた。
「貴方も、僕と同じように『夢人』であれば、少しは分かるでしょう。死した『宿主』の夢が崩壊してゆく様を最後まで見届け、決して戻っては来られない境界線上の向こうまで、彼の心を送り届けなければならない、僕の気持ちが」
「『気持ち』ですって……?」
男は両肩を震わせたかと思うと、途端に、堪え切れないといわんばかりに腹を折り「うふふふふ」と気味の悪い声で嗤い始めた。唐突に大きな口を開いたかと思うと、空気が割れるような声で狂ったように笑った。
少年は、強烈な違和感に言葉を失った。男の存在も、彼から吐き出される笑い声も、大きく歪んでいるような気がする。自分が何かを、大きく履き間違えているような悪寒を覚え、一歩後退した。
すると、少年のそんな様子を見て取った男が、ピタリと笑いを途切れさせた。
「おっと、これは失礼――それが『君達』の存在意義でしたねぇ。私には、どうにも分かりかねますが。とはいえ、あなたが途中で消えてしまっては、こちらとしても困るのですよ。歪んでしまう空間の中で、あなたはゲームをフェアに進め、案内し、出口まで繋げてくれる存在です。あなたが守り通した『公正にゲームをクリアさせられる権限』が、完全にこの世界から離れてしまえば、ゲームの参加者は建物から出られなくなってしまう」
そこまで知られているのか、と少年は苦々しく思った。
「……仕方がないでしょう。人間が造り出した、外部からの『侵入者の排除』の命令権が、本来であれば入った者を閉じ込め、排除するよう造られているのです。だからこそ僕は、不条理なゲームをさせないため、『ルール』そのものとして、この世界に留まっているのです。出来るだけ彼らが最短でゴール出来るよう、僕が干渉出来る範囲内で最大限に努力しているつもりなのです」
少年は、男に対して畏怖を覚えた。男が一歩、二歩と距離を詰めてくるので後退しようとしたのだが、何故か両足が動かなくなっている事に気付いた。
男は少年の前までやってくると、薄い唇に大きな弧を描いた。予想していたよりも男の背丈は大きく、少年は、まるで大きな闇が目の前の景色を遮ぎ、立ち塞いでいるように思えた。
「君は生粋の『夢人』ですから、どうやら闇に浸食された歪みには耐えられそうもない。――だから君の余力と、この世界での配役を私にくれませんか? 君は先に『宿主』の『核』を連れ出してくれれば、それでいいのです」
少年は、顔面に迫る男の、作り物のような大きな白い手を凝視していた。
身体が動かせない中、男の言葉の意味を数秒をかけてようやく理解し、戦慄した。男はこの世界で、あのエキストラであった受け付け令嬢と同じように、今度は自分と取って替わろうとしているのだと気付いた。
正規の『夢人』に、そんな事が出来るはずがない。しかし、足元からゆっくりと闇に喰われてゆく冷たさを覚え、少年は不意に「ああ、そうなのか」と、生まれも役目も全く異なる存在を今更になって思い出した。
「……あなたの交渉を拒絶したら、僕を『喰らう』のですか?」
決して会わず、触れあえず、それは『顔』を持たない対極に存在するモノだ。
そう察して、少年は慎重に尋ねたが、男は作り物のような笑みを深めただけで、何も答えなかった。
どうしてこんな事になっているのか分からないが、『理』を踏み外しかけている者がいるのだろう。そのせいで、これまで崩される事がなかったルールがぐちゃぐちゃになっている。物質世界の物が、この精神世界に入り込むなんて異常事態だ。
「この世界での『配役』と、残されている君の力を譲り渡して下さい。ゲームの参加者が出られなくなるのは、非常に困ります。君は、定められた通り『宿主』の『核』共々を回収する事だけを考えればいいのです」
「……『彼』は、どうなるのですか」
「私に応じて下さるのであれば、君の望みは全て叶いますよ」
悪夢が耳元で囁いた。「悪い話ではないでしょう」「さぁ後を私に任せるためにも、その望みを口にしてごらんなさい」と告げる、嗤うような作り物の声を聞きながら、少年は、視界の全てが暗黒に呑まれるのを目に止めた。
少年は、人の手によって芽を摘まれた、哀れな自分の主人を思い起こした。
少年の『宿主』となったその人間――主人は、現実世界で繰り返される毎日の仕事を嫌っていた。機械的に仕事を行う従業員同士の、時々交わされる数少ないコミュニケーションだけを好いていたようだった。
感情がない、愛着もない、言葉もないと思っていた同僚達から、たまに感じる人間らしい一面が気に入っていたらしい。だから、学生時代のように、ころころと仕事先を変える事はなかった。
主人が心に留めている世界は小さく、覚えている光景も少なかった。
仕事からの帰り道に見る、静かな早朝の景色。出勤時の寂れた街並みを照らし出す、ビルの隙間から覗く狭い星空。誰も待っていない家で眠りに落ち、起床し、短い時間に食べ物を口にして、くたびれた靴を履いてまた出勤する。
主人が住んでいたアパートは、夏には暑く、冬には寒かったが、それでも主人は、彼なりに季節毎の楽しみは覚えていようだった。同じ風景、同じ光景の中で、気温の差や食べ物の違いを楽しみ、「もう秋の空かぁ」と呟いたりしていた。
少ない賃金でやりくりする食事、ベランダによく訪ねて来る隣室の猫。久しぶりの休日には公園まで歩き、何もせずのんびりと過ごした。姪っ子が生まれ、遠くに住む父と母が年金暮らしで落ち着き、弟がようやく会社の経営を安定させ、別れた恋人が長年の夢を叶えて女優となれた。
彼は、自分の夢を特には持っていなかった。毎日疲れた顔で人生を過ごすような、他人から見れば、ひどくくたびれ男だったかもしれない。
けれど、彼は大切になった誰かの夢を願い、愛し、そして心配もする男だった。
俺の『夢』は不思議と良く当たるんだぜ――彼は少ない友人を励まし、助言もした。きっとその夢は叶えられるさ。ちょっとの休みや寄り道は必要だし、お前が立派になる姿を俺は『夢』に見たぐいらなんだから、自信を持てよ……
望めば形に出来る、具現化の『夢見』としての力を持っていた男だった。自分で創造した予知夢を、現実に引き起こせる人間は数少ない。だからこうして、少年は彼の夢世界の『夢人』としての役目を与えられた。
けれど、主人は優し過ぎたのだろう。
彼は結局のところ、最期の瞬間まで自分の為に『力』を使おうとはせず、自覚もないまま人の生を終えてしまった。不幸を自分で背負う事で、自分が本来得るはずだった幸福を、彼は他人に渡していったのだ。
「……あの人は、人のいる世界が好きだった。僕は、とうとう言葉を交わす事も出来なかったけれど、こんな作り物の世界ではなく、あの人を還るべき場所へ連れ出してあげたいのです」
少年は、闇の中で、その望みを口にした。
どうして精神世界に、彼の肉体が入り込んでしまっているのか。戻してあげようにも方法が分からず、物質世界の鉄で覆われてしまって『夢人』は触れる事すら叶わない。
主人が死んだ時の事は、よく覚えている。突然別の夢世界へと連れ去られ、死んで戻って来た。空っぽの魂だけが、先に彼岸へと向かってしまったのを感じた。
主人の肉体の欠片と『心』と『夢の核』だけが、この世界に捕らわれて外へ出る事も叶わないままだった。心のない魂は彼岸を渡る事も出来ずに、自分が人間だった頃の姿を保ったまま、少年が『心』を持ってやってくるのを境界線上で漂い待っている。
けれど人の生を終えた魂は、自分の『夢人』を認識する事はない。
それは絶対のルールで、死は物質世界の『理』の領分だから、向こうからは届けられる『心』しか見えないのだ。少年は彼の夢を守り導く『夢人』として、彼の『心』を彼岸へと送り届け、次に相応しい『宿主』の為に精神世界の中心に『夢の核』を連れて還るだけ……
まるで儚い夢のようだったと、少年は大切な『宿主』を想って、思わず目尻に浮かんでしまった涙を乱暴に拭った。
「――僕らは偽りの存在でしかないのですね。こうして僕が感じていると思っている感情や想いも全て、彼が作り出している『夢』なのかもしれない。役割を終えて『眠る』事に意味はあるのでしょうか……」
すると、少年を覆い尽くす闇から男の嗤い声が上がった。
「君達は『理』にとって、同じ創造の力を受け継ぐ『子』です。次の『宿主』が決まるまで、『夢の核』と共に眠りに付くのもまた役目――その核で『夢』が引き継がれるのですから、君達が寝ている間にも何処かの誰かが、いつか、その人間の『夢』を見る事もあるのですよ」
素敵でしょう。まぁ『私』には不似合いな話ですがねぇ……、と声は含み笑いした。
だからこそ、核だけは必ず守り抜かなければならない。これまで『宿主』になった者達の記憶も夢も収めた大切な結晶だ。それは彼らが生きた証であり、物質世界の均衡を守るために、精神世界が担うもっとも大事な役割だった。
それを思い出しながら、少年は……
ああ、それはとても素敵ですね、と意識の中で答えた。
いずれ『宿主』であった主人の姪っ子か親か、兄弟か、彼の事をずっと愛していた元恋人や、数少ない彼の友人達が、彼が残した少ない『夢』の風景を、自分達の『夢』として見る日が、来るのかもしれないのだから。