表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/122

一章 白いホテルの惨事(1)

 住み慣れた部落の外に出た事がなかったから、地区や市が変わるだけでも異世界に来たような錯覚を覚える。戻る家もなければ、帰らなければならない場所もない、それは自由気ままな一人と一匹の旅だった。



 猫であるクロエの飼い主の名は、中村エルといった。



 エルは、通気性の良い黒のロングコートをはためかせながら、堂々とした足取りで街を闊歩した。コートを着こなすには少々若い小綺麗な少年は目を引き、ボストンバッグから顔を出す黒猫の姿も目立って、気付いた通行人が思わず好奇の目で振り返るが、一人と一匹は気にしなかった。


 簡易宿泊説から出て数十分、エルは、人通りの多い市街へと足を進めていた。


 那覇の国際通りは、他県からの旅行客や異国人、県内の人間で溢れていた。沖縄には米軍基地があり、県内で働き住んでいるアメリカ人の数も多いので、よく目にも止まった。


 しばらくエルは、人でごった返す町中を目的もなく散策した。緑がほとんどない道路や路地、ぎっしりと敷き詰められたような建物には生活臭があり、店通りには様々な食べ物や香水の匂いもあった。風が吹き抜けた一瞬だけ、波之上の方面から流れてくる潮の匂いが鼻先を掠める。


 古い街並みの間に真新しいビルが建ち、新しい街並みに入り込み残る古い住宅やアパートも目立っていた。道路や建物は増築中の物もあり、けたたましい音を立てて工事が続いている。


 那覇は、住んでいる人や働く人など、とにかく人の出入りが多い場所だった。車の交通量もかなり多くあり、目が回りそうになるぐらい流れも早い。


 秋も半ばを過ぎた季節という事もあり、沖縄も少し肌寒くなっていた。他県の人間にとっては、まだ平気な寒さのようで、曇り空の下を半袖半ズボンで歩く旅行者達は、寒がる沖縄県民を半ば不思議そうに目で追っていた。ずっと沖縄で暮らしているエルにとって、今の時期に半袖一枚でいる人間の方が、寒そうに思えて仕方がなかった。



 ビルの立ち並ぶ繁華街まで足を伸ばしてみたところで、エルは、見慣れない商業ビルを見上げた。空を覆う雲は厚いが、低くはない。どうやら雨は降らないようだ。



 クロエは老猫なので、一日に何度も仮眠をとるのも珍しくはない。川沿いに抜けた頃、クロエはボストンバッグの中で眠りに落ちていた。


 エルは、この辺りに猫同伴でも大丈夫な食事処はないかと考えながら、しばらく川を眺めた。川は濁っていて、眺めていてもつまらなかった。どこからか聞こえる工事現場の音や、表通りの車の騒音を耳にしながら足を休めた。


 暫く休んだ後、クロエが目を覚ました頃合いを見計らって、エルは川の反対側を目指した。


              ※※※


 少し空腹を覚え始めた頃、エルは、美味い匂いに溢れた国際通りまで戻る事にした。旅行者の団体に遭遇し、そっと道を譲って見送った時、不意に辺りの喧騒が耳から遠のいたような違和感を覚えて、足を止めた。



 チクリと首の後ろに違和感を覚えた一瞬、ふと、どこからか名前を呼ばれたような気がした。



 呼ばれた名に身体が自然と反応し、エルは驚いて振り返ったが、見知った顔はどこにもなかった。町の喧騒も、既に耳に戻って来ていた。


 きっと気のせいだろう。そう考えて、エルは足を動かした。


 何故なら、その名前を呼んでくれていたのは、少し前まで一緒に暮らしていた育て親だけだったからだ。エルのもう一つの名前を大事に呼んでくれた彼は、先月に亡くなった。もう、この世に、あの名前で呼んでくれる人はいない。


 ボストンバッグから向けられる視線に気付いて、エルは、歩きながらクロエと目を合わせた。クロエがどこか心配そうな眼差しを返したので、思わず苦笑を浮かべた。


「ごめん、なんでもないよ」


 エルは気を取り直し、大きな交差点で一度信号を待ってから先へと進んだ。しかし、一際大きな白い建物が向こうの通りに見えた時、再び、後方から名を呼ばれたような気がした。


 少女の声であるという印象を受けて、エルは、反射的に振り返った。



 振り返り様、ふわりと風に揺れる長い金髪が、エルの脳裏に残像のようにこびりついた。気のせいか、どこかで見覚えがあるような既視感が――……



「何か、お探しか?」


 不意に話しかけられ、エルは驚いて「ひょわ!?」と驚きの声をこぼして飛び上がった。


 声の方向を確認すると、道の脇に一人の僧侶が立っていた。僧侶らしい格好をしたその男は、笠を被っているので顔は見えなかったが、背丈や体格、声の感じからすると若い男のようだと分かった。


 というか、なぜ俺に声を掛けたのだろうか……?


 まるで気配を感じさせなかった僧侶の登場に、エルは、先程まで考えていた事も忘れて、彼を見つめ返した。心臓に悪いなと思いながら、他にも声を掛ける人間はいなかったのだろうかと辺りを見回したが、正午を過ぎたせいか、人の数は少なくなっていた。


「えぇと、寄付が目的なら、他を当たって欲しいんだけど……」

「探し物をしているようだから、声を掛けた」


 両手を袖に入れたまま、僧侶が淡々と答えた。エルは、これも何かの縁だろうと考え直し、思い切って質問してみた。


「猫と同伴出来そうな飲食店を探しているんだけど、心当たりはありませんか?」

「場所によってはあるのだろうが、生憎、私はこの土地を知らない」

「なんだ、知らないのか」


 エルは、途端に落胆を覚えた。ボスントバッグから顔を出していたクロエも、少々呆れたような目を僧侶へ向けていた。


「これだけ人が群れる場所であるならば、食事処はいくつもあるのだろう」

「ごちゃごちゃして、良く分からないんだ」


 エルは本音をもらし、眉根を寄せた。


「中の通りは食べ物を並べて置いてあるから、俺達が近くまでやって来ると、店の人が露骨に嫌そうな顔をするんだよ」

「そうか」


 これで話は仕舞いだろう。僧侶の言葉が途切れたタイミングを見て、エルは「じゃあな」と言って歩き出した。



「もし『願いを一つだけ叶えてやろう』と約束した時、その人間が自分の事ではなく、他者を助けたいと願ったとしたならば、その気持ちはどういうものだろうか?」



 僧侶が呼びとめるような声を上げたので、エルは足を止めて、肩越しに訝しげな眼差しを向けた。よく分からない問い掛けだったが、特に急ぎの予定もなかったので、気まぐれに少しだけ考えてみた。


「願った人は、その誰かの事が自分よりも大切なんじゃないの」

「なるほど、『大切』か」


 僧侶は独り事のように呟き、小首を傾げた。


「願われた他者にも意思があるが、一つしか手助けする事が出来ないとしたら、本人の願いを無視しても良いものなのか? 複数の他者が、それぞれ同じ者の未来を願ったとしても、それが関わる全ての人間の未来の『縁』を派生させるものだとしたら?」

「……なんだか難しい話だなぁ。それ、俺が答えられるような質問じゃないよ。多分、頭の良い人が、ずっと考え続けているような難題じゃないの?」


 エルが困ったように笑うと、僧侶も「そうなのだ、難しい」と肯いた。


「だからこそ、私は他者の意見を聞いてみたい」

「それって、俺でも構わないって事?」

「私は今、君の意見を聞きたい」


 脇を通った二人組の女性が、怪しいものを見る目をエル達に向けた。


 妙な勧誘を受けていると勘違いされたのだろうか。そう思って顔を上げると、彼女達は、足早に去って行ってしまった。エルは、少し面倒な男に掴まったなと溜息を吐き、小話に付き合う選択をした事を少し後悔した。


「……難しい事は分からないけど、願った人は、きっと大切な人の事を一生懸命考えて『その人を助けて』と願った。幸せを強く願われて、『一番誰もが幸せになれる』未来が、叶えるに相応しいものとして選ばれるんじゃない?」

「なるほど。良い意見だ」


 しかし僧侶は、少し肩を竦めてこう続けた。


「どちらが本当に救いになるかは、また別問題だがね。願われるモノにも事情はある。ルールも多い。早く戻っておいでと約束して見送ったはずの愛しい娘が、しばらく帰って来ないのは『父親』には堪えるようだ」


 私は『子』がないので分からないが、と僧侶が思案げに呟いた。


 このまま小難しい長話をされても面倒だ。腹も減って来たので、エルは、今度こそと考えて踵を返した。すると、背中の向こうから「この『協力』も干渉になるだろうが、まぁ仕方がない」と言う僧侶の声が聞こえた。



「何事もタイミングが大事なのだ。出会い、願い、想う心で道は枝分かれする。我々に『心』までは動かせないからこそ、願いを叶えるかどうかも、結局のところ最後は君達の『選択』次第なのだよ」



 幸運を、と男の声がしたが、エルが振り返った時、そこには誰もいなかった。


              ※※※


 唐突に現れて消えるなんて、まるで神出鬼没で変な僧侶だ。足を止めてしまったエルは、そんな事を考えた自分がおかしくなり、「んなわけないか」と足を踏み出した。


 その瞬間、不意に水の中を歩くような違和感が足に絡んでギクリとした。耳の奥がじぃんと痺れ、一瞬、脳が衝撃を受けたようにぐらりと揺れたような気がした。


 

 何事だろうかと驚いて足を止めてしまった時には、その違和感は、耳の奥の痺れと共に一瞬で消え去っていた。



 エルは、辺りの様子を慎重に確認した。物理的な異変はどこにも探せなかったが、世界の色が唐突に変わってしまったような、そんな奇妙な変化を覚えた。ボストンバッグから顔を覗かせているクロエを見やると、そんな違和感はなかったとばかりに首を傾げている。


「うーん、気のせいか?」


 そう口にしてみると、多分気のせいなんだろうなとも思えて来た。耳鳴りのような不調を覚えたのは初めての事なので、もしかしたら立ち眩みというやつかもしれない。


 相変わらず人の通行は続いており、通りには車も行き交っていた。突っ立っている訳にもいかないので、エルは、向かい側からやってくるパーカー姿の若者を避けてから先へと足を進めた。


 このまま牧志方面へ抜けて、モノレールに乗ってみるのもいいかもしれないと、そんな考えが浮かんだ時――



「お客様、可愛らしい『猫ちゃん様』をお連れですねぇ」



 大きな白い建物の前で、唐突に男から声を掛けられた。


 その男は歩道の端に、両足を揃えて姿勢正しく佇んでいた。一見した歳は三十代前後で、体躯は細いが、異国人かと思われるぐらいに背丈が高かった。通りに場違いな燕尾服を着こみ、染み一つない白いシャツと黒の蝶ネクタイ、革靴は磨き上げられて清潔感が保たれていた。


 特徴のない細長い白い顔には、作り物のような愛想笑いを張り付かせており、開いているのかも分からない笑うような目をしていた。どこか中途半端に、すうっと通った鼻筋や形の良い薄い唇をしているが、苦手意識を覚えるような下手くそな作り笑いが印象強過ぎた。


 人相を見る限り、性格はあまり良くはなさそうだ。


 ざっと観察したエルは、男の左胸には『ホワイトホテル』と書かれた金色のネームカードが付いている事に気付いた。男が立っているのは白い外観の大きなホテルの前だったので、恐らく、やり手のホテルマンという奴だろう、と推測する。


 またしても面倒そうなのに絡まれた気がした。行く先を確認しながら歩いていたつもりだったが、このような男が立っていた覚えがなくて、エルは首を捻った。記憶を辿るものの、先程まで見ていた光景が不思議と曖昧で思い出せない。


 それにしても、今日はよく話しかけられる日だな。


 それを妙に思いながらも、エルは、声を掛けて来た男に視線を戻した。呼び込み営業をしなければならない事情でもあったのだろうか。それとも、お得意のお客様でも待っているのか?


「悪いけど、俺はホテルのお客様じゃないよ」


 クロエを出来るだけ男から遠ざけつつ、エルは、警戒しながらそう答えた。


 すると、男が一秒ほど間の抜けた表情をしたかと思うと、途端に嘘臭い営業顔で「ヒョホホホホッ」と甲高い独特の笑い声を上げた。


「いえ、いえ、特に他意はありませんのでご安心下さい。中心街ではペット同伴が難しい場所が多く、困った顔をして、この通りを歩いているお客様をよくお見かけしているもので、こうしてお声を掛けさせて頂いている次第なのです」

「……あのさ、俺みたいな一人歩きの若い人間が、ホテルに用があると思う?」


 通帳にはまとまったお金は入っていたが、無駄遣いするつもりはなかった。育ててくれた人から、亡くなる前に「準備してコツコツ貯めていた。これは誰にも文句を言われない、お前だけのものだ」と手渡されたものだ。


 すると、ホテルの男が「実はですね」と唐突に胸を張った。


「当ホテルでは、お客様第一のサービスを心掛けておりまして、ランチは三時半まで営業しておりますし、ランチを担当するコックの料理も素晴らしいのです。バイキング形式ですし、ペットちゃん様も大歓迎。何と言っても平日はお値段がリーズナブル!」


 だから平等に声を掛けているのだと、男は意気揚々と自慢するように話した。


「当ホテルでは、過ごし易い環境と、老若男女に人気のメニューを取り整え、一時のくつろぎとして、宿泊客様以外にもご利用頂ける岩盤浴や、マッサージメニューも取り揃えさせて頂いております! ――まあ、ぶっちゃけますと、出来るだけ地元の方にご利用頂いて、顧客様になって頂ければ、一人あたりの来る回数もそこそこ稼げ――」


 そこで、怪しげなホテルの男――ホテルマンが、演技かかったような咳を「ゲフンゲフン」とやった。


 本音が口から出掛けたので、早急に言葉を切ったのだろうとは理解出来た。しかし、張り付いた愛想笑いでの見事な弾丸トークに気圧されて、エルは口も挟めず一歩後退していた。


「私はとても親切で素晴らしい、ただのホテルマンですのでご安心を! ランチバイキングメニューでは、ご希望がございましたら、ペットちゃん様のお食事もリーズナブルなプラス料金でご用意させて頂いております。ちなみに、当ホテルのオーナーも大のペット好きでして、趣味の悪いぶっさいくなのが勢揃いで大変悪趣味ですので、私は見掛けるだけで吐き気がしますし、正直大嫌――ゲフンゲフン!」


 男の信用ならない作り笑いと、関係のない個人的な意見まで挟みこんで来る喋り方は好きになれそうにもないが、ランチバイキングの宣伝内容には少し魅力を感じてしまった。


 ランチバイキングについては、以前、クロエを密かに連れ込んだホテルで、美味しい思いをした経験があったのだ。ペット同伴であるのなら、非常に魅力的だともいえる。


「……そのバイキングって、まだやっているの?」

「はい、勿論ですとも!」


 ホテルマンは即答してから、初めて自分の左手首の腕時計で、現在の時刻を確かめた。


「今は午後の二時半ですので、一時間はゆっくりお過ごし頂けるかと」

「…………値段、訊いてもいい?」

「お一人様千百円、猫ちゃん様は四百円で、専用のお食事が付けられます。お席も、猫ちゃん様用に高い椅子をご用意させて頂きますが、どうされますか?」



 宣伝文句に嘘はなく、本当に料金も安い。ここで断る方が勿体ないだろうと、エルは、クロエと視線を交わして互いの意見を確認し合った。



「分かった。それじゃあ、食べて行くよ」

「毎度ありがとうございます!」


 エルは、無駄にテンションの高い、胡散臭い演技かかったホテルマンに案内され、ホテルのエントランスへと足を踏み入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ