六章 それは偽りの存在(4)上
六歳前の、物心ついた頃の事は、あまりよくは覚えていない。
自分には血の繋がった素敵な両親がいて、幸せだった時があったのだと、ぼんやりと記憶の断片が少なく残されている程度だ。
あの頃は、どこかで皆と繋がっていたような、満たされていたような気もするけれど、その記憶はほとんどが事故で失われてしまっているから、今のエルには分からない。訪れてくれた『あの子』の事も、交わした約束も、既に記憶の中から無くなってしまっていた。
どこからが始まりだったのかも、覚えていない。気付くとエルは、オジサンの家の子供になっていて「今日からお前は『エル』だ」と告げられたのだ。
あれ? 『あの子』とは誰で、俺は、一体何の約束を交わしたのだろうか?
失われた記憶の中に、忘れてはならないとても大事な約束があったような気がする。しかし、自分が何のためにこんなに頑張っていたのか、やらなければならない事があったような、そんな焦燥感を覚えた時――
名前を呼ばれたような気がした一瞬後、振り返った先にあった大きな夕焼けを見て、エルはその思考を忘れた。
幼い姿をしたエルは、しばし真っ赤な夕焼けを目に止めていた。
そうか。ポタロウとクロエと、長らく遊んでしまったのだ。夕方までには帰るとオジサンに約束していたのに、と思い出す。
眩しい夕焼けを背景に続く畑道の先に目を向けると、そこにはポタロウと、クロエの姿があった。中型の雑種犬と、しなやかな身体を持った美しい黒い毛並みの雌猫が、畑道の途中で足を止めてしまった幼いエルを、どうしたのだろう、という顔をして待っていた。
そうだ、帰らなければならない。オジサンが、今日はとびきり美味しいお土産を持って帰って来ると言っていた。一人と二匹は美味しい夕飯が待ち遠しくて、今日の分のおやつを抜いていたから、まだ早い時間だというのに、もうお腹はペコペコだった。
足が軽い。身体がふわふわとして心地が良い。歩みを再開したエルは、我知らずリズムを踏んで畑道を踏みしめた。
ポタロウとクロエが、楽しそうに走り回りながら「早くおいでよ」と、ハッキリとした意思をこちらに伝えてきた。なんだか、とても幸せな気持ちだ。
エルは、ふんふんふん、と幼い声で鼻歌を口ずさんだ。オジサンがよく歌うメロディーは、もうすっかり身体にこびりついてしまっている。
自作のへんてこで楽しくて暖かい歌を、オジサンは子守歌だと言って歌う事も多かった。彼の妹が、まだ生きていた頃に二人で作ったのだそうだ。彼の妹は音楽の才能があって、結婚式の日に、二人で彼女の夫に贈ったとも聞かされた。
きちんとした歌詞もあるけれど、オジサンのレパートリーは豊富だ。ミカン畑の中で~…と始まるフレーズが、エルは一番好きだった。オジサンも、好んでよくそれを口ずさんでいた。
『ミカン畑の中を、駆けてゆくの。
どこまでも、どこまでも広い空に手を伸ばして。
彼が待つ場所まで、想いはひとっとびで駆けてゆくのよ。
どうか、私を抱きしめていて。
どうか、いなくならないで。
最期の別れが来てしまうまで、きっと私、あなたの事が好きよ』
歌詞を口ずさみながら、足でリズムを刻んで畑道を進んだ。楽しそうなエルを見たポタロウとクロエが、喜ばしいと言うようにはしゃいで、どこか興奮したように鳴きながら足元をぐるぐると走り回った。
一緒に歌っているつもりなのだろう。可笑しくなって、エルは大きな声で笑った。
「ようし、競争だ!」
そう声をかけると、二匹が一斉に地面を蹴った。そうやって一緒に駆け出しながら、エルはオジサンの、オリジナルバージョンの替え唄を大声で歌った。
『帰ろう、帰ろう、あの家に。
パイナップルとスイカが待ってるよ、
お得意のゴーヤーチャンプルーと、ナーベーラーの味噌汁を温めて、
食卓をみんなで彩るのさ。
裏庭の美味しい島バナナを、おやつにどうだい、きっと、美味しいよ、
皆で食べれば、ずっと美味しい。
いただきます、と手を合わせて、ごちそうさまと皆で言おう。
おはよう、ただいま、おやすみ、明日もまた笑顔で挨拶。
オジサンの魔法の料理は、世界で一番美味しい。
愛がたっぷり詰まった、ちょっとだけ塩辛い、男の料理……』
風が吹いた一瞬、ふと――エルは我に返った。
これは『夢』なのだと、唐突に強い自覚が湧き起こった。目が覚める直前に、その世界は急速に温度と現実感を失っていき、そこに佇むエルは、もう子供の姿をしていなかった。
後から後から、とめどなく大粒の涙がこぼれ落ちて、エルは堪え切れず大声で泣き出した。ポタロウもクロエもいない大きな夕焼け空だけが、さとうきび畑の向こうに佇んでいた。
ああ、俺は一番幸せで、もう届かない過去を見ていたのか。
そう気付かされて、帰りたくても帰れない悲しみが、懐かしいばかりの過去を羨んで胸を貫いた。とても悲しくて、寂しくて、会いたくて苦しくて、エルは子供のように空を仰いだまま泣いた。
過去の光景は、目覚めの気配と共に薄れていった。
※※※
エルは、己の覚醒を悟って目を開けた。気のせいか、なんだか懐かしい夢を見ていたような気がする。
内容は覚えていないし、どんなものだったのかも分からないが、それが本当だとすると、数少ない悪夢の他に『夢』を見た事がないエルにとっては、とても珍しい事になる。思い出そうとすぐに努力すれば、少しは残像ぐらい辿れたのかもしれない。
しかし、エルは目の前の光景を視認した途端に、そんな余裕など吹き飛んでしまっていた。
眼前に、こちらを見降ろす男の顔があった。しっかりした太い首、鍛えられた広い肩、元より愛想がない目を、更に非友好的に見せる眉根の皺と、これが通常モードと言わんばかりの仏頂面。
その男がログであると理解するまでには数秒もかからなかったが、状況を飲み込むには時間を要した。
目覚め一番の視界に、至近距離に飛び込んできたその光景は強烈だった。しかも、何故かログの大きな右手は、触れないギリギリの距離感を保った状態で、エルの細い首をすっぽりと包んでいた。
殺気がないので、首を折ろうとか、そういった物騒なものではないだろう。
エルは、何を考えているのか分からないログの顰め面を、訝しげに見つめ返した。寝坊したから起こそうとしていたのだろうかと考えるが、彼はこちらを覗きこんだまま動く様子がない。
「…………何してんの? すげぇびっくりするんだけど」
少しだけ考えてみたのだが、やはりこの状況になるまでの経緯が上手く把握出来ず、エルは眉根を寄せた。思案するように眉間の皺を深くしていたログが、ふっと呆れた眼差しを浮かべて「寝てりゃ、少しは大人しく見えんだかな」と呟き、離れていった。
まるで、とりあえず悪いのはお前だ、とログの一連の動作が物語っているような気がする。
いや、絶対にそうに違いない。奴は空気も読めない迷惑野郎なので、なんでびっくりするのか分からん、と思っているはずだ。そう勘繰ったエルは、勢い良く上体を起こし「何なんだよ一体」とログの背中に向かって吠えた。
すると、ログが足を止めて、面倒そうに振り返った。
「眠くないって言っていたわりには、一番寝てたな、クソガキ」
「それ回答になってないよな。よし、ぶっ飛ばす」
エルが反射的に拳を握りしめた時、少し席を外していたらしいスウェンが戻って来た。
スウェンは部屋に入って早々、二人の険悪な様子に気付くと「ちょっと目を離すと喧嘩するとか、勘弁してよ」と慌てたようにログを押しのけ、エルに取り繕った笑みを向けた。
「それにしても、エル君はぐっすりだったね。猫ちゃんが肉球タッチしても、ちっとも起きなかったんだから。あ、セイジには、先に外の様子を見に行ってもらってるよ」
「何かあったの?」
ベッドから下り、エルはシャツとコートの襟を整えながら訊いた。ログが納得いかない様子で鼻を鳴らしたが、スウェンに先に喧嘩を止められたせいか、「部屋の外で待つ」と告げて歩き出した。
「大きく『歪んだ』から、外の世界に変化があるんじゃないかと思ってね。エル君の起床を待ちつつ、準備していた訳だよ」
「そうだったのか」
エルは、足元に寄って来たクロエを抱き上げ、小さな声で「おはよう」と挨拶をした。甘えるクロエの頭を撫でつつ、スウェンに「ごめん」と反省を伝えた。
「眠り込むつもりなんて、なかったんだ。寝坊して、ごめんなさい」
「――大丈夫だよ。支度している間は、寝ていてもらっても平気だからさ」
丁寧に謝ったエルを見て、スウェンが愛想笑いを固まらせ、台詞を言い終わるよりもワンテンポ早く視線をそらした。そこに小さな動揺が見られたような気がして、エルは首を傾げた。
もしかして、ちょっと戸惑ってる、とか……?
思い返せば、何となくではあるが、血まみれの支柱を境に、スウェンがこちらとの距離感を計りかねているようにも感じた。彼は、他人と距離感を近づけてしまう事にトラウマでもあるのかもしれない。
軍って人命より任務ってイメージもあるけど、それって一部は事実だろうしなぁ。
エルは、自分が彼らにとってイレギュラーな同行者である事は、きちんと把握していた。頭の良いスウェンが、ただの民間人であるエルを、もしかしたら助けられないかもしれないと考えている可能性についても気付いている。
この仮想空間では、何が起こるか分からないのだ。人命より任務となってしまっても、場合によっては仕方ないと思う。
自分の力が及ばなければ負けるというのは当然の事で、そこでエル自身が命を落としてしまったとしたら、それは弱かったエルのせいだ。戦って抗い続けた結果であるならば、エルは後悔しないし、最後まで自分を貫き通して死ねるのなら、悔いもない。
覚悟は、この『旅』を始める前から出来ていた。
クロエに害がないのであれば、それでいい。
それに、クロエとの残された時間が引き延ばされたと考えれば、そんな結末も悪くないと思える。欲を言えば、この大冒険の後には現実世界に戻り、残り少ないクロエとの旅を続けたいとは思うけれど。
スウェンについて考えるとするならば、実際の戦場では助けられなかった仲間もいただろうし、多くの犠牲者を見てきたとは想像できる。目的を念頭に置いて弱者を切り捨てなければ、くぐり抜けられない場面もあっただろう。
だからこそ、エルは、これ以上の罪悪感をスウェンに抱いて欲しくないとも思っていた。彼も、相手の心に踏み込むほど別れが辛くなってしまう事を知っているようで、出会った当初から割り切って考えてくれている所も見受けられたから、きっと大丈夫だろう。
出会った頃の印象というか、ただの勘ではあるけれど、スウェンは、頭の切り替えが上手く出来る大人だとエルは感じていた。今あるスウェンの戸惑いも、すぐに消えてくれるはずだ。
その時、エルは自分を棚に上げるような考えだと遅れて気付き、腕の中にいるクロエを抱き締めた。
余所に心配を向けている場合じゃない。そもそもエルには、スウェンの立場を考えたり批判する権利など、彼らに出会った時からなかったのだ。
あの日、オジサンの唯一の味方であったらしい、遠い親戚にあたる一つ家族が「君はまだ若い。私達が、責任を持ってクロエを引き取ろう」と申し出てくれた優しさに甘える事が怖くて、――エルは、クロエを連れて逃げ出したのだから。




