六章 それは偽りの存在(3)上
いつからそこに所属していたのかと訊かれれば、正確な年月に覚えがない。彼に思春期や年頃らしい経験はなく、身長が届かない時期は台を使ってメスを握っていたっけ、と薄く記憶に残っている程度だった。
恐ろしく熱意がない人間、と周りの人間は彼を評した。自分に興味がないのだ。
彼が興味を持って追い続けていたのは、生体の不思議だけだった。早々に天才だと注目され、早急に大人の世界に迎え入れられた少年時代、彼が、解剖しても良いと言われて「そうですか」と頷いて躊躇なくメスを入れたのも、ただ純粋な好奇心からで悪意はなかった。
人間として感情の一部が欠落している。生物と死体の区別がないのでは……
あまりの優秀ぶりに周りの者は彼を恐れたが、彼の精神状態は常に正常だった。上を目指すつもりはなく、トントン拍子に機会が巡ってきて、それが偶然にも、自分の興味を惹くものだったから次々に手を出した。国の持つ地下十数階の研究施設に所属している現実味もなかったから、プレッシャーとも縁がなかった。
利益や昇格といった内容には関心がなかった。以前の研究を終えた際も、特に行くあても決めていなかったのだが、彼は秘密を多く知り過ぎており、それなりの実績を抱えていた事もあって、Sランクの極秘研究所が閉鎖された後も残るよう説得された。
――しばらくは時間をゆっくり使い、適当に好きな事を進めるといい。
彼の直属の上司は、そう助言した。そして、こうも嘆いた。
「……とはいえ、君の探究心や仕事に対する姿勢は、結局のところ、軍が期待するような結果を出してしまうのだろうな。仕事に精を出している君の心根は、まるで軍人そのものだよ」
彼は軍人ではない。戦争や争い事が好きではないとは自負していた。これまでの研究も、結局は流されるままに巻き込まれたようなものだ。彼は幼い頃から勘で物事が成功してしまう事が多く、その閃きや思考能力も買われていた。
永久就職のようなものだ。自分は、軍の所属から外される事はないだろう。民間の研究所への転勤も出来ないとあれば、まぁ仕方がない。
自分に興味がない男は、強く逆らう理由や根拠も持っていなかった。
さて、次の血生臭い仕事があるまでに、多くの余暇を与えられたわけだが、何をしようか?
ぼんやりと決めかねている間に、まだ研究のテーマさえ定まっていない状態で、彼が以前から個人部屋として使っていた部屋が、第一研究室として許可された。これまでと同じように周りから固められ、彼は流されるままそこに居座った。
ゆっくり考え、彼は一つのテーマを決めた。科学としてはどうなのだろうな、と思いつつも、なんでもいいと言われたのだしと開き直り、書類をでっちあげて適当に申請を出してみた。
断られたら長期休暇でもとって、しばらくは研究から離れてやろうかとも思ったが、許可は早々に下りた。
これまで巨大な研究施設に勤め、複数の研究に足を踏み入れる慌ただしい毎日だったから、たった一人で、ゆっくりと、調べ物をのんびり進められる穏やかな時間が気に入った。何故か、ドーマとかいう人物の研究資料が届いたので少し目を通してみたが、興味は湧かなかった。
一人で『夢』というテーマを調べ始めて、しばらくもしないうちに、新人の女性所員を迎え入れる事になった。
人員を増やす気はなかったが、上からあてがわれたので彼自身に拒否権はなかった。上層部としては、事情を知らない周りの研究者達の目も気にして、上辺だけでも研究チームらしく整えたかったのだろうとは推測出来た。
調べる人出が増えた事で、彼の研究は勢いがつき始めた。
専門ではない新しい知識を得るたび、彼の好奇心が、次第にその研究へのめり込んでいったせいだ。軍のためになる研究だとでっちあげ続けた報告書が、いつか現実になりそうな悪寒も覚えたが、彼は自身の純粋な探究心には逆らえなかった。
というのも、彼は物心ついた頃から『夢』というものを見た事がなかったのだ。夢も希望も、想像する意欲もなかったせいだろうと、自分ではそう冷静に分析している。
他人から話を聞くたびに、いつか自分も『夢』というものを見てみたいものだと思った。自分がスーパーヒーローになって空を飛んだり、未知の世界で大冒険を繰り広げたり、魔法を使えるような、そんな体験をしてみたいと考えるようになった。
恐らく、幼少期から少年期にかけて、子供らしい経験した事がなかったせいだろう。彼は今更になって、子供のような純粋な好奇心が芽生え、わくわくする感覚というものを初めて知った。
「子供っぽい発想だと思うかい?」
ある日、唯一の部下となった新任の女性にそう訊いてみた。世界の不思議を追い求める興奮が、私を突き動かしてやまないのだ、と。
すると、彼女は柔らかく微笑んでこう言った。
「素敵だと思うわ。ロマンチックな世界を追い求めて、一体何が悪いというの?」
彼は『夢』に関わる不思議な体験を収集した。初めは、ほんのちょっとした出来心だった。これまで血濡れの研究ばかりだったから、科学では計り得ない神秘的な可能性も楽しかった。
「あなたの『勘』も、きっとそうなのじゃないかしら。私もね、不思議な体験をいくつもするのよ。恥ずかしくて他の人には教えた事がないけれど、――きっと、虫の知らせのようなものなのかしらね。私、あなたに出会う前から、こうしてここでお話をしている風景を『夢』で見た事があったの。研究所であなたを見掛けた時、ああ、きっと私、あの人の元へいくのだわと、そう思ったの」
いつしか、二人は多くの時間を共有するようになった。彼女が話す『夢』は、どれも暖かくて幻想的だった。
不思議なもので『夢』にも、いくつか種類があるらしい。意識を持って『夢』の中を散策するもの、リアルに映像の断片だけが流れるもの、勝手にストーリーが進んで、いつの間にか目が覚めてしまうもの……すべて異なった類の『夢』なのだと彼女は説いた。
「難しいのだけど、そうね。視ている私が『あ、これは違うな』って感じる部分があるのよ。自分の記憶が作り上げた映像と、不思議な力が働いた『夢』は、感じるリアリティーが全く違っている気がするわ」
大好きな祖母が亡くなった日に見た不思議な『夢』を、彼女は、彼に丁寧に話し聞かせてくれた。そこには七色に輝くダイヤの花弁を持った美しい花畑があり、光の雫が空に向かって、いくつも吸い込まれてゆくような世界だったらしい。
その不思議な『夢』には元気な頃の祖母がいて、祖母は駆け寄る彼女に「『夢』を渡ってこんなところまで来たのね」と言ったのだそうだ。その『夢』の中で、祖母は彼女に、死に抱かれる者の夢から覚めるよう助言したのだという。
再会を喜び、そして現実を知って涙する彼女を優しく抱きとめて、祖母は静かに別れを告げたらしい。彼女は、その時、誰かに後ろ手を掴まれて振り返ったところで、『夢』から覚めてしまったのだ、と語った。
「『死に抱かれる者の夢』……?」
「ええ、祖母はそう言っていたわ。すべてが眠りにつく場所、なのですって。きっと、天国と『夢』の境目なのかしらね。『私と同じぐらいおばあちゃんになって、もう十分だと思えるぐらいの頃に、もう一度ココで会いましょう』って、私はそう言われたの」
彼は、彼女の見る『夢』の世界を共有してみたい、と思うようになった。彼女に協力してもらい、彼は『夢』を人工的に作り上げる研究を本格的に進めた。
ゆっくりと流れる時間の中で、二人は、いつしか手と手を取り合って眠るようになっていた。彼は生まれて初めて、心が満ち足りるような恋を知った。眠る時も、意識すら彼女と離れてしまいたくなかった。
そんなある日、彼は、彼女の手の温もりの中で一つの『夢』を見た。
七色に輝く、ぼんやりとした眩しい空間で、彼は彼女と出会った。『夢』の中で、彼女は何だか少し活発的で子供っぽかったが、楽しそうに笑って、宙をふわふわと浮いたまま彼と見つめ合い、二人はまたココで会う事を約束した。
目が覚めた時、お互いの手を握りしめ合っていた。彼女は興奮を隠しきれない様子で、「私、『夢』の中であなたを見たわ」と呟いた。
二人はまるで、視えない力に突き動かされるように研究に没頭し始めた。
彼は、これまで大事にしてきた人工知能『オリジナル・マザー』を使う事にした。人工知能が発する信号が、より深く複雑に思考するよう手を加え、研究を手伝わせた。
偶然にも、そこで第二の人工知能が誕生した。
彼は、それを『マザー・プログラム』から引き離し、『ナイトメア』という名前を付けた。既にシステムの中枢に取り込まれてしまった『オリジナル・マザー』の欠片のようなもので、オリジナルに敵う性能はなく、気まぐれのように時々、目を覚ましてはシグナルを送って来る程度のものだった。
仮想体験の出来るシステムが確立した頃、メンバーに、新たにマルクという研究員が加わった。
マルクは彼女の友人であり、彼が自ら誘った人物でもある。マルクは人見知りで、言葉数も少ないが、とても面倒見の良い男だった。誰よりも素晴らしい探究心と技術も持っていた。
行き詰まっていた作業がようやく軌道に乗り出したのは、一九九二年だ。
当時、彼のチームには三人の人間しか所属していなかった。たった二人で始まり、友が出来て三人となり、そして、軌道に乗り始めてしばらくが経った頃、新たに気の合う若手を迎え入れて四人となった。
根拠のない不安は続いていたが、研究はスムーズに進んだ。『軍の裏』の研究を知らない仲間達に、「所長」と暖かい声で呼ばれる環境が、彼は好きになっていた。仮想空間内に、複数の人間の意識が共有出来るようになった時は、チームの皆で手を叩いて喜びを分かち合った。
劣化タイプの人工知能『ナイトメア』に関しては、この研究には関係がなかったので、彼は誰にも知らせていなかった。新しい人工知能の赤ちゃんを一から育てているようで、彼は『ナイトメア』との秘密が楽しくもあったのだ。
その不安が的中してしまうなど、この時の彼は、何も分かってはいなかった。




