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六章 それは偽りの存在(2)下

 部屋の感想らしい一言をこぼした後、すぐにこちらに背を向けるように横になってしまったログを一度確認し、スウェンが「やれやれ」と肩をすくめた。


「仮想空間では、基本的に睡眠は必要ではないのだけれどね。彼の場合は、破壊の力を使っちゃうと、どうしても何らかの形で休息が必要になってくるんだよねぇ。僕らも気休めにはなるから、食事の摂取は行っているけれど――エル君、お腹は空いてる?」

「いや、空いてない。けど、クロエには食事をあげるよ」

「うん、それがいいかもね。猫ちゃん、ボストンバッグの前で正座しているし」


 スウェンが指を向けたので、エルは、つられたようにそちらを見た。


 いつの間にかボストンバッグの前に、姿勢正しく座っているクロエの姿があった。どうやら、クロエは室内に対して危険は感じていないようだ。エルがクロエを見て「気が早いなぁ」とぼやくと、スウェンが可笑しそうに笑った。


 エルはいつものように、クロエには先に、ミルクからあげる事にしてボストンバッグの中を探った。スウェンが後ろポケットから探査機を取り出し、セイジが部屋の隅に腰を降ろして、スウェンが外したウエストバッグの中の武器を確認し始めた。


 部屋には、冷房の稼働音が低く呻っており、窓がないせいで外の様子も窺えなかった。時刻の経過を計るのは難しいが、エルは、セイジが言っていた『スウェンの体内時計』とやらを信用する事にしていた。


 クロエのミルクを整えたエルは、ボストンバッグの隣に腰を降ろし、クロエがミルクを飲み終えるまで待った。クロエはミルクを飲み終えると、エメラルドグリーンの瞳を持ち上げて、エルを見た。


「クロエ、ご飯、食べる?」


 エルは、柔らかい猫用フードの袋を片手に持ち、少し揺らしながら尋ねてみた。しかし、クロエは首を左右に振った。


「そうか。うん、ミルクは全部飲んだね。良い子だ」


 クロエが毛繕いを行っている間に、ミルク用の皿を片付けた。それから、エルはそっとクロエを抱き上げた。クロエの少しだけ骨ばった暖かい身体を抱きしめていると、エルの身体の緊張も、少しずつ解れてきた。


「お前は暖かいね、クロエ」

「にゃ~」


 エルはクロエに触れながら、その小さな身体に異変がないかどうか、こっそり確認した。


 気のせいか、仮想空間に巻き込まれる前よりも少しだけ肉付きが良くなり、毛もふっくらとしているように思えた。クロエの脇の下に手を入れて、肉球の色を確認すべく手を持ち上げると、クロエが楽しそうに鳴いた。


「遊んでいるわけじゃないんだよ、クロエ」

「ニャ?」

「まぁ、クロエが楽しんでいるのなら、それでいいけどさ……」


 ボストンバッグの中で激しく揺られる事もあったはずだが、クロエは現状、体調も機嫌も良さそうだった。もしかしたら、現実世界よりも時間経過の遅い仮想空間内は、老猫の身体にとって負担が少なく、身体の調子を良くしてくれるような不思議な作用でも働いているのかもしれない。


 クロエが元気で楽しく『旅』が出来るのなら、喜ばしい事だ。


 エルは安堵し、改めてクロエを両腕で抱きしめた。クロエが楽しそうに顔をすり寄せてくるたび、暖かい毛並みがエルの頬にくすぐったく触れた。


 その時、スウェンが「よし」と相槌を打った。


「ほら、エル君。せっかくの休息なんだから、君も少しは眠らなきゃ駄目だよ」

「俺、眠くないよ」


 エルがスウェンに目を向けると、クロエも、エルの腕の中から彼へ首を伸ばした。


「君は生身の身体なんだから、少しでも寝た方がいいよ。僕らだって精神的な疲労はあるから、少しは寝るつもりだよ。横になって目を閉じるだけでも、睡眠と同じ効力はあるからね」


 そう言われてもなぁ……


 受け入れられ難い提案を前に、エルは、思わず特大サイズ級のベッドへ目を向けた。身体の大きな男が三人並んで寝る、というむさ苦しい想像には、正直気が引ける。その中に自分が入り込むとか、勘弁して欲しい。


 エルは、腕の中のクロエと目配せした。小声で「お前なら、あの中に飛び込む勇気はある?」と問うと、クロエが両耳を少し伏せた。クロエのどこか呆れたような眼差しは、あんな暑苦しいスペースで寝られないわよ、と語っているような気がする。それは、エルも同意見だ。


「……あの、俺、別に眠くないから、ここでクロエを抱っこして目でも閉じてるよ。それにさ、そこのベッドで四人並んで寝るのは、さすがにスペース的な問題もあって、ちょっときついかなとも思うし……?」

「大丈夫だよ。君は小さいし、皆で横になれば暖も取れるじゃないか。ほら、ベッドもふかふかだよ」


 スウェンがそう言って、ベッドの上を数回叩き、そのクッション性をアピールした。エルが困惑している間にも、スウェンに手招きされたセイジが、理解した、というように頷いてベッドへと上がり、そのまま横になった。


 軍の同じチームらしいから、三人での共同生活にも慣れてしまっているのだろう。見本といわんばかりに、続いてスウェンも横になった。


 ログとセイジの間には、子供一人分ほどの空きが作られていた。しかし、やはりベッドは満員状況だ。エルは、男三人というむさ苦しい光景に、彼らが全く疑問を抱かない事が少し心配になった。


 寝る事は、特に強制でもないらしい。スウェンもセイジも、数秒後には規則正しい寝息を立て始めてしまっていた。


              ※※※


 セイジやスウェンが、本当に眠ってしまったのかは定かではないけれど、一先ず、場は落ち着いたということだろう。エルは、起きている人間がいない室内の様子を目で確認し、静かな寝息に耳を済ませたところで、ようやく完全に緊張感を解いた。


 短い間に重なった疲労感を覚えて、思わず肩が落ちた時、クロエがエルの腕から床一面に敷かれた絨毯の上に降りて、気持ちよそうに身体を伸ばした。


「絨毯、気に入ったの、クロエ?」


 愛らしいクロエの行動に、思わずエルの表情も緩んだ。クロエは続いて、腹を見せるように転がると、誘うように大きな瞳でエルを見上げた。


 エルも、そのまま横になってみた。同じ高さからクロエと目を合わせると、何だか楽しくなって、声を潜めて笑った。オジサンの家の居間でも、よくこうして一緒に過ごした日々が、とても懐かしく思えた。


「クロエ、聞いてくれる?」


 エルが小声で話し掛けると、クロエが一つ肯いた。エルは更に声を潜めると、秘密話を打ち明ける子供のように語った。


「遊園地って、すごくキラキラとして人の多い所だったね。いつか一緒に行ってみたいねぇ。……俺ね、昔CMで見たテディ・ベアの事を思い出したよ。ずっと昔に、お父さんが、いつか特別なテディ・ベアをプレゼントしてあげるって言っていたのを、すっかり忘れてしまっていたんだ。ああ、そういえばさ、昔、誕生日の時にオジサンがさ――」


 オジサンの家に引き取られた後、同じCMを見た事があった。エルが、残っていた数少ない記憶の中から、父とのテディ・ベアの思い出を口にすると、オジサンは「ふむ、熊が好きなのか」としばし考え、それから風船を沢山膨らませて熊を作った。ポタロウとクロエがじゃれるたびに破裂し、驚いて泣き出すエルの為に、彼は何度も風船を膨らませた。


 特別な日には、特別な思い出を作るのが、オジサンのモットーだった。


 オジサンはロマンチックよりも冒険を求めたが、同じような日々は、あまりなかったような気もする。いつかの誕生日では、『恐怖のテディ・ベア』という絵本を買って来て、勝手にアドリブでどんどん読み聞かせて、幼いエルを笑わせたりもした。


「あの絵本、どこにいっちゃったんだろうね。せっかくオジサンが、俺の為に買って来てくれた最初の贈り物だったのに、俺が開く機会って一度もなかったんだよなぁ。表紙の絵は何となく覚えているんだけど、題名も思い出せないよ」


 オジサンの家にいる時と同じように、クロエに話し聞かせていたエルは、ふと、クロエの眠たげな眼差しに気付いた。少し、長く付き合わせてしまったかもしれない。クロエにとっても、ボストンバッグで振り回される出来事が続いたのだから、疲れていて当然だろう。


 もう、お話は終わり。


 申し訳なく思って、エルが眼差しでそう伝えて微笑むと、クロエが満足そうに小さな声で鳴いて顔を伏せた。エルは、クロエの頭を優しく撫で「おやすみ、クロエ」と告げ、身を起こした。


 室内には相変わらず、冷房の稼働音と、安らかな寝息が続いていた。エルはクロエの身体が冷えてしまわないよう、ボストンバッグからタオルを一枚取り出して、彼女の身体にかけた。


 唐突に、身体の重さを覚えた。眠気に似た気だるさが込み上げ、エルは、寝息につられてチラリとベッドの方を盗み見た。ログとセイジの間には、相変わらず一人分のスペースが空いたままだ。


 とはいえ、むさ苦しい様子も変わりないけど。


 エルが思わず欠伸をもらした時、横になっているログの丸められた大きな背中から、「おい」とぶっきらぼうな声が上がった。


「とりあえず少しは寝ろ。お荷物になりたくなかったら、休める時に休んでおけ」


 ……こいつ、寝ていたんじゃなかったのか?


 お荷物になってしまうような事だけは避けなければならないし、ここで意地を張っても仕方がない気もしてくる。エルは少し考え、渋々腰を上げた。


 恐る恐るログとセイジの間に身を滑り込ませてみると、確かに、スウェンが言った通り、ベッドはとてもふかふかで気持ちが良かった。


 エルは、両手を腹の上に置いて、天井を眺めるように横になった。しばらくもしないうちに、高価なベッドの感触が返って気になってきた。視界の両サイドには、ログとセイジの大きな身体が嫌でも映り込み、妙に落ち着かなくなる。


 しかし、両隣の静かな寝息と、その大きな背中から伝わる暖かさが、次第にエルの眠気を誘った。人に挟まれて寝るという、幼い頃に染みついてしまった安心感が、身体の緊張感も解いてしまう。


 エルは目を閉じながら、誰かの温もりがないと眠れなかった頃を思い出した。



 そういえば、オジサンには沢山迷惑を掛けた。一人で眠れるようになったのは、いつからだっただろう?



 縁側でオジサンの帰りを待ちながら、ポタロウとクロエと丸くなって眠った、暖かくて穏やかな昼下がりが思い起こされた。ポタロウとクロエは賢い子で、オジサンが帰って来る気配を察知すると、真っ先にエルを起こしてくれた。


 思い出の向こうから、ただいま、と声をかけるオジサンの声が聞こえるような気がする。お帰りなさい、と答えられる当たり前の日々が、恋しかった。


 まだ一ヶ月ほどしか経っていないのに、随分と昔の事のようにも思えた。何もかも失ったエルに、「おはよう」も「おやすみなさい」も、大切な事だと教えてくれたのはオジサンだった。



――血の繋がりがなくとも、俺達は、もう家族だ。ここがお前の家だぞ、エル。



 事故のショックで、多くの記憶をなくしてしまったあの日、エルは、オジサンの家の子になった。

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