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五章 迷路と残酷な一つの事実(5)

 幼い頃、色鮮やかな風船に憧れた事がある。ふわふわと浮かぶ丸い球体の存在は、幼い彼女にとっては不思議そのもので、それを沢山もらう事が出来たなら、一緒に空を飛んでいけると信じていた。


 遊園地には行った事がなかった。テレビや広告のチラシで見かけるたび、どんなところだろうと自分勝手な想像を楽しんだ。


 絵本を読んでくれる母の話は楽しく、素晴らしいパレードや、美しいお姫様、背の高い魔法使いや、お菓子の家がとても魅力的に思えた。人形遊びが好きだったから、彼らがお喋りの出来る友達だったら良かったのにと、飽きずに素敵な世界を空想した。


 ピンク、黄色、赤、緑、たくさんのクレヨンを使って絵を描いた。金色の長い髪をした、優しくて可愛いブルーの瞳の女の子の絵を好んで描いた。


 幼い子が描く稚拙な絵でさえ、母にとっては誇らしくて嬉しい事だったのだろう。母は、子供が描く絵を見て「素敵な女の子ね」と微笑み、飽きる事なく我が子を褒めた。父は、「二人はきっとどこかで出会って、親友同士になれるだろう」と夢を語った。



 誕生日に、幸福の言葉が書かれたテディ・ベアを送るという発想が、どこから来たのかは覚えていない。



 いつか来る誕生日には、立派なテディ・ベアを買ってあげよう、と父は約束した。うちは立派な家ではないけれど、きっと特別な年に、君に特別なテディ・ベアを贈るから楽しみに待っておいで、と。


 母親は、父の約束を楽しみに待つ我が子に、小さなストラップのテディ・ベアを買ってやった。新しいストラップ人形の友達に、娘が名前をつけて可愛がる姿を喜んだ。


 その子供は、貰った小さなテディ・ベアをストラップとしてではなく、一人の大切な友人としていつも連れ歩いた。ピンクの可愛い鞄を提げて、そこからは、ストラップのテディ・ベアである小さな友人が、いつも顔を出していた。


 特別な人に、特別なテディ・ベアを贈ろう。


 そんなCMソングを耳にする事が多い時代だった。恋人の名前が入ったテディ・ベアを男がプレゼントすると、同じように、自分の名前が入ったテディ・ベアを彼女が贈り、微笑みあう恋人同士のはにかむ顔が印象的なCM――。



 テディ・ベアの小さな友達を連れて、幼い女の子は、一人でどこまでも散歩した。小さな足で行ける範囲の街中を歩き回った。



 けれど、ある日、ふとした拍子に迷子になって、母をたくさん心配させてしまった。大きな声で助けを求めて泣き続け、ようやく見付けてくれた母が抱きしめても、しばらく涙は止まらなかった。


 独りぼっちが、たまらなく辛かった。こんなに寂しくて悲しい事だったなんて、女の子は知らなかったのだ。


 散歩が好きになったきっかけは、母と同じ花柄のスカートを履いて、週に二回、父の職場までよく歩いたからだろう。保育園の勤務が終わると、父は慌てたように飛び出して来る。今日は一緒に帰れる日なのだから、少しでも早く会って家族と長く過ごしたいじゃないか、というのが父の口癖だった。



 幼い頃の記憶は、大きくなるに従って忘れ去られてしまうけれど、何もかもが幸せに満ちていたような気がする。



 いつか、皆で遊園地に行こう、と母は言った。あなたのお父さんと私が、まだ若い頃に行った『夢の国』に、今度はあなたも一緒に行くのよ、とても素敵でしょうねぇ、と娘に夢を語った。


 父も、娘に約束してくれた。いつか、大きなテディ・ベアをプレゼントするよ。遊園地では、そうだな、まずは風船を買おう。お父さんが青、お母さんがオレンジ、お前はピンクがいいかな。うん、すごく楽しみだなぁ……


 大きなテディ・ベアも、歩く人形のお友達も、ふわふわと宙に浮かぶ風船も、いつか王子様が来てくれるような大きな城も、とても素敵な夢だと、女の子は思った。けれど、思い描く夢だけで満足もしていた。父と母に抱かれて眠る時が、何よりも幸福だったからだ。


 もう少し待てば、髪の長さも、ようやく母のように腰まで届くだろう。そうしたら、大きなリボンもしてみたい。


 フリルのスカートを着て、友達のテディ・ベアを連れて、そうしてピンクの風船を持って、父と母の三人で素敵なお城を散策する『夢』を見よう。『夢』を見た事がないその女の子は、大好きな両親に「おやすみなさい」と告げて、人の温もりに安心して目を閉じる。


              ※※※


 今にも止まってしまうのではないかと思うほど、その機械は一定の時間に、一度の強い鼓動と、深く息を吐き出すような震える稼働音を繰り返していた。開けた白い空間には、ひどい熱気が充満しており、現実世界ではないはずなのに、その熱気が覗いた肌を打つ感覚はリアルだった。


 鉄製の筒状の機器と沢山の電気ケーブルは、ホテルの最上階で見た時と同じ光景だったが、目的とするその支柱からは、大量の血液がもれて、白い床一面に広がっていた。


 血とオイルの匂いが、強烈に鼻をついた。筒状の機械の中には、緑の液体ではなく、一見して血液と分かる赤黒い液体が詰まっていた。


 白い床に広がった深紅は一際鮮やかに映えて、支柱から滲み出た血液は、既に一部が柔らかく固形化し、まるで支柱本体が流血を起こしているようにも錯覚してしまえた。


 あまりにもその赤い光景が強烈で、エルはしばらく、先に辿り着いていたセイジとウスェンの姿に気付けないでいた。


 理解した事は、急きょ作られたらしい『支柱』はどれも完璧ではなくて、失敗作もあっただろう事だ。そして、目の前のそれは、どうにか稼働だけしている不完成品ながら、セキュリティー・エリアとなっている『支柱』なのだという事だった。


 セイジとスウェンは、床に広がった血液の前で、深く落胆したように佇んでいた。僅かの間だけ言葉を失っていたログが、険しい表情を浮かべて「何があった」と尋ねると、スウェンは振り返りながら淡々と「最悪の推理の一つが的中した」と告げたが、入口にエルがいる事に気付くと、慌てて駆け寄って来た。



 エルは、やって来たスウェンが言っている事が、初め理解できなかった。


 ショック状態のエルを前に、スウェンがログに掴みかかり、「なんで目を塞ぐとかそういう考えに及ばないんだ君はッ」と、何やら罵倒の言葉を続けざまに発したところで――鮮血が広がる視界が、セイジの腹の向こうに隠れて見えなくなった。


 

 目の前に、セイジが立ち塞がったのだとようやく気付いて、エルは、自分が瞬きを忘れていた事を思い出した。何故だが、舌が乾いて上手く言葉が出て来ず、必死に考えてみたが掛ける言葉が探せない。


 俺は平気だ、強い子だもの。大丈夫だ、ちっとも大丈夫――……


 エルは、大きく呼吸しながら、そう自分に言い聞かせた。人体実験が行われていた事については、スウェン達に死体の話を聞かされた時から、ずっと自分の中でも最悪な展開の一つとして、推測はしていた事だった。


 ただ、実感が持てなかったのだ。こうして、生々しいものを目の当たりにするまでは。


 どうにか呼吸が楽になったところで、エルは顔を上げて、口下手らしいセイジが戸惑う様子を目に止めた。徐々に緊張が収まるのを感じて、場違いにも、セイジは優しい人なんだなと思った。気遣われている自分が、守られる弱い人間のように思えて情けなくなる。


 死体が目の前にあるわけじゃない。ただ、使われてしまったという証拠が見えてしまっただけ。


 俺は、誰かのお荷物になるつもりはない。とりあえず、落ち着こう。


 その時、手に暖かいものを感じて、エルはそちらに目を向けた。ボストンバッグから顔を出したクロエがいて、力なく行き場を失っていたエルの手の甲を舐めていた。


 ああ、彼女には悲惨な光景が理解出来ていませんように。


 エルはそう願いながら、クロエの頭を撫でた。


「――俺は大丈夫だよ、ありがとう」


 続いてエルは、目の前にいるセイジを退けようとしたのだが、彼は神妙な顔で首を横に振ると、両手を広げてこう言った。


「見なくてもいい。私達も動揺してしまって、君の事を、その……少し失念してしまっていたところもあって…………すまない」


 言葉選びに苦戦した彼が、最後は酷く申し訳なさそうに謝った。セイジが悪い訳ではないのだと分かっていたから、エルは、首を左右に振って見せたが、堪え切れず尋ねてしまった。


「あれには、人間が使われているんだろ……?」


 確認するべく訊いた自分が、どんな顔をしているのか分からなかった。表情には出さないよう意識したつもりだったが、セイジが言い辛そうに視線をそらした。


 大丈夫、心の動揺に慣れるまでに、あともう少しだけ時間がかかるだけだから。


 先程まで憶測でしかなかったらしい、支柱の製造に人間が使われているという内容については、この現場と、彼らの表情を見れば答えが出たも明らかだ。


 二番目のセキュリティー・エリアにあった、白いホテルの最上階で見た『支柱』の光景を思い出すと、人間が材料になって仕上がっているとは想像がつかなかったが、あの時覚えた悪寒は、気のせいではなかったのだろう。



 つまり、そういうことだ。死体で発見された被害者達は、材料として実験に使われ、死んだ。



 欲しい回答は、現場の状況とスウェン達の顔から察せる。ならば、もうこれ以上の回答を求める必要もないだろう。


 冷静でいられなかったとはいえ、セイジに質問してしまった事について、エルは後悔し反省を覚えた。それらの詳細は、巻き込まれて、連れられているだけのエルが聞いても良い話ではないはずで……


 大きな目的と、己の役割を最低限知れていれば動ける。


 だから、全部を理解する必要はない。そう考えて、エルは潔く身を引く事にした。これ以上、優しいセイジを困らせてしまうのも可哀そうだ。真面目で思慮深い彼は、いまだにエルへきちんと答えようと、苦悩する表情を浮かべていた。


 エルがそう考えたところで、セイジの視線がこちらに戻った。


「すまない。こちらとしても、私達の中だけでの憶測でしかなかっ――」

「うん、分かってる。俺は事情を深く訊ける立場じゃないし、きっと俺には必要のない深い事情だって事ぐらい、ちゃんと分かっているから。だから、無理して説明しなくてもいいよ。困らせるような事を言ってしまって、こちらこそ、ごめん」


 エルは、届かないセイジの口許に向けて両手を上げ、台詞を遮った。


 安心させようと思って、続けてぎこちないながらも励ますように笑い掛けてみると、セイジがどこか心配し、戸惑うような気配を漂わせた。ログと正反対の性格をしたこの屈強そうな大男が、どうしてそのような表情をするのか、エルは不思議に思った。


 その時、ログとりやりとりを放り投げたスウェンが、「ああ、もうッ」と、半ばやけくそのような声を上げた。


「エル君。君、ちょっと利口過ぎるよ。僕が見ていて心配するぐらい、従順で物分かりが良すぎるんだ。もうちょっと我が儘になったって、誰も君を責めたりしないんだからさ――」


 そう言いながら、少し苛立ったように片手で後ろ髪をかいた。


 スウェンなら都合良く流して放っておいてくれると思っていたばかりに、エルは少し意外に思って、冷静でない様子の彼へ目を向けた。少し離れている間に、彼なりに考える事でもあったのだろうか?

 

 クロエがそれとなく一同を見渡し、小首を傾げて、そっとボストンバッグの中に戻っていった。セイジが、不安そうにスウェンを見つめる。


 ログが「で、どうするんだ」と、スウェンに掴まれたせいで乱れたジャケットを整えながら、ぶっきらぼうに指示を仰いだ。スウェンはログに一瞥をくれたが、すぐに自己嫌悪の表情を浮かべて視線をそらした。


「……さっきは、すまなかった、ログ。ちょっとした八つ当たりだった。らしくなかったよ、全く。――この子には、きちんと説明する。それが僕の『判断』だ」

「そうか」


 ログは支柱へ視線を戻すと、特に興味もなさそうな口調で「じゃあ任せた」と後ろ手を振り、白い床に広がる血に向かって歩き出した。


 スウェンは、自分を落ち着けるように深く息を吐くと、エルのもとへ向かった。セイジの隣に並ぶと、向かい合ったエルを改めて見降ろし、困ったような微笑を浮かべた。



「とは言っても、この光景は、あまり見ていて良いものではないね。――エル君、ちょっと後ろを向こうか」



 彼の明るい青い瞳が、頼むよ、と細められるのを見て、エルはスウェンに向かって一つ肯き返すと、支柱を背にして立った。


 むっつりと仏頂面をしたログが、支柱を見張るように血溜まりの前で腰を下ろした。セイジは、スウェンにエルを任せるよう目配せすると、共に待つため、ログのもとへと向かった。

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