五章 迷路と残酷な一つの事実(3)
人間であるエルと、猫のクロエは、肉体のまま現実世界から消失している。
本当は薄々ではあるが、エルは自分が生身の身体である可能性は考えていた。ただ、その目利きを持ったモノに「可能性ではなく事実なのだ」と指摘させられると、これまで身を委ねていた、ふわふわと現実味のないままにはいられない。
ニュースで流れていた行方不明事件と、スウェンから聞いた発見された死体の話が脳裏で結びつき、例の被害者の一人として巻き込まれた事を正しく理解した。エルは今、ログ達とは違い、生身の身体でバーチャルの世界にいるのだ。
エルも馬鹿ではない。スウェン達から話を聞かされた時から、ああ、もしかして、とはずっと考えていた。
ホテルの一階で銃撃戦に巻き込まれた時、瓦礫に触れた感触はリアルだった。その時に少し傷つけてしまっていた掌はヒリヒリと痛み、その違和感は、今も完全に抜け切れてはいない。
そもそも、これまでずっと一緒に過ごしていたクロエの身体が本物でなかったのなら、エルが真っ先に、この世界に対して強い違和感を覚えていたはずだ。ここに来てからも抱きしめているクロエの、刻一刻と近づく肉体の限界を感じさせる弱々しい生命の温もりは、これまで旅をして来た時と寸分違わない。
「――やっぱり俺は、肉体を持ったままここへ来たのか」
呟いた納得の言葉が、胸の中にすとんと落ちた。
もしかしたら、何度もこちらを気に掛けていたセイジも、全く知らない訳ではなかったのかもしれない。彼は駆け引きが出来るようなタイプではなさそうなので、目的を知らされない状態で、スウェンに可能性だけを聞かされて心配していた、とも考えられる。
優しい人だもんな。難しい事とか、腹の探り合いとかも苦手そう。
エルは、子供ではない。現実が甘いものでも、都合良く優しいもので溢れているとも思っていない。だから、もし自分が被害者の候補だとしたら、向こうから何かしらの接触がある可能性も高いと考えて、スウェンが身近に置いたとも推測はしていた。
つまりは利害の一致だ。エルは自分の状況を知りたいとスウェン達から情報をもらい、謎が多い事件のヒントになるならと、スウェンはエルを引き入れた。
実にシンプルで分かりやすい関係だ。同情などという個人的な責任感でければ、それでいい。そこに重々しい危険性があるものだろうと、自分に何かあれば、それは弱かった自分の責任であるというのが好ましい。
エルは、掌に残る小さな傷の感覚を確かめる為、強く拳を握りしめた。そこから伝わる痺れるような鈍い痛みに、ここにあるのは自分の肉体である事を改めて実感する。
守られるつもりもなければ、守られてやる義理だってない。
そうならないために、エルは強くなった。どうかクロエと笑ってお別れが出来る、悔いのない最初で最後の旅の目的については、場所が変わろうと志を変えるつもりはないし、何者にだろうと邪魔はさせない。
互いの邪魔はせず、それぞれの利益と目的のために一時的な協力体制を築く。スウェンの考え方は、浅く短い大人の付き合い方であり、エルの目的や意思を阻害するものではないからこそ、動揺も怒りも失望も覚えなかったのだ。
「おい、お前――」
沈黙したエルに気付いたログが、しまったな、という顔で投げかけた言葉は、途中で途切れた。
エルは気迫をまとわせ、力強くテディ・ベアを睨み返していた。ボストンバッグから顔を出したクロエが、エルに声援を送るように「ニャー」と元気良く鳴いた。
元は被害者の一人になる予定だった件については、もういい。何故なら、現在エルは生きているし、クロエだって怪我一つなく存在している。生きている限りエルが彼女を守ればいい話であり、一人と一匹が生きている今も『旅』は続いているのだ。
知らない間に自分の生死を勝手に決めようとしている者がいて、その都合を一方的に押しつけられるような事が、エルがもっとも我慢ならないものだった。シンプルに考えれば、仮想空間のセキュリティーというのは、エルの目的を邪魔しようとする悪害であり完全な『敵』だ。
元よりエルは負けず嫌いで、やられっぱなしは性に合わなかった。
カチリ、と心の整理が付いて考えが決まった途端、自分らしい冷静さが戻って来た。エルは、ホテルで散々怖い目に遭ったのも、全部向こうの勝手な都合なのだと思うと無性に腹が立って、三番目の仮想空間のセキュリティーらしきテディ・ベアを、ますます睨み付けた。
あのテディ・ベアが首謀者ではない事は理解出来るが、人を勝手に材料に例えたような台詞も、非常に気に入らない。
「――材料とかなんとか勝手に言ってくれているけど、俺はやられっぱなしが大嫌いなんだ。事情は知らないけど、俺の事を勝手にしようだなんて言う奴は、片っぱしからぶっ飛ばしてやる」
エルは、低い声で吐き捨てた。エルもクロエも、まだ生きている。今もなお、この瞬間だって、一人と一匹の最初で最後の旅は続行中なのだ。
ログが意外そうに片眉をつり上げ、それから、口角を引き上げて「いい心がけだ」と相槌を打った。
「お前の事、ちょっとは見直してやってもいいぜ、ガキ」
「ガキって言うな。負けっぱなしは俺の性分じゃないって事を、改めて思い出したんだよ。必ずここから出てやるし、俺を巻き込みやがった奴にも一発決めてくれるッ」
エルが拳を固めてテディ・ベアを威嚇すると、ログが「なるほどな」と一つ肯いた。
「よし。なら、覚悟は出来てるよな?」
「あ?」
途端に、エルは嫌な予感を覚えて彼を見上げた。ログは既に前方に視線を戻しており、不敵な笑みを浮かべたまま、テディ・ベアに向かって一歩前進した。
「スウェン隊長の任務遂行には、この空間が邪魔だ。――だから、さっさと壊させてもらうぜ」
前触れもなく、ログがストレートな宣戦布告をした。
どうやら、彼の台詞は、セキュリティーにとっても分かりやすい敵宣言だったらしい。テディ・ベアのまとう空気が一変した。
エルが緊張感を覚えて身構える中、テディ・ベアは頭をぐらぐらと揺らせたかと思うと、自身の解れた首の中に手を突き入れて、そこから少し錆びた鋭利な肉切り包丁を取り出した。指のない手でしっかりと握り込み、ゆらりと肉切り包丁を構える。
『――させない。守る。連れ出されたくないんだ』
壊れた録音テープのように、テディ・ベアが、脈絡の掴めない呟きを上げた時、辺り一帯が不穏な気配と共にざわめいた。
植物の塀の茂みが揺れ、大きさの不揃いな人形が続々と出て来た。ストラップほどの小さな兎の人形や、キャラクター人形、毛糸で出来た小さな熊、ピンクのドレスを着たフェルト生地の女の子、ペンギンや犬や猿といった中型の人形達、木材で出来た同じ顔の兵隊人形……
真新しい物から古びた物まで、人形の種類は様々だったが、彼らは包丁やナイフ、ハサミなどの物騒な装備をしていた。
いつか見たホラー映画のような光景、もしくは恐怖映画に出演していた人形を思わせるような壊れかけた怖い顔の人形もいて、エルは、危うく卒倒しかけた。
嘘だろ怖過ぎるんだけど、マジで直視したくない光景なんですけど!?
育て親であったオジサンが脅かし続けたせいで、エルは、大のホラー嫌いだった。物理攻撃で倒せそうにない幽霊やら呪いの人形に関しては、特にトラウマが強く、オジサンが面白がってチョイスした恐怖映画に関連するものは、完全にダメだ。
「人形といえど、仮想空間の作り物だ。多分、銃も効くだろう」
ほとんど五十センチ以下の敵を眺めていたログが、腰の銃を手に取った。人形達はテディ・ベアの前に集まり始め、まるで開始の合図を待つ兵隊のように構えた。
しばし声も発せずにいたエルは、ログがいた事を思い出して恐怖を堪えると、強がるように顔を顰めて「どうするんだよ」と彼の腰辺りを小突いた。彼は「ふむ」と数秒ほど眉根を寄せ、こう言った。
「仮想空間で行動する場合は、イメージも大事らしいな。自分の攻撃が絶対に効くとイメージして、とりあえず突き進め」
「……それって、無計画って事じゃないの?」
「俺は素手でもいけるが、お前の細腕でも金属バットか、リーチのある武器がありゃあ突破出来そうだな。相手は所詮人形だしな」
「お前ッ、俺の話し聞いてないだろ!」
前方を見据えたまま、ログが腰の後ろに手をやった。取り出して振るうと同時に、強固な金属の固定音を上げて、黒いグリップを持った銀色の警棒が現れた。
「使い捨てみてぇなもんだから、気にせず使え」
そう言って、ログがそれを投げて寄越した。エルは慌てて、予想以上にずっしりとした武器を受けとめた。
「思い切り振るえば、細腕でもかなりの攻撃力になる。俺がフォローする――よし、走れ!」
怒号のような合図と同時に、ログが走り出して人形の一体を銃弾で吹き飛ばした。エルは、慌ててクロエに「隠れててッ」と言い聞かせると、コンマ二秒半遅れでログに続いて駆け出した。




