三章 仮想空間と支柱(2)下
もう一度珈琲を口にしてから、ハイソンは、鬱屈とした気持ちでモニターをチェックした。
現在、形だけが黒く表示された見取り図には、六つのセキュリティー・エリアが層となり、『仮想空間エリス』に付着している様子が映し出されていた。セキュリティー・エリアの仕組みは、『仮想空間エリス』と同じであるが、範囲はそれほどまで大きくはないらしいとは分かっている。
仮想空間は元々、奇跡的に偶然仕上がってしまった産物でもある。マルクが、一体どうやって個々の小さな仮想空間を作り上げ、取り込む事が出来たのかも謎だ。
マルクが仕上げたらしい仮想空間は、侵入者に対し排除反応を起こす特性があったので、確認時にセキュリティー・エリアとした。しかし、少し調べてみると、本来六つの仮想空間は、不安定な『仮想空間エリス』の崩壊した場所を支える臨時の柱としての役割もあったようだと推測され、それらに存在する核を『支柱』と名付けた。
マルクが作ったセキュリティーでは、侵入者を排除するプログラが徹底して作動している。
解析が先に済んでいる一番目のセキュリティー・エリアでは、三人の侵入者の行動を感知した直後から、排除行動に移っている事も確認されていた。詳細を調べた結果、支柱から一定の距離に踏み込むと、セキュリティーが作動するようになっていると分かった。
セキュリティー・エリアは、強制的に稼働させられている不安定な状態だった。『仮想空間エリス』よりも多くのバグがあり、不規則に崩壊と強制の再構築が発生していた。一部『エリスプログラム』からの命令も見受けられたが、マルクが操作しているのか、『仮想空間エリス』本来のセキュリティーが自動で稼働しているのかは、不明だ。
仮想空間に入っている被験者にとって、そこはリアルな仮想世界となる。
モニター上で支柱の場所を簡単に見つけられたとしても、実際、仮想空間内にいる人間にとって、そこまで辿り着くのは容易ではない。
「本当に厄介だよ、この『セキュリティー・エリア』は」
スウェン達の潜入が決まった時にはなかった障害を考え、ハイソンは、思わず苦々しく呟いた。
一番目のセキュリティー・エリアは、戦場区だったと報告が入っていた。こちらのデータには、被験者の体験している映像までは送信されて来ないが、空間構築データから状況は分析出来ている。
空間内には突然森林が開けたり、砂漠地域の街で銃撃戦が続いていたりと、まるで戦場映画を切り取って張り付けたようだった、とスウェンは笑って報告していた。彼らにとって、これまでの本物の戦場に比べると、子供騙しのゲーム程のものだったのだろうが……
ハイソンなら、多分パニックになっているし笑っていられない。彼らは唐突にセキュリティー・エリアに放り出されたというのに、頼もしいぐらいに極めて冷静だったのが信じられない。
二番目のセキュリティー・エリアは、沖縄の繁華街だったようだ。シークレットサービスだか、マフィアだか分からない黒服の男達が、時と場所をかまわずに突如として現れ攻撃して来るような世界設定だ。しかし、舞台は沖縄であるにも関わらず、なぜか黒服の男達は全員が西洋人だったらしい。
「でも、辻褄は合っちまうんだよなぁ……」
実に嫌な事だが、スウェン達から報告されて来る、まるで世界観の定まらないようなちぐはぐな設定の一つ一つが、ある憶測をあてはめる事によって、納得も出来てしまうものになる。
セキュリティー・エリアのデータ解析が進むにつれ、ハイソン達は、恐ろしい事実を予感し始めていた。一番目のセキュリティー・エリアのデータ解析だけでも、恐ろしい事実を推測させるには十分な内容で、ほぼ確定だろうなとも思われていた。
研究員達の中に芽生え始めているのは、セキュリティー・エリアの製造や、その正体についての最悪な推測だった。
恐らくセキュリティー・エリアは、正規の仮想空間とはまるで異なる理論で構築されている。だから、製造方法についてハイソン達は突きとめられないでいるし、本来なら稼働しないはずの異常数なバグを持ちながらも、それは仮想空間として存在出来てしまっており、つまり、使われている材料や核の正体は……
そこまで改めて考えたところで、ハイソンは吐き気を覚え、頭を振っておぞましい想像を払った。
無から有を持ちこむ事が出来るなど、世界の法則そのものに逆らっている。マルクは一体何を考え、動いているのか?
その時、なぜか不意に、所長と仕事の付き合いが始まった頃を思い出した。思いつきというのは、ちょっとしたきっかけから起こる不思議な現象なのではないか、と彼はハイソンに言った事があった。
――君は、奇妙な体験をした事はあるかな。まるで、そう、未知との遭遇のような。
そこで、ハイソンは、所長の言葉に引き出されるような記憶の一部が脳裏を過ぎり、「待てよ」と思案した。
この研究が凍結され、別の仕事で慌ただしい現実にのまれていた間に、何か、すっかり忘れてしまっている事があるような気がした。確か夢に関わる妙な経験だったので、いつか、所長に話してみようと心にしまっていたはずだ。
どうにか頭を捻ってみたが、やはり思い出せなかった。あの頃は色々と慌ただしかったし、十年以上も前の事だ。その頃に見た夢なんて、覚えている人間の方が稀だろう。
「……いかん、いかんな。そんな事を思い出している暇はないというのに」
ハイソンは、自分の集中力が低下してしまっている事を自覚した。まるで、頭の中心が痺れているように考えがまとまらない。
珈琲のおかわりが必要かもしれないと、彼は空になった珈琲カップを手に取った。
まだ外は明るい。所長も不在の今、当時の研究を一番に知っているのは自分だからこそ、頑張らなくてはならないのだ。ハイソンは、既に出来上がっていたストック分の珈琲をカップに注ぎ足すと、自身にそう言い聞かせて両頬を手で軽く叩いてから、席に戻った。
別の席についていた研究員が、戻ったハイソンをちらりと見て「第三セキュリティー・エリアへの突入を確認しました。これから支柱の特定に入ります」と報告した。ハイソンは頷き返し、視線を手元へ戻して、乱雑する紙の上に珈琲カップを置いた。
その時、ハイソンの脳裏に、突如として一つの映像が鮮明に思い出された。
――こんにちは。初めまして、ハイソン君。
まだエリスが健在していた頃、一人研究室に残って残業していたハイソンは、居眠りをしてしまった時に、夢の中で闇に浮かぶ一人の男を見たのだ。その男は、夢に出てきた登場人物の割りには、やけにリアルな印象を受けた。
ハイソンの夢の中で、その男は、宙に腰かけたまま含み笑いを浮かべていた。顔は闇に覆われて見えなかったが、男の小奇麗な唇だけは確認出来た。
男は唇にそっと人差し指をあてると、ハイソンに、こんな事を言った。
――そんなところで寝ていると、ほら。せっかく彼からもらった珈琲カップを、割ってしまいますよ?
あの時、ハイソンは驚いて目を覚ました先で、自分の腕で外側へ押されていた雑誌の上に、もう少しのところで机の外へ放り出されそうになっている珈琲カップを見付けたのだ。
研究のテーマが『夢』という事もあり、そのせいで少なからず敏感になっているのだろうと、あの頃はそう思っていた。
けれど、今になってそれを思い出したハイソンは、知らず身震いしてしまった。現実の世界で経験していない映像や声を、十数年後の今になって、鮮明に思い出す事など在り得るのだろうか。
ハイソンは、悪寒を振り払うように報告書の束を手に取った。関係のない事を考える程、今は暇でもないのだと雑念を振り払う。
これまでに死体として発見されている被害者の詳細情報のうちから、先程から、何度も読み返してしまっている二枚を引き抜いて、椅子の背に身体を預けてぼんやりと眺めた。
「……三十七歳、サラリーマン、会社を出てから行方不明。趣味は戦争ゲームと戦争映画」
もう一枚の報告書に記載されているのは、二十六歳の女性だった。彼女の趣味は映画鑑賞で、会社帰りに友人と一緒に行方不明になっているが、友人の方はまだ発見されていなかった。
彼女達か最近見たであろう映画の題名を、ハイソンは言い当てられるような気さえして、ぎゅっと目を閉じた。