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二十三章 天国から一時戻った男と犬(3)

 ログは、どこか悔いるようなレオンの横顔から視線をそらした。


 急いで駆け続ける身体は、既に限界を超えて悲鳴を上げていた。それでもログは、螺旋階段を駆ける足に更に力を入れた。きっと、もう二度とエルの手を離してはならないのだと、心の底からそう感じた。


 あんたは偉大で、立派な父親だよ、とログは小さく口にした。


「あいつは、あんたの事を誰よりも好いてる。本当の親父みたいに愛していて、幸せだったと話していた。――それに何も問題はないだろ。俺が見る限り、あいつは、ちゃんと女だ。小さくて細くて、優しい指をした、可愛くてどこもかしこもキレイな女だ」


 知っているだろうか。深く眠り落ちた彼女が、スウェンとセイジがベッドを離れた後、どんなに幸福そうな顔で微笑み、きれいな声で思い出の歌を口ずさんでいたのか。


 折れてしまうのではないかと思えるような首には喉仏がなくて、蕾のような柔らかい唇から発せられた囁きのような唄は、これまで聞いたどんな歌よりも優しかった。あの時ログは、早く目を開けてこっちを見ろよ、と思っていたのだ。


 ああ、どうやら俺は、はじめっから手放せなくなっていたらしい。


 心が惹かれ、揺れ動く法則性なんてものは分からないが、気付かないうちに人は、大切な片割れを見付けてしまうのだろう。


 セイジとエルが戦っている姿を見た時、どうしてその隣にいるのが自分ではないのかと感じた。ホテルマンと歩き去っていく彼女の後ろ姿を見て、俺を選べよと呼び止めたかった。


 つまりは、そういう事なのだ。

 ログは、またしても気付かされた新しい事実を、心の中で形にした。


 彼女がそばにいない時間を、俺は、もう考える事なんて出来ないのだろう。



 ログの背中の向こうで、レオンが心を読んだようなタイミングで両方の眉を上げた。それから少しだけ考える素振りを見せた後、彼は「――そうだな。あいつは、どこからどうみても、ちゃんとした娘だよ」と含み笑いをこぼした。



 長く続いた螺旋階段の上に、ようやく終わりが見えて来た。円錐系に開いた頭上から小さくこぼれる光が見えた時、そこから唐突に吹き抜けた爆風がログの全身を荒々しく打った。


 身体が螺旋階段の外へ押しやられそうになった。ログがギクリとする中、雑種犬が振り返り「ふわんっ」と気の抜けそうな声を上げた。


 だからこういう状況で阿呆みたいな声で吠えるなッ、

 へたに力が抜けそうになるだろうが!


 ログが、拙い、と思った時、レオンの大きな手が、間一髪のところで雑にログの胸倉を掴んだ。それは乱暴な手付きだったが、レオンはログの体重を腕一本で易々と支えると、まるで子供でも扱うような軽々しい手つきで、螺旋階段へと引き戻した。


 短く礼を告げる余裕もないまま、階下で爆音が生じた。風が渦を巻いて頭上へと巻き上げ、螺旋階段が不安定に揺れ始めた。


「いかん、ナイトメアが『発動』しちまう」


 この時になって初めて、レオンの表情が緊張に引き締まった。


「この空間は、この世界の中心に向けて引きずり込まれるぞ」

「どういう事だッ」


 ログは、耳元で騒ぎ続ける風の音に負けじと声を張り上げた。レオンは風に煽られるログの腕を掴んで支えると、クロエを腕に抱えたまま告げる。



「完全に切り離されるんだよ。『外』の世界にあるべき物と、こちら側にあるべきモノが仕分けられる。この風は『外』に帰すべき者を引きずり上げている――つまり、お前を引っ張ってるって訳だ」



 男は野太い声で言うと、「よしきた」と頷き、むんずとログの襟首を掴んだ。


 ログは、嫌な予感がして「おい、おっさん」と首を回して彼を見た。すかさずレオンが「てめぇも『おっさん』だろうがッ」と、白髪の老いた男には見えない顔で叱り付けた。


「いいか、テメェは『外』に帰されちまう人間だ。この流れには絶対に逆らえない。上がどんな状況になっていようが、お前は、エルの手を掴む事だけを考えろ。俺があいつを引き剥がして、放り投げてやる」

「ちょっと待て、それが作戦か?」


 説明が大雑把過ぎる。放り投げるってなんだ。


 しかし、ログが疑問をぶつける余裕はなかった。途端に世界が大きく揺れ、巨大な硝子が次々に砕けるような爆音が空気を震わせて、彼の全身を打っていた。


 階下から吹き上げた強い力が、男に襟首を掴まれたままのログの身体を、ふわりと浮かび上がらせた。その直後、下から巨大な風の鞭が彼の身体を強かに打ち、一気に上へと押し上げた。


 まるで、遥か上空から海に突き落とされたように全身が軋んだ。

 そんなログの襟を掴えたまま、レオンも爆風に煽られて宙を飛ぶ。


 ログは不思議と、自分の身体に強引にぶら下がるレオンの体重を感じなかった。殴るような風に目をほとんど開けていられず、呼吸さえもままならなかったが、空気の読めない雑種犬が足の裾に噛みついて、主人と共に頂上を目指したのは分かった。



 風に押し上げられた一瞬後、二人と二匹は、光り溢れる世界に放り投げられていた。



 螺旋階段の頂上よりも遥か高く放り出された一瞬、ログの身体は宙を漂った。それはほんの数秒の浮遊だったが、そこに広がる光景に、ログは目を奪われた。


 暗黒にほとんど飲み込まれた世界には、半分の高さまで削られた塔と、崩壊する街並みが鎮座しており、先程と比べ物にならない大量の瓦礫が天へと巻き上げられていく光景が広がっていた。しかし、そこには白銀の輝きも見え始めていたのだ。


 表面から剥がされるように崩れていく街からは、白く輝く美しい真珠の外壁が覗いていた。それはコンクリートや機械仕掛けの鉄とは違い、精巧な飾り細工の花弁のように映えて見えた。それらは白い輝きを発しながら剥がれ落ち、呑み込む闇の下と吸い込まれていく。



 崩れかけた塔の頂上には、眩い大きな花弁の揺りかごに座り込む、一人の少女の姿があった。それは暗黒に包まれる世界で、一際神々しく光り輝いており、妖精のように美しい少女だった。



 吹き荒れる風に荒々しく舞い上がるブロンドの髪、真珠のように細かく発光する幼い肢体、猫を思わせるしっとりと濡れた黄金色の大きな瞳は宝石のようで、十歳にも満たない身体をした彼女の胸部には、菱形をした七色に輝く巨大なダイヤが埋まっていた。


 誰の顔にも似ていない美しい妖精は、声をからして泣き続けていた。自分の身体が光り輝いているせいなのだろうか。彼女は、迫る黒衣の男の存在にも気付けていないようだった。


 よく見ればそれは燕尾服で、ホテルマンだ、とログは遅れて気付いた。


 ホイルマンのすぐそばには、同じ漆黒色のコートの裾をなびかせた華奢なエルの後ろ姿もあった。かなり近い距離まで歩みよられているにも関わらず、それでも妖精は光の中で、ただ世界の終わりを嘆き続けていた。


 なんて痛ましい泣き声なのだろうと感じた時、ログは、浮遊状態に変化が訪れたのを感じた。見えない糸に絡めとられるような違和感を覚えた直後、身体が上空へと引き寄せられ始めた。


 ログは塔へ向かおうと努力したが、重力が頭上にあるように、ゆっくりと地上から引き離され出した。


「後は任せろ」


 乱暴に肩を叩かれた直後、ログの脇をレオンが通り抜けていった。ずっと彼に抱えられていたクロエが、しなやかに身体を踊られて腕の中から飛び出した。続いて呑気な顔をした雑種犬が、「ふわん」と吠えてログのズボンの裾から口を離し、人の集まる塔の上へ向かった。



 崩れた塔の上にいた燕尾服姿の男が、こちらを振り返り、その脇にいたロングコートの少女も、騒ぎに気付いたように顔を向けた。



 瞬間、パチリと目が合った。


 彼女の鶯色の瞳が見開かれて、どうして、とその唇を僅かに動かせるのを、ログは見た。


 ログが口を開くよりも早く、レオンがエルの元へ降り立ち、半ば強引に彼女の腕を掴んだ。レオンは驚きを隠せないエルの顔をじっくり見降ろすと、途端に青の瞳に悪戯好きな輝きを浮かべて、品もなく歯を見せて笑った。


「よッ。見ないうちに、ちょっと大きくなったか?」


 言いながら、彼は目を見開くエルの腕を更に引き寄せた。そのそばに降り立ったクロエと視線を絡めたホテルマンが、肩の強張りを若干抜き、作り物らしくない苦笑に労いの表情を浮かべた。


「死に急ぐのは、まだ早いぜ、エル」


 レオンはそう言うと、大きな腕でエルを抱き締めた。

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