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二十二章 裏切りのナイトメア~俺の願いは~(2)

 なんて嫌味な奴なのだろうか。この身体が動くのであれば、あの涼しい顔に一発ぶち込んでやっただろう。


 ログは、ホテルマンの横顔を睨み付けながら、腹の中で悔しさを噛みしめた。凶暴になる風の音に混じって、どこからか、女の子の泣き声が聞こえるような気がする。彼は「畜生」と声にならず喉の奥で呻いた。


 とうとう聴覚にまで損傷が広がり出したのか?


 一体このホテル野郎はどこを狙って打ったんだ、こんなに強烈なのは初めてだ。


 ログは、眉間に力を入れつつ瓦礫の一つを握りしめた。拳から走る痛みが、遠のきそうになる彼の意識を繋ぎ止めてくれる。幻聴か、気のせいなのか。風の音に混じる泣き声を聞いていると、何故か、最後に一度だけ目が合った『エリスプログラム』が具現化した少女――エリスの顔が脳裏に蘇った。


 ログは「そんな馬鹿な」と、想像した自分を嗤った。

 もう、何もかも終わったはずだろう? 


 次第に目が霞み、瞼が下がり始めた。しかし、一組の靴音が耳に入り、ログは咄嗟に己の唇の端を噛み切った。鋭い痛みに意識が強制的に覚醒され、ログの視覚を呼び戻してくれた。


 彼が再び目の前の光景を視認出来た時、エルが傍に膝を付いて、腕の中からクロエを降ろしている所だった。


 おい、どういう事だ。


 そう問いたくとも、口は思うように動いてくれなかった。お互いの視線が近くからぶつかりあった時、こちらに気付いたエルが、どこか困ったように弱々しく笑った。


 そのエルの表情を目に止めた一瞬、ログは、怒りを忘れてしまった。


 思えば出会った時から、エルはいつも、目を合わせるたび怒った表情以外は返してくれなかった。こちらが気遣う言葉と態度を取っても、不似合いな大人びた強がりを見せ、子供じみた見栄を張って挑んで来る。


 けれど気取らず小さく微笑する顔は、なんだ、想像していた以上に可愛らしい女のものじゃないかと、ログはそんなことを思った。そもそも、普段の表情からしてもそうだが、彼女が少年に見える事など、どう頑張ってもありはしないのだ。



 仕方ないじゃないか。


 理由は分からないが出会った時から、この目が、彼女の姿を追いかけるのだ。



 ここへ来るまで目を閉じるたび、何度、猫に向かってはにかむエルの微笑みを思い起こしたか分からない。スウェンがいてセイジがいて、ホテルマンがいて、当然のようにエルもいる――そんな何気ない光景を、何度思い浮かべただろう。


 確信に近い予感が一つあるとするならば、彼女は、今度こそ『お別れ』をしてしまうつもりなのだろう。訳も分からないこの世界と、異界の存在である男を一人連れて、彼女は、ログの元を去ってしまうつもりなのだ。


 しゃがみ込んだまま、エルが、また泣きそうな顔して微笑んだ。


 彼女は泣き虫なうえ、怖がりで寂しがり屋だ。

 そのくせ、自分はそうではないと言い張る、随分可愛い性格をしている。


「ごめん、やっぱり巻き込めないよ。……どうか、クロエをお願い」


 勝手に約束を押しつけるんじゃねぇよ。


 そう呼び止めたいのに、ログの喉は動いてくれないままだった。その間に、エルは勝手に話を続けてしまう。


「色々と迷惑を掛けてごめんな。俺、お前達と過ごせて楽しかった。もっとずっと、話して笑っていられたらって――」


 少し言葉を詰まらせたエルが、「それから」と声を潜め、耳元に顔を寄せてこう囁いた。



「俺の本当の名前、『ことり』って言うんだ。漢字で、小さな鳥って書くんだよ。今は、エルって名前も気に入っていて……でも、そうか。そういえば日本の漢字って言っても、分かんないよね…………それじゃあ、元気で。さようなら」



 漢字ぐらい知ってる。お前、俺らが日本語を話せるのを知らないんだろ。


 かろうじて動くログの眼球は、傍を離れてゆくエルを見続けていた。ホテルマンが彼女を迎え入れ「心の準備は、よろしいですか?」と柔らかい眼差しを向ける顔を見て、ログは、酷く腹が立った。


 ああ、なんだ。お前、そんな顔も出来るじゃねぇか。


 そんな顔してると、お前、まるで人間みたいだぜ。なのにお前ときたら、わざとらしいぐらい『お客様』を連呼して、俺達の名前をちっとも呼ばねぇんだもんな。お前は、俺達人間に対して情が沸いちまうのが、そんなに怖いのか?


 ログは朦朧とする意識の中で、エルとホテルマンが向かい合う様子を眺めた。気のせいか、身体の不調に対して、不思議と気分は落ち着いてきた。意識はじょじょに遠のきかけているものの、視界は安定し始めており、三半規管が先程のようにぐるぐると回る事もない。


 全身の痺れは残っているので、安定しているというよりは、痛みという感覚そのものが、意識ごと遠のきつつあるのかもしれない。


 駄目だ、動けよ、俺の身体。


 頼むから、まだもってくれ。

 

 エルとホテルマンが塔に向かって歩き出し、ログは必死に身体に力を入れようとした。しかし、腕一本動かせないまま、彼女達の姿は次第に遠く離れ、霞む視界の先で小さくなって、とうとう見えなくなってしまった。


 悔しさが込み上げたが、成す術もない諦めが心を落ち着けてしまうのも早かった。この世界の全ては偽物なのだから、ただの悪夢だと思って現実世界に帰ってしまえば、訳の分からないこの気持ちも軽くなってくれるのだろうかと、そんな事をぼんやりと考える。


 いいや、それでも、きっと俺は忘れられないに違いない。


 ログはそれを察して、エルとの出会いを思い返した。相変わらず可愛げのないガキだと、遠ざけようと意識すればするほど、彼女の姿を目で追ってしまう自分がいた。


 あの小さな少女は、可愛らしい顔と華奢な外見からは想像がつかないほど、切れると口が悪くて乱暴で、負けず嫌いの癖に泣き虫で、そのうえ厄介なほど体術にも長けている。かなりのじゃじゃ馬の癖に、寂しくて悲しいと、やけに愛らしい声で泣いてログの目を惹く。



 ログは、セイジが優しく慎重に彼女を守る姿を、そしてスウェンが次第に仲間として彼女を思い、迎え入れる決断をした事を、誰よりも一番に誇らしく感じていたのだ。

 


 忘れられないほどに印象的で、長いようで短いこの世界の出来事も、普段見る夢のように目覚めと同時に薄れていってしまうのだろうか。現実世界に戻ったら、もう何も感じなくなってしまうのか?

 

 とうとう眼球にも力が入らなくなり、視界から光が遠のき始めた。


 どうしてかログは、戦場で死にかけた日の事を思い起こした。目の前が段々と薄暗くなり、聴覚も遮断され、身体の感覚が失われていくさまが似ているせいだろう。


 あの時は、どうだっただろうか。

 ログは、ぼんやりと記憶を辿った。


 確か無線を握りしめていて、諦めるなというスウェンの怒鳴り声を聞いていた。エルには『潰れた』と話したが、あの時、もうログには左腕がなかったのだ。スウェンは、無事だった六人の仲間と入れ違うように、たった一人で激戦区に飛び込み、死にかけたログを細い体で背負って生還した。


 荒廃したコンクリートの冷たさを頬に感じながら、ログは静かに考えた。


 結局これで、何もかも元通りなのだろう。目が覚めれば、スウェンとセイジがいて、時間が経てば、アリスとマルクの身柄も届けられるに違いない。


 もう自分に何が出来る訳でもないのなら、夢だと言い聞かせて、何もかも忘れてしまえばいい。『夢人』だとか、『夢世界』だとか、説明しようにも誰一人納得させる事など出来ないし、結局は、この世界の不思議を理解する事など到底無理のだから。


 それでも、ログの聴覚は未練たらしくも、辺りの音を拾い続けていた。世界が崩壊する騒々しい音に混じって、吹き荒れる風の中に少女の泣き声が重なっている。自分が誰なのかも分からなくなった、迷子の可哀そうな子供の声に似ていた。


 ああ、この世界は、とんでもなくでかい異次元なのか。


 この異次元には、『夢人』だとかいう訳の分からない連中が確かにいて、ホテルマンのような存在もいる異世界の一部に、俺達人間が、少しばかり巻き込まれたに過ぎないのだろう。たった少しで、このレベルとは驚かされる。


 ログは唐突に悟った。

 しかし、そう考えている間にも、身体からは力が抜けていく。



 すぅっと視界が暗転した。稼働を止め掛けた脳が、彼が現実世界へ帰還した後の光景を勝手に想像して、無駄な思考を続けた。



 現実世界に戻ったら、『仮想空間エリス』へ潜入する前と変わらない顔ぶれが彼を迎えるだろう。マルクは今回の首謀者という事になっているが、どうやら『夢世界』の事情に翻弄されて正気を失わされていた部分もある。


 これは勘であるが、どうにも所長も『真相』については知っていそうなので、スウェンと共謀して、マルクの件はどうにかなるかもしれない。そもそも、エルが助けたいと言ったのだから、マルクが完全に黒ではない事は間違いないはずで、だからスウェンも……


 唐突にエルが思い出され、ログは無駄な想像を止めた。


 そうだ、ここで諦めたら、もう彼女の強い反論も主張も、心を見透かすように真っ直ぐ見つめ返して来る眼差しも、不思議と相手を納得させるやりとりも、見聞きする事は叶わないのだ。何故なら、ここでの出来事は、現実世界ではない『仮想空間内の出来事』として片付けられてしまうのだから。


 身体の奥底から沸き上がる強い意思が、離れかけたログの意識を引き戻した。彼は瞼を開き、見える景色を認識する為に目を凝らした。僅かばかりに戻った身体の感覚を噛みしめ、先へと手を伸ばして、瓦礫と土埃を握り締める。


 朦朧とした五感が、この世界に取り残していってしまう少女の面影を探した。勿論既にそこにはエルとホテルマンの姿はなく、ログはそれを改めて確認させられて痛感し、崩壊する音と風の中、胸を貫く激しい痛みに顔を歪めた。



 ああ、そうか。……俺はきっと、お前がいないと淋しいんだ。



 ログは前触れもなく、曖昧だった己の心の答えに気付いた。ずっとそこにいればいいと、そう思った一時を今更になって思い出した。手を離さなければいいだろうと、そう告げた光景が脳裏をよぎる。


 生身の身体でないせいか、抱き寄せても「本当にここにいるのか」「目を離した隙に俺がいなくなっている事もあるのか」と小さな不安が拭えず、何度かその温もりを確かめるように、彼女の細い腰を引き寄せて、自身の身体に押し付けた事もあった。


 隠された世界の謎や神秘など、理解したいとも思わない。助ける為にどうすればいいのか、いつも必死に考えるばかりだ。



 俺から離れるな。

 頼むから、目の届かない場所に行ってしまわないでくれ。


 俺は、お前が好きだ。



 一目見たときから知らず目で追いかけて、見降ろせる距離にある彼女の顔を見てどこか満足していたのは、多分、そういう事なのだろう。そう実感した途端、彼女のこの先の長い人生が欲しいと思った。誰よりも近くにいて、自分の腕の中で幸せに笑って、隣でずっと共に生きて欲しい。


 その時、ログは握り締める手に、何かが触れるのを感じて目を向けた


 そこにいたのは、エルが先程ログに託すように置いていった、クロエという名前の黒い雌猫だった。

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