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三章 仮想空間と支柱(2)上 

 名前を呼ばれて、ハイソンは新人時代からすっかり染み付いた習性で、反射的に「はい!」と答えてガバリと身を起こした。


 彼に声を掛けた後輩兼部下のクロシマが、驚いた顔をして「大丈夫っすか?」と窺って来た。ハイソンは、一回りも年下の、彼の黒い瞳をしばし見つめ、ずれた眼鏡をゆっくりと押し上げた。


 どうやら、自分はちょっとした間に意識を手放してしまっていたようだ。


 十年以上も前の懐かしい夢を見た事を考えながら、ハイソンは「すまない」とクロシマに詫び、差し出された淹れたての珈琲を受け取った。



 あの日、若き所長と出会った後、ハイソンは彼の下に付いて共に研究をするようになった。所長が沖縄の米軍基地にある研究施設へ異動する事になり、「君も来ないか」と誘われて、ハイソンも沖縄への移住を決めたのだ。



 ハイソンは研究員としての勤めは長いが、その臆病癖が完全に克服出来たわけではなかった。普段はこちら側に来ないような、ニコリともしない軍人が出入りし、所長が不在の為に責任者として相手を任されている事もあって、気力はすっかり擦り切れていた。


 疲労で今にも色々と負けてしまいそうだったが、ハイソンはどうにか、連日連夜の多忙による睡魔を、珈琲と薬の力で押しのけていた。


「作業の方はどうっすか?」

「順調じゃない、極めて順調じゃない。今回の現象の派生に一貫性が見出せないし、残されていた資料をかき集めてみても、マルクさんの目的が全く分からない……」


 事件の発生から全体を通して見るならば、事態は確実に悪化している。所長の娘は誘拐されてしまい、『仮想空間エリス』はより不安定になっている。時々仮想空間内の数値は、胎動のような揺れを見せ始めてもいたが、その原因も掴めていない。


 ハイソンは、落ち着きなく鼻頭の脂を拭い、人差し指で眼鏡を押し上げた。


 まさか以前の研究チームが再び集まり、一時的とはいえ、そのリーダーを任された荷は重い。所長の補佐役であったマルクが抜けたせいで、二番手に古いハイソンにその役が回って来たのだ。胃通が絶えず起こり、彼の腹部をキリキリと締め付ける。


「所長は、いつ戻って来られるんだ?」

「本日の夕刻には、沖縄に入られるそうですよ。こちらからデータは常に送って解析はお願いしていますが、こんな現象は見た事がないそうです」


 無から有が派生し、有が存在しないはずの向こう側へ飲み込まれ、現実世界から消える――


 マルクの隠し部屋にあった機器は、仮想空間から現実世界に、持ち出されたものだろうとは推測されていた。組み立てられた跡すら見られない完璧なパソコンと機器の模造品達は、恐ろしい事に、きちんと機械として作動もしたのだ。


 隊員達の目の前でマルクとアリスが、身体ごと仮想空間へ消えてしまっている事もあり、ハイソンの悩みは尽きないでいる。


 奇怪な現象だ。全てが想定を超えてしまっている。一体何のバグだってんだ?


 ハイソンは頭を掻きむしった。相変わらず『エリスプログラム』は、こちら側の命令を拒絶し続けている。原因不明の死人が何人も出たアウトな代物だというのに、まさか、マルクが『仮想空間エリス』を再稼働させてしまうなど誰が想像出来ただろうか。


「廃止した時、マルクさんも納得していたんだ。なのに、どうして今更になって、こんな事を……」


 マルクは、この研究が始められた時の初期メンバーの一人だった。まずは所長が一人で取り組み出し、すぐ後にエリスが加わり、そして、所長のスカウトでマルクが正式にメンバー入りした。


 その時、室内に別の部隊員が入って来た。現在ラボを任されているハイソンが顔を向けると、軍服の男は、マニュアル通りのような敬礼をした。


「新たな報告が上がっております。こちらが処理班からの報告書、こちらが、それぞれの被害者の分析と詳細データとなっております」


 室内には、規則正しい機械音と他の研究員達の動きの他、仮想空間に潜入している三人の男達の呼吸音もあった。


 報告した隊員が部屋を急ぎ足で出ていく中、珈琲を持ったままのクロシマが、眠る男達の状態を数値で確認した。彼はふと、思い出したようにハイソンを振り返った。


「そういえば、さっきスウェン隊長って人から、二つ目のセキュリティー・エリアを突破したって報告がありましたけど、早いっすよねぇ」

「『隊長』? ああ、そういえばスウェンさんは、ログさんがいた部隊の隊長だったな――って違うだろ。馬鹿いえ、向こうとこっちとじゃ時間の流れが違うんだぞ」

「あ、そうでした。あとは、あれっすか? 少年が一人紛れこんじゃってるんでしたっけ?」

「ぐぅッ、胃が痛い……」


 ハイソンは、堪らず服の上から腹部を押さえた。珈琲が胃にしみる以前に、緊迫と責任感で内臓が押し潰されてしまいそうだ。アリスにまで何かあったらと考えると、生きた心地がしない。


 所長は、十一年も前に妻であるエリスを失った。ハイソンにとっても、彼女はとても良き先輩研究員で、友人で、交通事故で死んだと聞かされた時は信じられなかった。


「そもそも、民間人が今更紛れ込むなんて、おかしいだろ。仮想空間内の時間を、現在の時刻で割り出しても計算が合わないぞ。入口は既に強制停止させていたし、今日の明朝にはマルクさんの機材の調査と処分も完了していた。三人を入れた時点で、脳波は増えていなかったのに……」


 何もかも『合わない』『有り得ない』事ばかりが続いている。頭が痛い、休憩が欲しい、贅沢をいうのならたっぷりのハンバーガーを食べて、まとまった睡眠を取りたい。


 珈琲を口にしていたクロシマが、緊張感もない顔で「どうなんでしょうかねぇ」とぼやいた。


「こっちで入口は閉じたってのに、マルクさんも仮想空間に逃げちまいましたからね。あんたの説明も、信憑性が揺らいじゃってます」


 ハイソンは、「そんな事ぐらいは知ってるッ」と、自分を敬っているのか分からない後輩兼部下を叱りつけた。


 これまで発見された遺体は、明らかに事故というよりは他殺の線が強かった。内側から爆発するような死に方だったが、『仮想空間エリス』に関わる何かしらの人体実験が想定された。これまでの被害者達が仮想空間に入ってしまった要因についても、現在調査中だ。


 スウェンの報告にあった少年については、今のところマルクやアリス、これまでの被害者達と同様に身体ごと仮想空間内に入ってしまっているのかは不明だが、至急捜索が開始されていた。


 ハイソンとしては、倒れている少年を発見、もしくは確認し保護した、という報告を心の底から望んでいる。


 身体ごと入っているとしたら、恐らくその少年は、今事件での最後の被害者になるはずだった、という説が濃厚になるだろう。


 そもそもハイソンとしては、未成年の民間人が、妨害が働く仮想空間内で、軍人と共に『仮想空間エリス』まで無事に辿りつけるとは思えなかった。意識体だけであるのなら、もしかしたら途中で脱出させられるかもしれない……


 ああ、頼むから肉体ごとでありませんようにッ


 生きているのに救えない、なんて事は絶対に嫌だ。ハイソン達は軍人ではない。任務を優先しなければならない状況であっても、諦める事は出来ない。



 軍の上層部は、既に今回の件で、仮想空間に関わる研究の完全抹消を決定していた。マルクが『エリスプログラム』の修復と立ち上げを、急ピッチで進められた謎については、仮想空間から、機材等を調達出来た事が要因だと推測もされていたからだ。



 何もないゼロの状態で、バーチャルから現実世界に、物体を精製出来るとすれば脅威だ。今は機材だけだとしても、次は武器が来る可能性もある。仮想空間内は時間の流れが早いという事もあり、とんでもない化け物や軍隊を作り上げられたら、世界の軍事バランスは一気に傾くだろう。


 実のところ、研究が停止に追い込まれたのは、死人が出たというのも要因の一つではあるが、エリスが亡くなり、研究の存続が不可能となったのが最大の原因でもあった。


 仮想空間は、エリスが亡くなった直後から、原因不明の崩壊を始めていた。半ば暴走といってもおかしくなかったが、マルクは、どうやってそれを留め、再稼働にまで至れたのかも謎だった。


 本当に、謎ばかりだ。


 つらつらと胃に痛い事を考えていたハイソンの横で、クロシマが思い付いたように口を開いた。


「そういえば、この前チョコ菓子を大量に買っちまったんですよ。日本製のチョコって質が良いっすよねぇ。ハイソンさんも食べます?」


 ハイソンは、相変わらず呑気なクロシマを睨みつけた。クロシマは、暇があるなら動けよというハイソンの意図に気付くと、舌を出して軽く詫び、そそくさとラボを出ていった。


 珈琲を大量に喉に流し込み、ハイソンは深呼吸してモニター画面に向き合った。長さのある机の上には、複数のモニターとキーボードが設置され、乱雑した様々な資料があった。


 簡単に考えれば、これはゲームのようなものだ。


 六つのセキュリティー・エリアを突破し、『仮想空間エリス』でアリスを救出して『エリスプログラム』を破壊出来ればゲーム・クリア。先に壊れ始めるのはセキュリティーなので、完全崩壊までの隙を付いて、ハイソン達が脱出経路を確保し、スウェン達を現実世界へ引き戻す。


 けれど実際は簡単な話でもない。これは、スムーズに問題なく遂行出来た場合の筋書きであり、仮想空間内に潜入した三人が、途中で戻って来てしまう事態は想定されていなかった。



 既に『仮想空間エリス』への入口が残されていない今、ゲームのような『再スタート』はきかないのだ。



 基本的に、仮想空間は人工知能が組み込まれた『エリスプログラム』で全て管理されている。しかし、セキュリティー・エリアは、全く独立した仮想空間として仕上がっているため、こちらからの制御・操作は完全に不可能だった。


 そのため、スウェン達を通してデータを回収するしかなく、彼らが踏み込むまで解析が開始出来ないという歯痒い現状もあった。進むごとにセキュリティー・エリアの完成度が上がっている事も、新たにハイソンを悩ませてもいる。


 はじめは推測の範囲内でしかなかったが、スウェン達が潜入してから、それは確信に変わっていた。



 セキュリティー・エリアは、『仮想空間エリス』に近づくほどに、模造品とは思えないリアリティーな世界を造り出す。



 正直、侮っていた部分もあると思う。チームはたったの三名組だったが、大佐直々の命令でもあったし、彼らの能力を聞いてハイソンも「それならいけるだろう」と判断した。そもそも、突入してすぐ『エリスプログラム』に手が届くと思っていたから、ゴー・サインを出したのであって……


 セキュリティー・エリアがあろうとは、全くの想定外だった。


 三人の軍人でどうにかなるとは思えなくて、ハイソンの胃は、キリキリとしつこく痛み続けている。それに加えて、民間人の少年の件が出たのだ。


 責任感は強いが、自信はない臆病な彼の胃腸は、先刻より一割半増しに悪化していた。

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