十八章 抗う者達の戦場(5)
エルはしばし、向こうにいるアリスの鮮やかな青い瞳を見つめていた。
恐らく不思議な『声』達のような存在が、果たさなければならない役割と引き換えに、これから起こる事と、エルの本当の名前までアリスに教えたのだろう。エル自身がそうだったから、容易に想像がついた。
そう考えたところで、エルの胸の奥に残っていた最後のシコリが解けた。脳裏にホテルマンの不敵な微笑みが浮かんで、それが仮面を付けたファントムに変わった。
つまり、あの遊園地のセキュリティー・エリアで、危ないからとエルを引き止めてくれた仮装男もまた、ホテルマンだったのだ。そして、アリスの鈴のような声は、仮想空間に踏み込んでしまう直前に国際道路でエルを『※※※』と呼んだ声と同じものだと気付けた。
ああ、そうか――とようやく、エルの中で全部が腑に落ちた。
君が先に『エリス』を止めていてくれたんだね。でも、ごめんね。死なないで、という願いを叶えてあげる事は出来ないんだ。俺は、俺の役目を果たさなきゃならない。そうしないと『エリス』は助けられないんだよ……
「――お前は、アリスを守る事を第一に動け」
エルは、アリスを見据えたまま、隣にいた彼の脇腹を軽く叩いてそう告げた。ログが心底疑わしそうな顔を向けて「なんでだ」と言い放った。
「小せぇ者同士、向こうで固まっていた方か都合も良いだろ。離れられちゃ守るのも一苦労だ。むしろ、お前の方こそアリスと一緒に居とけ」
「お前、マジでぶっ飛ばすぞ」
しかし、エルは考える事に精一杯で、どう動こうか沈黙しているようにも見える対地上用戦闘機MR6に視線を向け、落ち着いた口調で言葉を続けた。
「アリスにとって、ここは全く知らない世界だし、面識がある人間が側にいた方が安心すると思う。スウェンもこっちに向かっているはずだから、とにかく今は、戦闘兵器と力も互角なセイジさんと一緒に、俺があいつと戦う」
アリスの写真を見つめていた時の様子を思い返す限り、とても大切にしているようだし、エルは、その方がログも安心出来るかもしれないと考えた。エルだって、クロエは出来る限り自分の手で守りたいと思うからだ。
悔しいが、自分よりも彼の方が強いのも確かで、ログがアリスを守ってくれるのなら、こちらは全力で戦闘兵器に集中できる。先程のセイジの戦いぶりを見ると、腕力に欠けるエルには最高の助っ人でもあった。
すると、セイジが頷いて「確かに、エルの言う通りかもしれないな」と、その案は悪くないと相槌を打った。
「戦闘の衝撃で大きな物が飛ばないとも限らない。それが軽い障害物であれば何とかなるだろうが、もし数十キロの瓦礫が高速で向かったら、弾き返すのはエル君には無理があると思う。……そう考えると、ログが適任だ」
彼女ならどうにかしようと奮闘する可能性はあるが、ここに至るまでに「やってやるぜ!」という一面を持っているとも痛感していたので、無理をするさまも容易に想像できて、セイジは同意を求めるようログに目を向けた。
眼差しから考えを読み取ったログが、顰め面を返した。彼はアリスを見て、エルを見降ろし、それからセイジと再び目配せした後、対地上用戦闘機MR6へ目を戻して再考するように黙りこんだ。
エルは、彼らの注意がこちらに向いていない事を確認し、頭上を仰いだ。声に出さなくとも会話が出来るらしいので、試しに心の中で、アリスは無事奪還出来たけど他の人達の状況は、とホテルマンに意識を向けて問いかけてみた。
すると、脳裏に彼が滑り込んで来る気配を感じた。
――『外』では順調に事が進んでいます。あの調子ですと、奪われた人間達の意識も、予定より早く解放出来るでしょう。それから、私としても、貴女様が先に単独で塔に突入する案は賛成致しかねます。人間が作った機械に関しては、『愛想のない大きなお客様』にしか破壊する事が出来ないですし? そもそも、あの科学者の事など放っておきなさい。
最悪な状況に転じているのなら、マルクは死んでいる可能性もあるだろう。それでもエルは、自身の直感から、彼はまだ生きていると信じていた。彼女は心の中でハッキリと、ホテルマンの助言には従えないという意思を返す。
ホテルマンが、ふうっと溜息を吐いて、独り事のように言葉を続けた。
――……はぁ、頑固な人だ、彼を助けるつもりですか……そもそも、人間とは本当に碌な物を作ってくれましたねぇ。彼らが作り上げた機械が『夢』を侵した結果、暴走を始めた『夢人』の力が、本来存在するはずのないもう一人の『人工夢世界の夢人』を作り上げてしまった事で、今回の問題がこんなにも複雑化しているというのに。
え? それじゃあ、俺があの暗闇で出会った二体のテディ・ベアって……
混乱してきて、エルは、ちょっと待てよ、ともう一度情報を頭の中で整理してみた。つまり、狂い始めていたから『エリス』の様子が変だったのではなく、当初からホテルマンが口にしていた『エリス』は、二人存在している……?
思い返せば、アリスは『エリス』と共に眠りについていたようだが、その間も少なからず影響され接触を受けて続けている現状があった。ホテルマンは先程、『彼女』が安定のために現実世界から精神体を引っ張り込んでいる、とも言っていた。
つまり一人の『エリス』の中に、意識が二つあるという事?
それとも、もしかして二人の『エリス』が同時に存在し――
「おい。おい、クソガキ」
唐突に顔を掴まれ、エルは我に返った。
頭の中に感じていたホテルマンの気配が、ふっと霧散した。
は、と疑問の声を上げる間もなく、大きくて熱い両手に顔を左右からはさみ込まれ、無理やり横に向かされて顔を上に持ち上げられた。戦闘時に痛めた身体にピキリと痛みが走り、エルは「びゃッ」と首から下で飛び上がった。
「痛ッ、何なの一体なんなのさ!? というか無駄に痛いんだけど!?」
「お前、さっきから何でこっちを見ないんだ」
「はぁ? 一体何の話だよッ」
エルは、非難の目でログを見上げた。
大きな背を丸めるように屈め、こちらを見降ろすログは相変わらずの仏頂面で、怒っているのか呆れているのかも分からない、気の抜けた調子で「いいか」と勝手に説き始めた。
「話しをする時は、ちゃんと相手の顔を見ろって教わらなかったのか」
「…………は……?」
それだけ? たったそれだけのために俺の首をグキッてやったの?
というか、それ、今、関係なくない?
こいつはマジで阿呆なんじゃないだろうか。いや、むしろ空気が読めない男なのだろう。エルは、つい先程の話の流れを思い返し、つまりログは気に食わないから、腹いせでこのような嫌がらせを行っているのだと勘繰った。
「お前あれだろ、俺に指示されたのが嫌なだけだんだろッ、絶対にそうだよな!? 嫌がらせにもってこいの痛みだよッ、今すぐその手を離しやがれ!」
「んな弱っちぃ拳でポカポカされても痛くねぇよ。にしても、お前身長もそうだが、顔も小せぇな」
「この状況で喧嘩売ってんの!? おいコラ、ついでとばかりに頭をぐりぐりするな、身長が縮んだらどうしてくれるッ」
思案するようにしげしげと彼女を見降ろして手を動かすログと、頭を押さえられたまま届かない腕を振り回すエルを見ていたセイジは、困ったように頬をかいて「うーん」と悩ましげに視線を泳がせた。
「そういえば、ログは基本的に、スウェンの命令以外は聞かないからなぁ……」
恐らく発案者がエルなのが気に食わないのだろうか、とセイジは首を捻った。適切な案の場合だと、ログも反論せず大抵は了承するので、それはそれで珍しいと思う。
その時、三人の足元から破壊音が炸裂した。地中から飛び出したいくつもの野太い木の根が大地を割り、エル達は、反射的にそれぞれが不安定な足場から飛び退いた。
「おいおいおい、どうなってんだッ」
「――あ。言い忘れてたけど、この場所はマルクが自由に出来るんだって。さっきマルクがそう言ってた」
「なんだ、そういう事は早く言えよ。へたしたら串刺しだぜ」
「エル君もログも、そこで冷静に戻るんだなぁ……串刺しって結構大変なだと思うんだが」
何でもない事で飛び上がったり、普通の民間人が臆する事に平気で突っ込んでいくエルと、普段なら言い忘れていた相手に容赦なく逆切れするログが、「そうなのか」の一言で納得する様子を見て、セイジは困惑しつつも遠慮がちに呟き、言葉を切った。
それぞれが足場を確保したところで、素早く後方へと目を走らせた。アリスは声もなく青ざめていたが、そちらまでは被害は及んでいなかった。恐らく、アリスがいる場所はセキュリティーの外なのだろうと見て取り、エル達は、ひとまず安堵の息を吐いた。
きっと、賢いクロエは安全な場所に隠れてくれているだろう。
エルは、そちらの件についてもそう自分に言い聞かせた。
「ログ、彼女の事は頼んでくれるか?」
揉めている状況でもないとセイジが横目で問いかけると、ログは渋るような間を置いた後、ちらりとエルを見降ろし、セイジへと視線を戻して「……確かに瓦礫を防ぐにはパワー不足だな」と顰め面で肯き、アリスの元へ走り出した。
片腕を失った対地上用戦闘機MR6が、身体の向きをゆらりと変えて、エル達の方向へ狙いを定めた。
「君達は何も分かっていない。彼女は生きているんだよ。ここへ逃れて、無事でいたのだ」
錯覚したかった願望なのだろうと察して、エルは、そっと目を細めた。
地上から上空へ伸び上がった巨大な木の根が、次第にその姿を変え始めた。それは急激に成長し増幅すると、根の表面が滑らかな体表となって腕も足もない動物の胴へと転じ、最後に先端部分に頭部を生やして、獰猛な大蛇へと変化した。
肩越しにその様子を振り返ったログが、舌打ちした。
「またデケぇ怪物を作りやがって。――お前らイケそうかッ?」
「俺は平気!」
「私もだ!」
エルとセイジが振り返らないまま答えた直後、大地から身体を生やした数十の大蛇が、一斉に襲いかかってきた。二人は反射的に地面を蹴り上げ、咄嗟に跳躍して攻撃を回避した。
標的を逃した大蛇の強靭な顎が、大地やビルを簡単に噛み砕き、破壊音が鳴り響いて後方からアリスの悲鳴が上がった。大蛇の光景を隠すようにアリスの前方に立ち塞がったログは、飛来してきた瓦礫を、鍛え上げられた腕と足で打ち砕いた。
大地へ噛みついた大蛇の動きが僅かに止まった隙を逃さず、セイジはその胴体を掴むと、そのまま持ち上げて近くのビルへと叩き付けた。彼はすぐに体制を立て直すと、二メートルはある大きな防弾ガラスの破片を拾い上げ、続いて迫り来る別の大蛇の頭に向かって振り放った。
セイジの手から、時速二百キロ以上で放たれたガラス片が、圧倒的な破壊力で大蛇の首を切断した。大蛇は切断面を剥き出しに、力を失って地面へと崩れ落ちた。その切断口からは骨や筋肉といったものが覗いていたが、作り物のように体液はなかった。
「そっくりの模型みたいだ……」
エルは、セイジの戦い方に唖然として出遅れてしまい、どう戦おうかと思案しながら、大蛇の切断面を見て思わず口の中で呟いた。
大蛇の姿をした怪物達は、開いた口から氷柱のような鋭利な刃を覗かせて、蛇独特の威嚇の仕草も見せずにエル達を睨み降ろした。その獰猛な瞳は濁った赤い色をしていて、本物の生物のようにギラリと忌々しげに細められた。




