三章 仮想空間と支柱(1)
ホテルの非常階段を上りきると、四方五メートル程の灰色の空間があった。光は一切差していないはずだが、まるで昼間のように視界は良好だ。
そこには、装飾の施された銅製の西洋扉が一つあった。最後に到着したエルは、どこか寒気を覚えて思わずボストンバックを引き寄せた。ボストンバッグから顔を出したクロエも、髭を揺らしながら慎重に鼻を動かせていた。
「なんだか、怖い感じがする……」
「仮想空間内に、意図的に造られた『施設』だからだろうね」
そういうのって、人間は本能的に察してしまえるものなんだよ、とスウェンが答え、ゆっくりと扉を開いた。
開かれた扉の先には、窓のない真っ白な広い空間が広がっていた。部屋の中央には、二メートル程の筒状の、ガラスが中央にはめられた厚みのある鉄製の機器が、無造作に寄せられるように置かれていた。
筒状の機器の中には、気泡を立てる黄緑色の液体が入っていた。設置された機械からは様々な色と太さの電気ケーブルが伸びており、規則正しく脈打つ機械音が部屋中に低く響いていた。
筒状の重々しい鉄の機械に繋がれた無数の電気ケーブルは、一番太い物だと、人の太腿ほど大きかった。それらが無数に広がり、白い床に蛇のように広がっている。それは四方の壁まで続き、それぞれが白い壁の中に飲み込まれていた。
「……なに、この部屋」
部屋を見て一番に、エルは呻いた。現実世界ではないはずなのに、なんだか嫌な匂いも立ち込めているような錯覚も覚えて、気持ちが悪くなった。
「これが『支柱』だ」
顔を顰める目エルを見降ろし、セイジが困ったような表情で答えた。
「一つ目の支柱も、全く同じように置かれていた。これが『仮想空間エリス』の模造品である、セキュリティー・エリアを造り出している物の正体らしい」
「だから、僕が機械だって言っただろう?」
部屋に踏み込んだ位置で、エル達と足並みをそろえるように立ち止ったスウェンが、そう告げた。
「こういう事だよ。人工的に造られているんだ、何もかも。正規の『仮想空間エリス』のセキュリティーの他に、マルクは彼自身で作り上げた予備の防衛システムを設置していったらしい。小型だけど厄介な代物だよ。これを壊さないと、僕らはこのエリアから出られないのだから」
クロエが、嫌悪感を意思表示するように鼻先を動かせていた。エルが「大丈夫か、クロエ?」と声を掛けても、クロエは引き続き『支柱』を睨みつけている。
まるで互いに意思疎通するようなエルとクロエのやりとりを見て、スウェンは苦笑したが、彼は何も言わずに視線をそらした。
「あれ、一体何で出来ているんだろう?」
「お前の知るところじゃない」
ここまでクロエが警戒する物も珍しく、エルが思わず疑問を呟くと、ログが断るようにぴしゃりと言った。
「調査と推測は進められているにしても、機密事項だ。とにかく、俺達はあれを破壊して『エリス・エリア』まで入らなきゃならない」
上からの物言いにエルは苛立ちを覚えたが、機密を把握する気はなかったので追及はしない事にした。すると、スウェンが横から出て来て、子共をあやすような慣れた手つきで、エルの身体の向きを扉の方へと向かせた。
「まあまあ、後は僕らで処理するから、ちょっと外でセイジと待っていようか。怪我でもされたら危ないからね~」
銃撃戦の時のような、ハチャメチャな事にでもなるのだろうか。
エルは疑問に思いつつも、背中を押されるがままにセイジと共に部屋の外へ出た。扉を閉めると音が遮断されて、階段のある灰色の空間には、二人と一匹だけがポツンと取り残された。
※※※
スウェンとログを待つ間、エルは、セイジにこの世界について話しを聞いた。
当初、『仮想空間エリス』は一つの仮想空間だったが、マルクという、少女誘拐犯である科学者が手を加えた事により、六つのセキュリティー・エリアが、目的エリアまで壁のように塞いでしまっていた。
それぞれが『支柱』を媒体とした小さな仮想空間となっており、壊さない限り、次のエリアには進めない。設定されている風景や世界観、支柱の位置は異なるが、セキュリティーという特性もあって、侵入者を攻撃してくるのだという。
なるほど、それで銃撃戦があったわけか。
エルは、話を聞いてようやく納得した。彼らはそれを予測していたから、唐突な展開と思われた先程の騒動にも、冷静に対応していたのだろう。
壊さなければならないセキュリティー・エリアの仮想空間は、全部で六つ。この世界は、どうやら二番目のセキュリティー・エリアであるらしいので、残すところは四つだ。先は遠いな、とエルは話を聞きながら思案した。
「当初の予定であれば、私達は突入してすぐに『エリスプログラム』を内側から破壊する予定でいたのだが、目的のエリアまで辿り着けないのが現状だ」
セイジは、落ち着いた低い声で、ゆっくりと話し聞かせた。
「『外』から情報を送ってもらっているが、見取り図も防衛システムの拒絶を受けてしまっている。支柱のセキュリティーが稼働している間は、見取り図上には空間内の形が黒く反映されるばかりで、内部の構造は確認出来ない」
実際に足を運ばない限り、そのセキュリティー・エリア内の様子を確認する事が出来ないらしい。支柱を壊してはじめて、その仮想空間の情報を『外』が引き出せる。
現在、スウェン達が使用している武器等については、現実世界にいる人間に転送してもらっているのだという。簡単にいうとゲームと同じ原理で、プレイヤーが装備する武器を次のステージへ進めるたび新調し、必要な物資を新たに導入させておく、という仕様らしい。
「……あの、俺、ゲームした事無いから分からな――ッああ、でもイメージはすごい伝わって来た!」
思わず本音をこぼしたエルは、セイジが「どうしよう心底困ったぞ、他にどう例えて説明すればいいのだろうか」と捨てられた子犬のような表情で、真剣に悩み出した様子を見て、慌ててそう言い繕った。
セイジが、どこかほっとしたように「そうか」と微笑み、話の先を続けた。エルは、なんて善良な人なんだろうか、とうっかり感動しそうになった。
科学者は実際の先頭のプロではないので、セイジ達からすると、武器は現地で調達するのが好ましいという。それでも利用しているのは、『外』からの転送武器に関しては、専用の小さな鞄一つに収まるというの利点があるからだ。
大きなロケットランチャー等も、スウェンのウスエトバッグ一つに収納されているらしい。つまり、彼がホテルの銃撃戦の際、そこから容量を超えるような銃器を取り出したように見えたのは、気のせいでなく事実だったようだ。
仮想空間へ入るには、機器を使って被験者の意識を『仮想空間エリス』に送るのが正規のルートだ。
しかし、マルクとアリスは、隊員達の目の前で消えてしまったらしく、身体ごと仮想空間に入ってしまう事については、現在も調査が進められているのだと、セイジはそう語った。
「それってさ、今まで死んだ人達も、生身の身体で『仮想空間エリス』に入ってしまった可能性が、既に考えられていたって事でいいのかな」
「実際に目にするまでは憶測でしかなかったが、以前から死体の状況で、その線が強いと推測されていた」
「ふうん。……支柱に関しては、新しく作られた物なんだよね? 何かしらの実験がされていた可能性も否定できない感じ?」
ニュースの内容を思い出す限り、短期間で行方不明者の数は二桁に上っていた。再稼働前の『仮想空間エリス』でも死者が出ていたらしいが、エルとしては、県内全域という広範囲から人が消えている現状には、必要があって事を起こしている何者かの意思も覚えていた。
探りを入れるべくエルが何気なく尋ねると、セイジは気付く様子もなく「スウェンはそう言っていたな」と思い出すように言って、説明の先を続けた。
仮想空間内で流れている時間については、現実世界よりもかなり早い。こちらでは数日の出来事でも、現実世界では数時間も経っていないため、『外』で時間を掛けて調査している余裕はなく、マルクがとんでもない事を引き起こす前にと、スウェン達は大佐の命を受けて『仮想空間エリス』に突入した。マルクが、どういう意図で今回の事件を引き起こしたのかは不明で、今も急ぎ調査が進められているのだという。
それが、この三人の軍人が今に至るまでのあらすじだった。
話し込んで緊張感も解けて来たので、エルとセイジは、自然に扉の前にしゃがみ込み、話し役と聞き役に分かれて向かい合っていた。長らく待たされているせいで、クロエは鞄の中で丸くなってしまっている。
「これも推測だが、仮想空間は『夢』を見本に造られているのだから、入り込んだ人間の悪夢に、侵入者の破壊と妨害をプログラムしたのではないかという話もある」
「じゃあ、俺達の夢とか、想像が反映されちゃう事もあるの?」
「仮想空間に入る前に説明は受けたが、通常の精神値では出ないらしい。そうだな、精神力が低下した場合は、あるとかないとか……うーん…………」
セイジが真面目に悩み始めたので、エルは彼の悩みを解決してあげるべく、簡単に頭で整理してみた。
「精神力の下りはイメージが掴みにくいけど、こんな事が起こったら怖いなぁっていう想像を出来るだけしないとか、隙を出さないよう気を引き締めれば問題ないんじゃない?」
「君は、……なんというかポジティブだなぁ。私達のイメージが形になるとは聞いていないが……謎が多い場所だから、どうなんだろうか……」
またしても、セイジが真面目に考え込んでしまった。ボストンバッグから顔を覗かせたクロエが、片目を開けて二人の様子を観察し、つまらなそうに欠伸を一つした。
まだスウェン達が出て来る様子はない。エルは、セイジを悩ませている話題をすり替える口実ついでに、現実問題について考えを進め、もう一つ吹っかけてみる事にした。
「そういえば、少し疑問に思ったんだけど。俺ってさ、他の人みたいに身体ごと『こっち』に入っちゃってるのか、それとも貴方達みたいに身体だけ置いて入ってるのか、どっちだろう? 途中で倒れている俺の身体を見付けた人がいるのなら、ちょっとした騒ぎになっていると思うけど」
エルが歩いていたのは、人通りの多い国際通りのド真ん中だった。可能性は低いとしても、もし保護されたうえ、捜索依頼まで出されてしまったらと想像するだけで、演技するまでもなく自然と眉尻は下がった。
そうすると都合が悪い。けれど同時に、そうであった方がエルの安全性は上がるのだが、そこにはあまり期待はしていなかった。
「支柱を破壊する前に、スウェンが調査を依頼しているとは思う」
「――ああ、支柱のところだと『外』と連絡が取れるんだっけ? まぁ、どちらにしろ、すぐには分からない事だらけか」
セイジは何も知らないし、気付いていないらしいと察して、エルは身を引いた。
その時、扉が開く音がして、エルとセイジは視線を持ち上げた。開いた扉から先に顔を覗かせたログが、すぐそこでしゃがむ二人の姿を認めるなり、怪訝な表情をした。
「お前ら、何やってんだ」
すると、続いて出て来たスウェンが「セイジは子持ちだから、打ち解けるのも早いのかな」と含み笑いした。エルは立ち上がりながら、ちらりと確認して初めて、セイジの左手の薬指に結婚指輪がある事に気付いた。
なるほど、お父さんなのか。
これまでの気遣いようを思い返すと、そのせいで子供扱いされているのかなとも頷けた。とはいえ、あまり喜ばしくはないが……東洋人は、西洋人からすると若く見えるという説もあるらしいが、まさか、そんな事はないよな?
エルが微妙な面持ちで考えていると、セイジが早速スウェンに尋ねた。
「どうだった?」
「ん~、向こうも少年の存在には驚いていたけど、短い交信時間で分かった事と言えば、空間内の脳波反応が増えているから、一人は確実に入っているって事ぐらいかな。身体が『外』にある事も考えて、至急探索するようには伝えたよ」
「チッ、面倒事を増やしやがって」
途端にログが悪態をついたので、エルは抗議の目を向けた。
「俺、お荷物になるつもりはないけど? 自分の身は自分で守るしッ」
「――けっ。これだからガキは嫌いなんだよ」
きちんとした事を発言したつもりだったが、逆に小言を返されてしまった。
エルが次の文句を浴びせかけようとしたところで、スウェンが二人の間に入って「まあまあ、落ち着きなよ」と片手をひらひらとさせた。
「向こうでも何か策は考えるだろうし、多分死ぬほどの大怪我をしない限り、エル君も問題ないと思うよ。身体が『外』にあれば尚更さ」
しかし、エルとログは、上と下からそれぞれ睨み合ったままだった。お互いの眉間に更に深い皺が入ったところで、ほぼ同時に顔をそむけるのを見て、スウェンが「困ったなぁ」とぼやいた。
場の空気を読んだセイジが、控えめな声で、エルに説明した内容を手短に報告した。スウェンが「説明しておいてほしい部分は、ほぼ語っちゃった感じだね。感心、感心」と肯いた。
スウェンは一同を見渡したところで、「そういえば」と思い出したように、エウストバッグの中を探った。彼は、エルの手でもグリップ出来る大きさのピストルがあると言い、護身用と攻撃の両方に対応しているピストルを手渡した。
「コンパクトだけと威力は申し分ないし、装弾数は八発。マニュアル・セイフティだから衝撃で発砲してしまう心配もない。使い方をざっと教えてあげるから、歩きながら話そうか」
スウェンから手渡されたピストルは軽く、確かに持ち手も大き過ぎる事はなかった。エルは、来た道を戻るように階段を下りながら、一通りスウェンから説明を聞いて操作手順を覚え、コートの下の腰元にピストルを差した。
階段は長かったが、上り程の苦痛は覚えなかった。エルとスウェン、後ろにセイジ、最後尾にログが続いた。
「エル君は、一つ訊いてもいいかな。銃の経験はそれなりにあったりする?」
唐突にスウェンが尋ねて来たので、エルは「少し触った程度」と答えつつ彼を睨み返した。
「言っておくけど、これ、銃刀法違反だからな」
「あはは、まだそんな事言ってるの? なんだか初めてじゃないようだったからさ、訓練を受けた事があるのかと思って」
「――訓練なんて大層なものじゃないよ。育ててくれた人から、色々と護身術を習っていたってだけ」
エルは、自分を育ててくれた人との日々を思い起こした。時には厳しかったが、最期までエルのことを愛してくれた、とても優しい人だった。懐かしさに心が揺れそうになり、エルは、無意識にクロエが入ったボストンバックを引き寄せた。
最後にオジサンと訓練したのは、いつだっただろう。エルは、オジサン、と親しく呼んでいた男の声を思い起こした。
――いいか、エル。人は簡単に死んじまう。まずは加減を覚える事から始めよう。
一階に降りてみると、銃撃戦の現場となった生々しく激しい損傷が目についた。歩くたびにガラスの破片が靴の底に触れて、耳触りな音を立てる。
静まり返ったホテルを出ると、誰もいない通りが伽藍と広がっていた。
「支柱が破壊されて、仮想空間内の稼働が止まったせいだよ。支柱は、セキュリティー・エリアの心臓みたいな物だからね」
スウェンが、歩きながらそう説明した。
エルは三人の後に続きながら、頭上を仰いだ。薄い灰色の空に、誰かが手を離したらしい風船が風に流されたままの形でピタリと止まっているのが見えた。後方ではばたく鳩の群れも、歩道に立っている店の旗も、動く事を忘れて静止してしまっている。
まるで、誰が見た風景を――記憶を、そのまま切り取ったみたいだ。
そんな印象を覚えていると、ログが苛立ったように「足が遅れてるぞ」と言葉を投げ掛けて来た。目を戻した先に、こちらを振り返る三人の男の姿があったが、たった少しのよそ見で距離が開いてしまっている事に気付いた。
これは、あれだ。足の長さが違うせいだ……
今更のように、地味にショックを受けるエルを見て、ボストンバッグから顔を出したクロエが、励ますようにエルの手の甲を舐めた。エルは、クエロにだけ聞こえる声で「うん、大丈夫、俺は気にしないさ」と乾いた笑みを浮かべた。
畜生、ちゃっかりチェックしてんなよ、とエルは、ログに言い返したい気持ちを覚えて舌打ちすると、駆け足で彼らの元へと向かった。