プロローグ
『彼女』は、愛する夫と娘と、大切な友人の幸福を祈っていた。
『彼女』は、大切な彼女の幸福と、初めて出来た小さな友達を守りたかった。
『彼女』は、子供達を母として愛し、未来が変わる事を願った。
――そして、愛する者との別れを覚悟した『彼女』は、約束を果たそうとした。
※※※
「髪を切って」
1996年の某日。そう言われた彼は、どうしたものかなと、珍しく返答に窮してしまった。
確かに状況が落ち着き次第、でっちあげた戸籍通りの名に合うべく、短髪に整えなければならないとは考えていたが、この子は、まだ六歳だ。男としては、もう少し甘やかしていたい気もしていた。
ひとまず、もう傷もなくなった可愛らしい顔を鏡で見せてやったが、この子にはどう見えているのか、不思議そうに首を捻られてしまった。ああ、こんなところにも影響が出るんだなぁと、男は白い無精髭を撫でた。
癖もない艶やかな長い黒髪が、サラリと揺れた。
出会った頃よりもさっぱりとした口調で、「やっぱり合わないよ」と言われてしまい、男は「畜生」と内心頭を抱えた。
この子は素直で可愛いのだが、頑固なところもある。
一度決めたら曲げないところは、将来訪れるであろう運命の日を考えれば有利とはいえ、やはり複雑な心境を覚えた。まるで現実的な話ではないが、しかし、信じない訳にもいかないだろう。
まさか自分が離れた後の軍で、ある研究が未知の領域に踏み込んでしまったなどと、本来であれば信じたくはない話だった。しかし、男は実際にこれまで、世間に公開されていない戦いを見て来たからこそ、多分有り得るんだろうなぁと、先を見据えて本格的に行動を起こすつもりでもいた。
鏡越しに目が合った拍子に、その子の大きな瞳が不思議そうに瞬いた。その眼は、日本人にしては少し明るい茶色だ。
「青い目」
「そうだな。俺の目は青くて、お前のは茶色だ」
「髪も髭も白い」
「そりゃあ歳だからさ。前にもこのやりとりしたよな?」
「そうだっけ」
古い平屋の石垣作りの畳み部屋で、男は、聞き慣れた音が空を走るのを聞いて顔を向けた。
沖縄の空は青い。長閑な空気を震わせる爆音が通り過ぎるまで、男は、その子の小さな耳を両手で塞いで待った。通り過ぎた刹那、思わず母国の言葉で呟くと、その子が不思議そうにこちらを振り返った。
彼は日本語も達者だったが、言語や外国という言葉も理解出来ない年頃の幼子に、どう説明していいのかも分からないでいた。そもそも、説明したところでどうにもならないのでは、という嫌な予感を強く覚えている。
何故かというと、肌の色が黒くなっているせいか、深い顔立ちが多い沖縄に溶け込んでいるのか、この子は全く疑問を抱かないでいるのだ。青い目だから驚かれるかなと身構えていたものの、思っていたような反応はない。
素直過ぎるのか、疑いを持たないのか。
そういう性格は逆に心配になるし、悩ましい部分でもある。
つか、もともと金髪だったんだけどな。まだ真っ白ではないはず、なんだが……あ、そういや近所の婆さんに「真っ白ねぇ」と、ここ数年しつこく言われてたっけな……
「…………」
やべぇ。まだ全部が白髪じゃねぇぞ、と言い切る自信がなくなって来た。
男は、しばし考えたが、言い訳を口にする方が面倒なようにも思えて「白髪でいいか」と開き直った。長ったらしい説明は苦手であり、好きでもない。この子に身元を聞かれたら、それなりに一つずつ教えていこう。
……とはいえ、この子が疑問に思って、気付いてくれれば、の話だが。
「髪を切って」
「ちっ、忘れていなかったか」
散髪は得意だが、しかし、どうしたものか。
その時、どこからかタイミング良く猫の鳴き声が聞こえて来て、男は「よっしゃ!」と目を見開いて立ち上がった。彼はわざとらしく大きな声で「あいつのメシの時間だ」と口にして畳みの上を駆け、縁側に飛び降りて素早くサンダルを履いた。
つまり、考える事が面倒になったので、ひとまず逃げる事にしたのだった。