前
かれこれ4年ほど前に書いたもの。
ちょっと修正して投稿。
「ねえ、おにいさん」
岩の上に腰を下ろし、膝の上に腕を置いてぼんやりと空を眺めていた僕の耳に唐突に飛び込んできたのは、鈴を転がすような少女の声だった。
ハッと振り返った先にいたのは、荒涼とした岩ばかりの大地には不似合いな、たっぷりのレースがあしらわれたドレス姿の少女。二つに分けて頭の高い位置で結われた髪は、蜂蜜のような色をした巻き毛だ。真っ青で大きな目は、今見上げていた空の色よりも濃い。
何で、子どもがこんな所に。
僕の頭の中に浮かんだのは、その疑問だけだ。
「君、どうやってここまで来たんだ?」
僕は落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回す。
ここには今僕が座っていた岩くらいしか身を隠すものが無い。
「ほら、早くこっちに。そこは危ないんだ」
少女を手招きして岩の陰に招き入れようとするが、彼女は呆れたような眼差しを返すだけだ。下りた僕と交代でひょい、と岩の上に飛び乗って、見下ろしてくる。
「危ないって、何が?」
少女は両手を広げて辺りを示す。
「ほら、見てよ。ここには何にもないじゃない」
何もない。
言われて僕は、初めてその事実に気が付いた。
そうだ。何もない。
何故、何もないのだろう。
何故、誰もいないのだろう。
「ねえ、あなたこそ、ここで何をしているの?」
少女は首を傾げると、少し吊り上り気味の猫のような目で僕をジッと見つめてきた。
吸い込まれそうな、その眼差し。
この少女は、本当に『少女』なのだろうか。
どこまでも青い目は、底なしの深淵のようだ。見つめられていると、僕の何もかもが呑み込まれてしまいそうな気がしてくる。
僕はいくつか瞬きをして、彼女の呪縛を振り払った。そうして、胸を張って、誇りを持って、告げる。
「僕は戦う為にここに来てるんだよ。兵士なんだ」
「兵士」
少女が繰り返す。
そこには一片の賞賛も含まれていなくて、僕は少しがっかりした。兵士は国の為に戦うんだ。国の為に――そこに住む人の為に。
兵士であるというだけで、もうすでに英雄に片足を突っ込んでいると思うんだ。まだ何も武勲は立てていないけれど、志は認めてもらってもいいだろう?
僕がまだ小さな小さな子どもだった頃から、兵士は憧れの的だった。
銃を持って、祖国を脅かす『敵』を打ち倒す。
飛び交う銃弾を潜り抜け、間近で襲う爆風をかわし、『敵』を倒す。
――まあ、実際の戦場は、そんな予想とは少し違っていたけれど。
実際の戦争のほとんどは、行軍だった。
重い荷物を背負って、黙々と歩く。いや、喋ってはいたか。黙って歩くだけなんて、とうてい無理だった。
どんなに歩いていたって、『敵』の姿なんて見えやしない。だけど、見えないからと言って、『敵』がいないわけではないんだ。
危険と紙一重の平穏。
冗談やおふざけを交わしながらでなければ、おかしくなってしまう。
そこまで考えて、ふと『そのこと』に思い当たった。
「……皆はどこに行ったんだ?」
「みんな?」
僕の呟きに、少女が目を煌めかせる。
「ああ。僕は――僕たちは夜営していたんだ。あと一日かそこらで、『敵』と遭遇する地点に到達する予定だったんだ」
おかしいな。
夜営して、その後どうしたんだ?
いつもの不味いスープで夕食にして、いつものようにくだらない話で笑い合って。それから僕は、皆から少し離れたところで手紙を書き始めたんだ――遠い祖国にいる、大好きな彼女に宛てて。
で、それからは?
少女の視線が自分に注がれているのを感じながら、僕は焦って記憶を掘り返そうとした。
けれど、どう足掻いても、何が起こって僕が今ここにいるのか、他の皆はどこに行ってしまったのか、全然何も思い出せない。
僕はもう一度辺りを見回した。
この岩は、昨夜も僕が寄りかかっていた岩だ。
けれど、周りにはもっと樹が生い茂っていた。こんなひらけたところで休息するわけがない。
疲れのあまり、いつの間にか眠りに落ちてしまったのだろうか。
では、眠りに就く直前で覚えていることは?
僕の頭にその光景がよみがえる。
それは、まばゆい光だ。
『敵』が放った照明弾だったのだろうか。
急襲された?
だから、皆散り散りになって逃げたのか?
「僕も行かないと」
呟いて、僕は立ち上がる。いつもの重荷は無いから、妙に身体が軽かった。
「行くってどこへ? どこへ行けばいいのか、判っているの?」
歩き出そうとした僕に、それまで静かに佇んでいた少女が問いかけてくる。
そう言えば、無線もない。無線がなければ指示を仰ぐことはできなかった。
せめて方角だけでも見極められれば、と空を見上げたけれど――おかしい。
「太陽は、どこだ?」
空は昼間の色だ。どこまでも突き抜けるような青。
なのに、太陽がない。
振り返って少女を見下ろしたけれど、彼女は小さく肩を竦めただけだった。
ここは、いったいどこなんだ?
そしてふと覚えた違和感。
そうだ、何も音がしない。聞こえるのは、僕と彼女の声だけだ。
他には、風の音も鳥の声も、何一つ聞こえない。
何なんだ、ここは。
混乱と焦燥と――不安。
そんなものが僕の胸にこみあげてきて、吐きそうになる。
きっかけは、あの光なんだ。
あの光が襲うまでは、全ていつもと同じだった。
ああ、くそ。
あの光。
アレは、本当に照明弾だったのか?
もっと、全てが眩かった。
夜空は、昼間よりも明るかった。真っ白だった。
空一面が光で埋め尽くされていた。
そして、ほんの一瞬、瞬きをするかしないかという間だけ肌を焼いた、あの熱。
――違う。
アレは照明弾なんかじゃない。
アレは――
「ああ、そうか……」
唐突に理解した。
「解かったの?」
少女がひらりと岩から飛び降り、僕を見上げる。
「解かったよ」
呟くように返しながら、両手を上げて目の前で広げた。
手のひらは透けていて、その向こうの荒野が目に入る。見下ろせば、身体の全てがそうだった。
きっとあれは、榴弾か何かだったんだ。
榴弾の炸裂――それがあんなふうに光を放ったに違いない。
「僕は――僕らは、死んだんだ」
そう、そのことに気付く間もなく、一瞬で焼き尽くされたのだ。
「僕らは、『敵』に遭う前に一人残らずやられちゃったんだな」
苦笑混じりにそう言った。少女はもう一つの空のようなその大きな目で、僕をジッと見つめている。
「仕方ないよね。でも、新しく送られてくる者が『敵』を倒してくれる。きっと、祖国に勝利をもたらしてくれるさ」
言いながら、愛しい彼女の面影を脳裏に思い浮かべた。
故郷に置いてきた、あの子。
僕は彼女に手紙を書いていたんだ。書きかけのその手紙も、きっと燃えてしまったに違いない。そう思うと、ちょっと悔しい。
この戦争が終わったら、僕と一生一緒にいて欲しい、と、ただそれだけの短い気持ちをどんなふうに文字で表したらいいのかと四苦八苦していたんだ。
ようやく、一番大事なところは書き終えたところだったのにな。
彼女とは幼い頃からずっと一緒で、それが当たり前だと思っていた。
けれど、僕に徴兵の手紙が届いて。
拒否することは、できたんだ。でも、僕は、彼女にいいところを見せたかった。
『隣の家の男の子』ではなくて、『国を護ってきた男』になりたかったんだ。
後悔は無いけれど、最期の時をこんなにも彼女と離れた場所で迎えなければならないということが、少し悔しい。
「ああ……最期に、もう一度だけ彼女の笑顔を見たかったな。でも、きっと、いつか来世で逢えるよね。ねえ、君――」
そう思うだろ?
僕の最期の囁きは、僕自身にも聞こえなかった。