第一話「青年を拾いました」
ルート大陸南東部の小国、ミノシヤにとても賢い女がいると聞き、調査に派遣されたが、今回もまったくついていなかった。
忍び装束と言われるような、黒を基調とした身軽な服装をボロボロにして地に倒れ伏す彼ことライザーは内心大いに毒吐いた。
魔獣と呼ばれる、魔法で生み出された害獣に襲われて主な荷物を失い、最強に分類される魔獣とも戦いこれを破るも体はもう限界だった。
この辺りは老騎士ミーティアとガルトフリートの騎士があらかた駆除してくれてはいるが、一体どこから出てくるのやら。
ふと、彼のぼやけた視界に城が映る。
目的地を前に行き倒れるとは何たる屈辱だろう。
暗くなる視界と重くなっていく体、遠ざかる感覚の中、彼は小さな足音を聞いたような気がした。
――私は、このまま喰われるのだろうか。
* * *
軍服のような作業着を着た男装の女性は、ミノシヤ城の中庭で見事に転んだ。
今日は本当に、まったくついてない! と今しがた転んだシロは涙目で服の泥を叩き落とす。
朝は出勤日と間違えて飛び起き布団に足を取られて転び、ミーティアにじゃれ付けば護身術の良い訓練だとか何とか言われて投げ飛ばされて砂場に落ち、近くにいた兵士には笑われ、兄妹のように育った赤毛のグリフォンには呆れた顔をされた。
そしてつい先程は何も無い所で転んだのだ。
こんな時は外を散歩するに限る、と彼女は城外の散歩を始め、ふと普段は行かない森が目についた。
きらきらと黒曜の目が好奇心に輝き、彼女はそちらに突き進んだ。
森は静かに彼女を受け入れ、案内するかのように見えざる道を示し、シロは笑ってその道を行った。
今日は朝からついていないのだから、これ以上ついていないということはないだろう。
根拠などまるでない考えを腹に、彼女は森が示した道を進み、行き倒れを見つけた。
見たことが無い黒い服に、この辺りでは見ない真紅の髪をした男性が傷つき倒れている。
見るからに怪しく不審だったが、彼女は彼を見捨てることなどできなかった。
それというのも、自分は老騎士ミーティアに拾われなかったら確実に死んでいた。
当時のミーティアには生活の余裕がまるでなかったと後から聞き、自分もミーティアのように困っている人がいたら助けてあげられるような人になりたい。
そのようなささやかな欲もあった。
行き倒れに近づき、呼んで軽く肩を叩いても彼は起きず、脈や呼吸を確認すればちゃんとあった。
これなら大丈夫かな、と彼女は彼を運ぶことにした。
「……軽い? ちょっと危ないかな……」
ミーティアよりも背が高い成人男性にしては軽すぎる。持った感じもごつごつして骨が当たるような感じだ。
医者の手配をした方が良いだろう。
幸い城の雑用で力仕事は少しだができるし、広めの部屋も金銭の余裕もある。
何より、見殺しにしてしまったかもしれないと、後悔だけはしたくなかった。
汗だくになって城に戻り、部屋に帰り彼女はせっせと働いた。
バケツにお湯を用意してタオルを浸し、彼の服を四苦八苦して脱がして体を拭き始めた。
彼の体は無駄が無かった……無さ過ぎた。骨に薄らと肉と皮を貼りつけたようであばらが浮いて見え、無数の痛々しい傷跡があった。中には化膿しかかっているような傷すらある。明らかに人の手によるものだ。
ろくに体の手入れもできない環境だったのだろう、髪は痛んで軋んでいるし、皮膚の状態も良くない。
なんて惨いことを……人を何だと思っているのか。
シロは歯を食いしばり、黙って彼の体を拭き、彼を横向きにして息を呑んだ。
背には新旧入り混じったムチの痕と、奴隷の焼印、脇腹には何かに蹴られたような酷い痣があった。
そっとタオルでなでるように拭くと、染みるのか微かに彼が呻く。
どこかから逃げて来たのか、仕事でこっちに来たのか……仕事だとしたら捨て駒扱いだろう。
「ごめんなさい、もう少し耐えて。すぐに薬を塗りますから」
見る間に色を変えるバケツのお湯を一度捨て、彼女は作業を続けて冷蔵庫に入れておいた薬をそっと塗ってやる。
気休めだが、傷がほんの少しでも楽になればいいと思う。
最後に、まだ直していなかったミーティアからのお下がりの浴衣を着せてやり、布団をかけて彼の服を洗濯して干す。戻る頃には医者も来ているだろう。
今日は天気も良いし、風もあるからすぐに乾きそうだ。
「きちんと傷の手当てもされていますし大丈夫でしょう。ご飯は消化に良いものを出してあげてください。重湯に近いお粥とか、茹でた大根とか。徐々に慣らしていきましょう」
「お肉やお魚は?」
「脂肪の少ないものにしてあげてください。鶏のささみなんかもいいんですが、様子を見てあげてください。そうですね……多めに用意しておいて、残しても大丈夫、無理をせず食べられるだけでいいよという一言があるだけで大分違うかと。あと、薬を出しておきますので確実に飲ませてください」
「ありがとうございます」
ふと、ガルトフリートの派出所から来てくれた医者の顔つきが変わった。
「彼の境遇は間違いなく奴隷条約に反していますので、この事は本国に報告します。申し訳ありませんが、しばらく彼の事をお願いします」
「わかりました。本人が望む限り全力で匿います」
医者を見送り台所に行きお粥を作り、鶏のささみを塩茹でにしてお湯から引き揚げて少し味見をする。薄味だが、病人に近い人が食べるのならこのくらいが良いのかもしれない。
この辺りは暑いから汗を大量にかいたかもしれないし、酢の物も欲しいかもしれない。調味料を用意して、味付けは彼の好みに任せよう。
台所から顔を覗かせて彼の様子を見れば、ぼんやりとした様子で目を開けたところだった。
だが、ここは不用意に近寄らず、物陰で物音を立ててやる。
でなければ相手が兵士の場合、感覚が戦場にいるままで、敵と間違えられてボコボコにされてしまうと、ミーティアがやけに遠い目をして教えてくれた。
きっとボコボコにされたのだろう。
「入りますよ」
言ってそっと顔を覗かせると、彼は明らかに警戒していた。
「ここは?」
硬い声だが、彼女は暴れられないだけマシと気にせず答えた。
「ミノシヤ王国のお城です。あ、私はシロといいまして、ここで雑用やその他色々やっています。差し支えなければあなたのお名前を頂戴したいのですが」
彼女が問うと、彼は短くライザーと答えた。
「ありがとうございます。お粥ができていますが、食べられそうですか?」
答えようと彼が口を開くとほぼ同時に、くう、と彼の腹が鳴り、彼女の耳にも届いた。
彼の顔が赤くなり、目が逸らされる。
「すぐにお持ちしますね」
程良く温かいお粥を泣きながら食べる姿に、彼女は鶏のささみや茹でた大根を出してやった。
「たくさんあるので、遠慮しないでください。あ、無理せず食べられるだけで良いですからね。ご飯は逃げませんから」
「……ありがとう」
十分に食べた彼にお茶と薬を出し、彼女は洗濯物の回収に向かった。
物干し場のそよ風に揺れる服に触れるときちんと乾いており、今日は良い日だと気を良くする。
「シロ」
声をかけられ振り向くと、そこには青い服に身を包んだミーティアがいた。
黒髪が戦争などの影響でほとんど白髪になってしまったらしく灰色にも見えるが、金色の目は太陽のように力強く輝いている。
とてもじゃないが年を取っているようには見えない。むしろ若返っているとしか思えない。
「ミーティア、どうしたの?」
「行き倒れを拾ったと聞いたのだが」
「うん、男の人を拾ったよ」
ちら、とミーティアはシロが回収している洗濯物を見てわずかに恒星の目を眇めた。
「シロ、怪我はしなかったか?」
「え? ……いたっ」
手を引けば血が流れ、服を見ると黒い刃がちらりと覗いていた。
「暗器だな。貸しなさい」
ミーティアはシロから洗濯物を受け取ると服を調べ、仕込まれていた武器を次から次へと外していった。
「よくもまあこれだけ仕込んだが……シロ、気づかなかったのか?」
「見たことなかったから、そういう物なのかと」
「そうか……これで大丈夫だ。そっちも見せなさい」
傷をミーティアに見せつつ、シロは小声で言った。
「機密保持のため、しばらく内職はできません」
「ああ、だが気にするな。がんばってくれたおかげで余裕はある」
傷が縛られ、彼女は呻いた。
「そう泣きそうな顔をするな。そら、部屋で待っているのだろう?」
シロの部屋の前で、暗器を手にしたミーティアは足を止めた。
「どうしたの?」
「いや、私が行っては驚かせてしまうかもしれない。先に行ってくれ」
そっか、と彼女は深く考えず中に入った。
「ただいま……どうしたんですか?」
「あ……すまない、割ってしまった」
落としたかして割ってしまったコップの欠片を集めたのは良いが、どこに捨てて良いのかわからなかったのだろう。
欠片を缶に入れてもらい、彼女は穏やかに笑って言った。
「怪我がなくて良かった、コップは安物なので気にしないでください」
「だが……」
「うーん……では、我が国の経済に貢献したと思ってください。あ、服が乾きましたので繕っておきますね」
きょとん、と青い目が丸くなり、己の体を見て、服に視線が行き、顔が段々と赤くなっていく。
「ひ……ひとつ聞きたいのだが、あなたが私を拾い、介抱してくれたのか?」
「はい。あ、体を拭きましたが、気持ち悪い所があったら言ってください。お風呂やトイレにご案内します」
彼の視線が泳ぎ、やがて手が腰の辺りを触り、彼ははっとしたように言った。
「ま、まさか……その、見たのか?」
「何を……ああ、男性器ですか? はい、見ました。その、不衛生なのもどうかと思って……男性の急所なので、できる限り優しく丁寧に拭きましたが……どうしました? まさか傷でも……」
「い、いや、そうじゃない! 風呂に……行きたいのだが……」
「はい、こちらへどうぞ」
彼女は首まで真っ赤になっている彼を連れて備え付けの風呂に連れて行き、タオルを渡した。
「どうぞ、のぼせないようにお気をつけください」
「すまない」
しばらくして、伝え忘れていたことがあったため彼女は曇りガラスの戸を軽く叩いた。
「すみません、中のシャンプーや石鹸などは好きに使ってください」
中からは何やら慌てたような気配と、滑って転ぶ音がした。
「大丈夫ですか!? ライザーさん!」
返事はなく、彼女は濡れるのも構わず戸を開けると赤毛の頭を抱えて蹲る彼に近づいた。
「大丈夫ですか? 吐き気や物がぶれて見えたりなどはありませんか?」
「だ、大丈夫……あ……」
シロはこの時まったく気づいていなかった。
上着や軽鎧もなく、白を基調とした彼女のシャツは濡れて透け、体に張りついてその肢体の豊かさを強調していた。
普段はあまりわからない、豊かな胸にくびれた腰がこの時ばかりははっきりとわかり、濡れた布越しに惜しみなく曝されている。
見る間にライザーの首どころか全身が赤くなり、彼の鼻から血が流れ、くたりと倒れてしまった。
「え? ライザーさん! どうしよう……あ、お、お父さん!」
ミーティアは難しい顔で気絶している男を睨むようにして見ていた。
久しく耳にしていなかった呼び方に何事かと飛び込めば、鼻血を流して倒れている裸の男に、ずぶ濡れで半分泣いている大切な娘。疑うなという方が無理というものだろう。
一先ずシャワーを止めさせ、シロに着替えるように言って着替えとタオルを渡し、その間に男の世話を焼き、今に至る。
奴の物を見た時は、よくも娘にこのような物を見せてくれたなと腸が煮えくり返ったが、娘が拾ってきた者だとむしり取りたくなるのを何とか堪えた。
鼻血と失神に関しては打ちつけたりしたような痕跡はないため、血圧ではないかと疑っている。
おそらくシロの体でも見たのだろう。
自分との鬼ごっこを始めとするじゃれ合いでそこらの娘より運動しているし、護身術も教えているから体は健康的に引き締まっている。出ている所は出て、引っ込むべき所は引っ込み、女性としては魅力的な体と言えよう。
そこを理解したのは褒めてやる。あの分では女慣れはしていなさそうだし、手を出さないのも褒めてやる。
だが、それとこれとは別だ。
大切な娘に手傷を負わせ、心配をかけさせ、己の手まで煩わせた。
ライザーを射殺せんばかりの眼光にシロは苦笑して言った。
「ミーティア、そんなに睨まなくても」
「むう……」
「仕事に戻らなくて大丈夫?」
彼は嫌な事を思い出したような顔をした。
「……行って来る」
「行ってらっしゃい。ありがとね」
「ああ、気をつけて。何かあったらすぐに呼びなさい」
「うん」
ミーティアを見送り、彼女は夕食の準備や縫い物をしながらライザーが起きるのを待った。
そして夕方、彼はようやく目を覚まし、シロの顔を見てとても気まずそうに目を逸らした。
「えっと、お風呂でのことですが……」
ギクッ、と彼の肩が跳ねた。
「ライザーさんのお世話は、私の父がやりました。なのでその……今度は、見ていませんよ」
彼は泣きそうな気配すら漂わせ、小さくすまない、とだけ呟くように言った。
「それと、今後のことなのですが、ライザーさんはこれからどうするつもりですか?」
「どう?」
「このままこの国に留まるのか、装備を整えて旅を続けるのか」
あどけない子供のように見上げるライザーの目が揺れ、伏せられた。
「しばらく、この国に留まろうと思う。すまないが、少しの間ここに置いてもらえないか。その間は好きに使ってくれ」
シロはこれにうなずき、二人の同居生活が始まった。
「それでは、ライザーさんの服を買ってこないと」
「服?」
「ええ、一着しか無いなんて不便でしょう」
今はミーティアのお下がりを着ているが、体格が違い、丈が少し足りないのだ。
シロは一度村に出て服を買い、ライザーに着せると村へと連れ出した。
「シロ、私に持ち合わせは……」
「働いて返してくれればいいですよ。ほら、何をするにしろ先立つ物は必要でしょ? まずは服や靴、食料を調達しないと。先行投資でそのくらいは出すわ。んー……髪も整えないといけないから、床屋さんにも行かないと」
瞬く間に連れ回され、彼は物を抱えてシロの住居へと戻っていた。
「空き部屋を片付けたから、ライザーはこっちを使って。足りない物があったら遠慮せずに言ってね」
「あ……ありがとう……」
* * *
そうして、一月も過ぎたある日、シロはじっとライザーの顔を見て首を傾げた。
「顔に何かついているか?」
「目と鼻と口」
真顔で言い、彼女は彼の額と首に手をやり、顔をしかめた。
「ライザー、今日はもうお仕事無し。部屋に戻ってお水を飲んで温かくして寝ること」
「いや、まだ動け……」
「ダメ! かなりの熱があるじゃない。ちゃんと寝て休みなさい」
シロに手を引かれ、振り解こうとして、まるで力が入らない己の体に彼は驚いた。
部屋に着くなり服を剥がれて寝巻に着替えさせられ、布団に放り込まれ、氷枕と額に乗せられた氷嚢のあまりの心地良さにどっと眠気と寒気が襲って来る。
「お医者さんを呼んでくるから、ちゃんと温かくして寝ててね」
こく、とうなずくとすぐに彼女は部屋から出て行った。
何やら変な夢を見たような気もするが、眠っている間に終わっていたのか、枕元には薬と吸い飲みが置かれていた。
早く動けるようにならないと。
焦りはするが寒気は治まってくれず、静けさも不気味に感じ、不安を煽った。
隣の部屋にいたシロは微かな声に顔を上げ、ライザーの部屋に入った。
「ライザー、どうし……ダメだよ、ちゃんと布団に入って寝て……」
布団から這うようにして抜け出し、床に行き倒れていた彼を抱き起せば彼は抵抗するように身じろぎした。
「い……いや、だ……死にたくない……」
熱に浮かされガタガタと震えて言う彼の氷枕と氷嚢を換え、水を飲ませてやると少し落ち着いたようだった。
本当に、前の職場では酷い扱いだったのだろう。
手を握り、労わるように頭をなで、静かに言う。
「大丈夫だよ。ちゃんとお薬も、衣服も、食べ物もあるから。ゆっくり休んで元気になって、釣りにでも行こう……ね?」
シロの脳裏に医者との会話が思い出される。
『……彼、大丈夫ですか?』
『かなり弱っているけど大丈夫。気になるのは不調を隠そうとしていたという事だよ。シロちゃん、ちょっと彼が着ていたという衣服を見せてくれるかい? 他にも不調を隠しているかもしれない』
シロが衣服を見せると、医者は一通り服を調べ、次いで眠っている彼を調べてうなずいた。
『良かった、内臓に傷は無いみたいだね。あと間違いない、これはヒノモトの特殊工作員が着る服だよ。洗濯されて修理されちゃっているけど、ここに仕込まれていた対人用の暗器が一度歪んだ跡があるから、具合からいって人間に蹴られたみたいだね。彼は捨て駒にされたわけだ』
『……酷い……』
『でも、現実だよ。捨てる神あれば拾う神ありと言うから、もらっちゃいなさい。たぶん、この人は賢くて義理堅い、優しい良い子だよ。私はこの事を再度ガルトフリートの本部に報告しておくよ』
『よろしくお願いします』
良いんだ、と医者は笑った。
『私も奴隷上がりでね、こういう事をする連中を見ると、足元をすくってやりたくなるんだ』
医者は思い出したように付け加えた。
『奴隷に限らず傷や不調を隠そうとする人は、服も見なくちゃダメだよ。打撲でも、場合によっては内臓に傷ができて手遅れになることもあるからね』
シロはライザーの体を拭いてやりながら思う。
せっかくある程度肉がついて来たのに、また痩せてしまった。
元気になったら、体を作るためのご飯を作って出して、ボロボロになっている肌に美容液などを塗って綺麗にしてやろう。
温かいお湯を含ませたタオルで拭かれると気持ちがいいのか、苦しそうだった彼の表情も少し緩む。
「しろ?」
「何?」
喉が渇いているのか、満足に声を出せない様子で水かと思い吸い飲みを手に取ると、違うと首が振られた。
「ありが、とう」
「どういたしまして」
* * *
シロの仕事の数々を手伝い、見つつ彼は思った。
先程から彼女がやっているのは雑用ではなく、政治家の仕事だ。
予算を割り振ったり政策について考えたりと、とてもじゃないが雑用には見えない。
認可不認可を先に分け、判を印刷機かというような速度で捺していくのを始めて見た時、彼は目を丸くしていた。
彼女の能力が高いのは認める。
だが、目の前で父親の老騎士ミーティアを捕獲すべく奮闘している彼女が、自分の調査対象とは思いたくなかった。
動機を聞いてみれば……。
カッとなってやった。後悔も反省もしていない。
今後もやめるつもりはない、と無駄に力強く断言して草むしりに励む彼女が賢いとは、天地がひっくり返っても認めたくはなかった。
「なぜ、草むしりを?」
「草をむしって、ちょっと耕しておけばそこに罠があると思わせることができるかもしれないでしょ?」
「無理だと思うが……むう……」
大丈夫だって、と彼女はミーティアを探し始め、気配を消して背後を取った。
その技術や執念を別の事に使えばいいのに、と彼は思う。
あともう少し、という所でミーティアはさりげなく歩調を変え、シロの手を躱す――気づかれた。
彼女が番竜のように飛びかかればひらりと避け、彼は楽しげににやりと笑う――遊んでいる。
「どうした?」
これで終わりか? と言う彼を彼女は躍起になって追い、ようやっとあの草むしり地帯へと追い込んだ……のだが……。
「あ、シロ! 草むしりありがとうね!」
花の苗を手にした使用人たちが花畑を作っている最中で、膝に手を当てて息を切らしている彼女はがっくりとその場に膝をついた。
ミーティアは社会に貢献したな、と愉快そうに笑ってその横を去って行く。
「偽落とし穴大作戦が……」
「大失敗だな。社会貢献できていいんじゃないか?」
「それ、何か違う」
夜になり、そろそろ報告書を書かねばならないが……このまま逃げ切ることはできないものか。
見張られている気配もないし、大丈夫なのではないかと思うが、どこに刺客が潜んでいるかもわからない。下手をすれば自分を消すために刺客が送り込まれ、シロやミーティアたちに危害を加える恐れもある。
彼は嫌々ながらもペンを手にした。
報告書に罵詈雑言と捨て台詞を書けて、向こうに放火できたらどれだけ気分が良い事か。
西の空へと飛んで行く伝書飛竜をミーティアは冷めた目で追っていた。
「あれはヒノモトの伝書飛竜だな。哀れな、教えてやらないのか?」
そのヒノモトはつい先日に魔獣の発生源とされてしまい、国と住民からの依頼を受けたガルトフリート王国軍によって歴史の幕を閉じた。
「己の目で見るまでは信じられないだろう。たとえ、あなた方がその旗と神に誓ったとしても」
「……だな。依頼されていた魔獣の発生に関する調査だが、こっちの上の方から正式に調査命令が来た。そちらからの料金は不要になった」
「そうか。だが、顔を合わせた際はご馳走する」
「期待している。……死ぬなよ、オレの飯のために」
じゃあな、と軽い調子で消えた長身の男の足音は無かった。
実は、今まで自分は己の影と会話していたのではないかと思ってしまいそうな気配の消し方にミーティアは実力の違いを改めて痛感した。
未だ影を踏むこともかなわず、と。
* * *
うららかな昼下がり、シロは書類を見て手を止めた。
「どうした?」
珍しいこともあるものだとライザーが読んでいた本から顔を上げる。
「んーとね、城下の村に工場を作って、消費と生産を拡大して村を豊かにしましょう、というのが上がってきたんだ」
「村の人口が増えなければ総合的な消費や税収は増えないのでは?」
「だと思う。再生産に繋がらなければ意味はないし……問題は環境ね。環境対策ができていないんだ。公害に対する保障も何もない」
「では……」
「当然、却下よ。観光業も主要な産業だもの」
たん、と音を立てて判が捺され、別の紙にはその理由と実行した場合のペナルティが書かれクリップで留められた。
実行した時は、実行に関係した各部門からそれを最終的に許可した王室の予算までを削り、公害被害に対しての費用に充てるという。
しかし、その数日後のこと。
工場が建設されつつある村を見下ろし、彼女は乾いた笑みを浮かべる。
「爺さんの耳は遠いね。ライザー、お金出すから、ちょっと手伝ってほしいの」
「何だ?」
「この近辺の植物の根っこや種、採取してきて。ついでに、木の高さや太さも調べてほしいの」
「なるほど、壊される前の自然を知り保存するのだな」
「ええ。今の私の権限で動かせるだけの兵も動かすわ」
ライザーはうなずき、すぐに動き出した。
シロも隻眼の兵士長、シラーを呼ぶと空き部屋の改修工事と自然調査を命じ、自身はガルトフリートへの依頼と集まってくる植物のリスト作成に追われることとなった。
しばらくして、自然がゆっくりと壊れ始めた。
大気が濁り始め、シロは実験のために外に干していた布に付着した煤と臭いに青筋を立てた。これが本番なら洗い直したいくらいだ。
幸いにも井戸は城内にあるため汚染はまだないが、地下水が心配だ。
一方、ミノシヤ王国の王女、リチアは人々に自然の重要性を説いたが、ごく少数の知識人にしか理解されず、仲が良かった兄のヘリオからも白い眼で見られてしまっていた。
頭を悩ませた彼女は護身術の師でもあるミーティアを頼った。
「リチア……どうした?」
彼女は村の様子を事細かに話し、ミーティアの眉間に谷ができた。
「ミーティア、あなたならどうにかできないの?」
ミーティアは窓越しに濁った空気の中にある村を見た。
普段は温かい恒星の目も凍えている。
「学の無い愚者は歴史ではなく経験に学ぶ。痛い目を見なければわかるまい。少なくとも、学のあるはずのヘリオは知らなかったでは済まされない」
「お父様の方は?」
「ギボウシ殿と共に静観しておられる」
表向きは、と彼は声に出さず思うに留める。
権限と財布を与えられたシロはライザーと自分と兵士たちをこれでもかとこき使い、破壊される前の自然をできるだけ保存した……となると、これは王女と王子を含む官僚たちに対しての試練だ。
そのリチアは肩を落とし、それなら、と最近姿を見せなかったシロの所へと足を向けた。
「シロ、あなたの方から働きかけることはできないの? このままだと自然が完全に失われるわ」
シロはライザーの体を揉み解しながら冷笑して言った。
「とっくの昔にやれることはやったわ。今回の私の教訓は、おバカは一度痛い目を見んとわからんということよ」
ぐいぐいと揉まれるライザーは涙目で呻いている。
「ライザー、終わったら肩揉んでね」
「うむ……ぐうっ……もう少し優しく……」
「これでもあまり力を入れてないよ。さすった方が良さそうだね」
「そうしてくれ」
シロはさすり始め、ライザーは気持ち良さそうに青い目を閉じた。
「シロ、あなたが手を尽したことはわかったわ」
シロは低い声で言った。
「王族の声が無視されたことも、ヘリオがまともに勉強していないことも、一応宰相の権限を持っていた私の文書が握り潰されるということもわかったわ」
あんのカス共が。ハゲろ、もげろ。
吐き捨てる彼女にリチアは続けた。
「シロ、お願い聞いて。それでも私はこの国を守りたいの。そりゃ、おバカな人もいるわ。でも、黙って耐えている自然をこのままにして良いはずもないし、わかってくれている人もいる。お願い、シロ!」
シロはそこでようやく手を止め、がしがしと短い黒髪をかき混ぜた。
「リチア、あなたは王族よ? 臣下にはやれと一言言えばいいのよ。御命令を」
わざとらしく臣下の礼をとり命令を待つ彼女にリチアは苦笑した。
「そうね、最初から近くにいる人に相談して、命令すれば良かったわ。シロ、あなたの全力をもって私の自然を保護回復するための行動を助け、必要と思われることを実行なさい」
「拝命仕ります」
さて、と彼女はいつもの調子で立ち上がると机からファイルを出した。
「ライザーも見て」
「良いのか?」
「うん。見てもらわないと困るの」
ライザーは見て言った。
「見取り図と設計図に見えるが」
「ええ。これから工場は倒壊します」
「ちょっとシロ、やりすぎじゃ……」
ライザーは自分で背中をさすりながら、眠そうに口を開いた。
「あの工場は元々欠陥がありボルト一本忘れただけで崩れる可能性がある。そこにあの二十四時間のフル稼働だ。ガルトフリートの知人に手紙を出したら『悪徳企業の不良建築だ、絶対に近寄るな』と返って来た」
「それじゃあ、中の工員を逃がさないと。あと、化学物質もどうにかしないとイルミネみたいになっちゃう」
青褪めるリチアの横でシロがうなずき、言った。
「それに関してはもう手を打ったよ。ガルトフリートに依頼した。ここはガルトフリートの人たちがよく遊びに来るし、魚介類や塩の重要な調達先だから他人事ではないと速かったよ。でも、かなり耳が痛い苦情を言われたよ」
ガルトフリートは確実かつ精度の高い遂行能力とそれに見合った料金で知られており、おまけしてくれるかは依頼を受けた本人の気分次第だ。
「でもまあ、ちょっと安くしてくれるって」
「何をどうやったら値切れるのよ……そんなことより、どうやって避難させるの? まともには無理よ」
シロはうなずいてライザーを見た。
公文書での要請や警告はしつこいと直接言われる程に何度もやった。もちろん口頭でもだ。こうなると強硬手段しかない。
「ライザー」
「中で発煙筒でも焚くのか? それとも火災報知器の押し逃げか?」
「スプリンクラーの接続を切って、火災報知器で。あとは中で癇癪玉でも鳴らせば良いんじゃないかな。方法はお任せするよ」
わかった、と彼は立ち上がり、筋肉痛に呻いた。
「戻ってきたらなでてあげる」
「頼む。行ってくる」
行ってらっしゃい、と見送り、シロはリチアを連れて改修した部屋へと案内した。
「シロ、どこへ行くの?」
「リチアの職場」
シロが部屋の扉を開けると、そこには温室があり、ガルトフリートの研究者たちが働いていた。
「シロ、これって……」
「壊される前の自然。ミーティアやライザー、兵隊さんたちががんばってくれたの。リチアの仕事は、彼らの仕事と努力を知り、これから動きやすくすること」
「わかったわ。絶対にやってやるわ! シロはどうするの?」
シロはにやりと悪い笑みを浮かべた。
こんな顔をすると、ミーティアか何か企んでいる時の顔とそっくりで、本当は血が繋がっているんじゃないかと彼女は密かに疑っている。
「もちろんお仕事。耳の遠いご老人方から罰金を徴収しないと」
彼女が罰金を徴収すべく廊下を歩いていると、工場が瓦解するのが遠目に見え、彼女は口の端を釣り上げた。
もうすぐ台風シーズンが来る……これで洗濯物が外に干せるだろう。
帰って来たライザーを揉んでいると、ミーティアがそっと気配を殺して近寄り、口の前に人差し指を立てた。
意図を理解したシロは笑い、そっと手を浮かすと、そこに彼の手が滑り込み彼女と交代した。
「む? 何か違うような……いだだっ!」
何事かと慌てて背を見れば、シロが肩を揺らし、ミーティアが彼女に代わり揉んでいた。
「お父さん良かったね、ライザーすごく喜んでいるよ」
「喜んでなど……」
「もっと己に素直になったらどうだ? ほれ」
ライザーは口をぱくぱくさせ、シーツを握り締めた。
その反応に気を良くしたミーティアは実に楽しげに手を動かす。
「く、う……覚えておくからな……」
「最近は私でも娘に滅多に揉んでもらえんのに、おまえは揉んでもらえているのが妬ましくてな。ふう……うむ、実に楽しかったし、良い運動になった。またな」
「もう来るな!」
涙目のライザーでひとしきり遊んだミーティアは森に足を向けた。
「ミーティア、悪い報せだ」
「魔獣が交尾して繁殖でも始めましたか?」
「よくわかったな、その通りだ」
ミーティアは苦い顔をした。
この辺りにやって来た魔獣は今までは自分で対処できていたが、これからはそうはいかなくなるということだ。
長身の男も同じ顔をしていた。
魔獣は味が悪く、悪食の一族でも嫌がるため食物連鎖には入らないのだ。死体を放置すれば疫病の元になり、厄介極まりない。
それに、元が元なだけに食用にするにはかなりの抵抗がある。
「あなたの主人は何と?」
男は遠い目で答えた。
「かなりお怒りだ。首謀者を見つけ次第首を残してぶち壊せときている」
きゅるるぅ、とどこからか小さな飛竜の鳴き声が聞こえた。
「今の鳴き声は?」
「オレのご主人サマ。真っ白でかわいいだろ」
ミーティアは眼前に出された白い飛竜に恒星の目を丸くした。
初めて会った時からよくできた襟巻だと思っていたが、まさか本物だったとは。
大きさからしてまだほんの子供のようだが、彼の主人とはどういう事だろう。飛竜やグリフォンの知能が高いことは認めるが……。
などと考えていると、飛竜は緑の目をぱちりと瞬き、にまりと人間臭く笑った気がした。
「まさか、冬の神エルジア様?」
「きゅう!」
正解! とばかりにぽん、と軽い音を立てて白い、シルリアの花が小さな前足に握られ差し出された。
「あ……ありがとう」
呆気にとられつつ受け取ると、長身の男は笑って言った。
「良かったな、気に入られたみたいだぞ」
「それは良かった。……魔道王国マガルトについてだが、空中を移動しているんじゃないかという噂が流れている」
「調べてみる。じゃあ、またな」
飛び去る漆黒の飛竜を見送り、ふと彼は手の中の花を見た。よく見れば根があり、植えれば長生きしてくれるかもしれない。
花姿も綺麗だし香りも良い。このまま枯らしてしまうのはかわいそうだ。
思った彼は帰り支度をしている技術者たちに育て方を聞いてみた。
「……とまあ、こんなものです。それにしても、どこで手に入れたんですか? この辺りには生えないはずなんですが」
「アドラム殿が襟巻にしている、白くて小さい飛竜からいただいた」
ピシッ、と音を立てて空気が凍ったような気がした。
「その花、大切にしろよ」
「強く生きろ」
「大丈夫、死に物狂いでがんばれば良いことがあるから……たぶん」
顔に大きな傷がある技術者は言った。
「生きているっていうのは素晴らしいことだ……そうだろ?」
やけに優しく、不穏なことを言う技術者たちにミーティアは段々不安になってきた。
「ちょっと待ってくれ、ガルトフリートではこの花にどのような意味があるんだ?」
技術者の一人がにっこり笑って答えた。
「通常は『祝福、栄光』ですが、飛竜からもらった場合は『神々の試練、寵愛』です。がんばってください」
ちなみに、グリフォンからもらった場合は『憐み、保護』弱すぎてかわいそうだから卵みたいに守ってやるという意味だそうだ。
翌日、シロは部屋に見覚えのない花が置かれているのに気がついた。
「ライザー、これライザーの?」
「いや、ミーティア殿が置いていった。世話を頼む、枯らすことのないようにしてくれと言っていた。育て方のノートもあるぞ」
ミーティアがそこまでするのだから、余程大切な花なのだろう。
とりあえず、と彼女はノートを開き読み始めた。