86話:決着
「あああああーっっ!!」
リリの身体がびくんと大きく震え、大気を切り裂くかのような叫び声をあげた。
「な、なんだ……?」
僕はリリの突然の異変に、中距離を保ったまま驚いていた。
甲高い叫びを上げるリリの身体が、宙に浮かぶ。
そのまま彼女は、全身で荘厳な光を放ち始めた。
それはまるで、天使に似た神聖さだ。
極光をきらめかせるリリの周囲の空気が、ピシリ、ピシリ、とひび割れていく。
「あれは……なんなんだ……?」
「リリ様は、一体何をなさるおつもりなんだ」
驚きにくれるのは僕だけではなく、リリの部下のウェルリア軍兵士たちも同様だった。
「リリっ……!? どうしたの、大丈夫!?」
騎士甲冑を着たリリの友達の子ですら、リリの異常に動揺している。
「うわああああーっ!」
まばゆい極光の中、リリは苦しむように、叫び声を上げている。
明らかに、異様な事態である。
戦場の全員が、リリの変貌に目を奪われている。
僕はリリの友達の、騎士団の女の子に駆け寄って尋ねた。
「きみっ! リリのこれは、なんらかの魔法なのか!?」
「あ……、ううん。あたし、リリのこんな魔法知らない」
あとで尋ねたところ、彼女はベアトリーチェと言うらしい。
ベアトリーチェは、深刻な表情で首を横に振った。
「じゃあ……リリは何をしようとしているんだ」
「あたしにもわかんないよ。でも、このままじゃ、すごくマズイ予感がする」
「それは同感だ」
「ああああああーっっ!!」
きらめく光の中心で、リリは苦痛の叫び声を上げつづける。
僕はベアトリーチェから離れ、極光を放つリリに駆け寄った。
「あつっ……!」
リリの周囲は、ひどく高熱を発していた。
それでも、苦悶の叫び声を上げながら大気をひび割れさせていくリリに、僕は近寄る。
「リリっ! 大丈夫か、リリ!?」
「負けたくないっ……! 嫌なの! ルークに、こんな程度なんだって、思われたくない!」
「思ってないぞ! きみはよく戦った。尊敬するよ、リリ!」
「やだ! やだやだやだ!! ルーク! どうして私のことを見捨てたの!?」
僕の言葉は彼女に届いていないようだった。
リリは溢れんばかりの光の中で、稚児のように駄々をこねる。
「私を置いていかないで、ルーク! もう寂しいのはいや。
これ以上、私は何を頑張ればいいの!? いやだよ、私を捨てないでルーク!!」
「リリ! 聞け! 僕はきみのことを捨てたりなんかしてない。
ここにいるだろ!」
「いやああああーっ!」
悲鳴を上げながら、リリの周囲の時空が歪んでいく。
「これは……まさか、時間を超える魔法……?」
果てしなく、嫌な予感のする魔法だった。
リリが近い将来、タイムリープの魔法を使えることはもう確定している。
だが、時間を飛び越えるなんていう、魔法を超えた魔法が。
今の激情に荒れ狂ったリリに、本当に制御が可能なのだろうか。
もし、時空の中でリリが迷子になってしまえば、もう二度と彼女はこの世界に帰ってこれなくなるのではないか。
僕は、極光の中で苦しむリリを、ただ見ていることしかできなかった。
その時、森林道の戦場に、高い声が響いた。
「それは時空跳躍によるスキルの暴走よ!
リリを抱きしめてあげて! あなたの肌のぬくもりなら、きっとリリは帰ってこれる!」
聞き慣れた、凛、と鳴るような声。
その声が、誰によるものなのか、僕はもう振り向かずとも知っている。
ありがとう。未来からやってきた、僕の最愛の人よ。
僕は、高温を放つ極光に構まいもせず、リリの側に寄って彼女をぎゅっと抱きしめた。
「やだやだやだ! もうやだよルーク! 私もうこれ以上は頑張れない!
私のこと、ダメな子って思わないで! 情けないとか、失望したって思ったりしないで!
私だって、一生懸命やってきたの、今まで!」
「大丈夫。大丈夫だ、リリ!
僕はここにいる。そんなこと思ってない!
もう離れたりなんかしない! リリ、僕を見ろ!」
地団駄を踏むリリを抱きしめたまま、僕は彼女の唇に口づけを交わした。
それまで焦点の合わない眼で、空想のなにかに怯えていたリリが、ハッと目を見開いた。
「るーく……?」
「そう、僕だ、リリ! 僕のことが分かるな!?」
「わかる……。私、なにをして……?
あうっ……!」
リリは苦痛を感じたように、表情を歪めた。
「キャパシティを超えるスキルを使ったことによる暴走だ。
リリ、気を確かに持て! 僕のもとに帰ってこい!」
そうして、僕はもう一度彼女の唇に口づけを交わした。
極限の状態のさなかなのに、リリの目が一度大きく見開かれ、それから恋の色にとろんと蕩けた。
「あ……、ルーク……」
「そう。僕だ、リリ。大丈夫、ゆっくりスキルを停止させて。
焦らなくていい、できるね?」
「うん……」
リリは少しずつ、時空跳躍スキルに込める魔力を減らしていく。
それに伴って、閃光のような極光が漸減していき、リリの周囲の大気を焦がす高温も下がっていった。
宙に浮いていたリリが浮力を失い、地面に落ちる寸前に僕が水神の盾を使って、クッションを張った。
ゆっくりとリリを地上に降ろし、リリの平静が戻るまで僕は彼女を抱きしめていた。
◇ ◆
しばらく、全員が見守る中で、僕とリリは抱き合っていた。
離れて、孤独を感じてきた時間を埋めるように、僕らはただ肌を重ね合わせていた。
やがて、リリが顔をあげる。
「ルーク……」
「うん。どうした?」
「私……私っ……!」
彼女の眦からは、いつしか透明色の雫がこぼれ落ちていた。
「寂しかった……」
その言葉は、美しい聖女が抱えてきた、心の孤独だった。
慟哭に似たリリの言葉を、僕は静かな表情で傾聴していた。
「頑張ったの。ここまで、すごく、頑張ってきた。
身寄りのない子どもがいたら手を差し伸べて回って、魔物に襲われてる人を助けた。
王都で苦しい生活をしている人がいれば、自分のパンを分け与えたりもした。
頑張ってきた。ずっと頑張ってきたのに、私を褒めてくれる人が、この国には誰もいなかった……!」
リリの言葉は、僕の心を灼くかのようだった。
「頑張ったね、リリ。あなたはよくやってるよ。――そう言ってもらえるだけで良かったのに。
そんなこと、誰も言ってくれなかった!
励ましてほしかった! 褒めてほしかった!」
黄金の聖女が、顔を上げる。
平時は可愛いその顔が、涙にまみれて、きらきらと光を反射していた。
それは、少女が心で叫ぶ、悲哀の祈りだった。
「ルークに私という存在を、認めてもらいたかった。
どこかで、あなたが私のことを見ていてくれるかもしれないと思ったから。
その一心で、私はここまで頑張ってきたの!」
聖女の涙が虚空に散る。
「でも……。私……もう……頑張れないよぉ……ルークぅ……。
もういやだぁ……ウェルリア王国にひとりぼっちでいるの、つらいよ、ルーク……」
滂沱の涙を流す彼女の肩を、僕はそっと抱いた。
「うん……うん、そうだね。
リリはとても頑張り屋さんだからね。
きっと僕と別れてからウェルリア王国で、とてつもない大変な事を乗り越えてきたんだなって、
僕は分かってるよ」
「ルーク……ルークぅ……。寂しかった……、あなたがいなくて寂しかった!」
「大丈夫。僕はここにいる。もうどこにも行かないよ。だから泣かないで、リリ」
泣きじゃくるリリを前に、僕はずっと言おうと思っていた言葉を、彼女にかけることにした。
「リリ。一度しか言わない、よく聞いてくれ」
僕がそう言うと、リリの瞳が強く輝いた。
こういう時、男と女は心が通じ合うものなのかもしれない。
その言葉を、ずっと心待ちしていた、とでも言わんばかりに。
リリの瞳が、期待に濡れる。
「僕は誰よりも、きみのことが大好きだ。
エジンバラ皇国に投降して、僕のもとに来てくれ。
世界でたった一人、きみのためだけにこの言葉を贈りたい。
――愛してる、リリ。僕と一緒になろう」
リリは、大きく息を呑む。
涙に潤んだ碧眼は、食い入るように僕の瞳を見つめていた。
やがて、大きな間をとった後。
彼女は眦をぬぐって、満面の笑みを浮かべた。
「はい……。至らぬ女ですが、どうぞよろしくお願い致します」