67話:見えないものを、掴みたくて
ウェルリア王国王都。
騎士団の早朝任務を終えた私は、王城に戻るために王都の街並みを馬に乗って進んでいた。
「リリ様! お顔を拝見させていただいてもよろしいでしょうか!」
「聖女様。あぁ……ありがたや……!」
「あなただけが私たちの生きる希望です」
馬で歩く私に、そんな声がそこかしこから上がる。
王都の街並みは日ごとに荒廃していっている気がする。
十分な食料が国民に行き届いておらず、市民たちは辛い現実から逃げ出すために、麻薬に走る。
そして麻薬に溺れて労働もまともにできなくなった人たちが、スラム街やその周辺区域の路上にたくさん寝転がっている。
ウェルリア王国は国家として、非常に深刻な状況を突き進んでいた。
「リリさま! どうか、あたしにお手を握らせてくれませんか!」
浮浪者のようなボロボロの布切れだけをまとった少女が、馬に乗る私の前に出て来て、言った。
それを、周りの大人たちが咎める。
「こら! そんな姿で聖女様のお手を握ろうだなんて、思い上がりも甚だしい!」
「身の程を知りなさい!」
「いえ、大丈夫です」
街人が乞食に似た少女を制す言葉を、遮って言った。
馬から飛び降り、私の瞳を一心に見つめてくる少女の手を握る。
少女の瞳が感激の色に染まり、憧憬を帯びた。
きっと、彼女にとって私は憧れの存在だったのだろう。
少女からは、何日もお風呂に入っていないすえた匂い――悪臭が鼻を刺激したが、私はそれを無視して彼女に微笑む。
「ありがとう。あなたの生活が少しでも良くなるように、騎士として全力を尽くします」
「は、はいっ!」
私が微笑めば、彼女は電流に打たれたかのように、背筋をピンと伸ばす。
彼女の身体を一瞥すれば、見るからに栄養失調を起こしていた。
痩せ細った腕と足。
それなのに、お腹だけはでっぱっている。
「あなたのお名前は?」
「イリスっていいます!」
「そう。イリスちゃん。お腹が空いてるよね。これをあげる」
私は馬の鞍に取り付けていたバッグから、非常食用の硬くなった黒パンを取り出して彼女に与えた。
少女は目を輝かせて私の手からそれを受け取った。
「いっ、いいんですか!?」
「うん、どうぞ」
「あぁっ……久しぶりのご飯です……!」
イリスは目に涙を浮かべて、パンに食らいつく。
「おいしい……! 本当に美味しいです……!」
パンを貪るようにして食べた彼女は、目にキラキラした涙を浮かべて言う。
「ゆっくり食べな。ね?」
「はい!」
その光景を、周りの大人たちが微笑ましく、そして妬ましく見つめていた。
「さすがリリ様だ」
「なんとお優しい御方よ」
「他の貴族や騎士団の人間とは、聖女リリ様はまるで違う」
そう語る観客を見渡して、私は言った。
「みなさんも、とてもつらい状況だと思いますが、私たち騎士団も精一杯尽力して参りますので、これからも頑張りましょう」
「はい。リリ様のような御方がいらっしゃるから、私たちも希望を失わずに済みます」
「聖女様。私はあなたについていきます」
そう言葉を返してくれる彼らの身体も、栄養不足で痩せこけている。
ウェルリア王国に、絶望が沈殿していく音がする。
◇ ◆
王都の街並みを抜け、王城にたどり着くと、私や他の臣下たちが広間に集められた。
豪華絢爛たるウェルリア王城の、謁見の間である。
「国王陛下の御前である! 一同、拝跪の礼を!」
宰相の男がそう叫ぶと同時に、謁見の間に集められた全員が左膝を床につき、胸に手をあてて頭を垂れた。
階段の上の玉座から、自分以外の全員がかしずく光景を見るというのは、さぞや壮観な眺めなのだろう。
玉座に座る国王陛下は十分に時間を取って、こう言った。
「よい、面をあげよ」
その言葉に、私たち騎士団の者や、高級官僚、閣僚たち、貴族の者が一斉に顔をあげる。
鉄靴が大理石の床を鳴らし、騎士たちが身にまとう甲冑がガシャっという音を立てた。
「では、これより定例の御前会議を執り行う。何か発言のある者は、挙手のちに――」
そうして退屈で退屈でしょうがない、ウェルリア王国の御前会議が開始された。
この会議の中で国庫の予算運用などを決め、国家を脅かす重大な問題に対しては対策案が練られる。
……はずだったのだが、近年の御前会議は茶番というものにふさわしく、関係各所がいかに自分が損をしないか抗議するための場となっている。
司会進行役の財務相が語る内容は、いかに国王陛下の治世が素晴らしいかという美辞麗句に修辞され尽くしていて、それを聞いた国王は満足げな様子で頷いている。
王国の財務の実態が、もうのっぴきならないところまで来ているところは、ウェルリア王国の上層部では常識となっているというのに。
「くぁ……ねむ……」
私の隣で背筋を伸ばして起立していたベアトリーチェが、こっそりとあくびをかんだ。
「ビーチェ。あくびなんてしてたら、頭の固い財務相とか宰相に、また怒鳴られるよ」
「リリ。だって眠いし……。もうこの果てしなく意味のない会議に参加するの、めんどうじゃない?」
聞く者が聞けば、即座に極刑を科せられる暴言だった。
思わず苦笑を浮かべる。
「それは私もそうだけど。ちゃんとした態度を取っておかないと、自分が不利になるよ」
「真面目ちゃんか」
吐き捨てるビーチェに、頭が痛くなる思いだった。
「あのね、ビーチェ」
そう言おうとした瞬間、財務相の視線がギョロッとこちらに向いて、私たちを睨んだ。
「そこ! 私語はつつしみ給え! 国王陛下の御前会議であるぞ!」
「っ……!」
思わず直立不動になった。
舐めつけるような全員の視線が、こちらに集まる。
「貴様らは……騎士団のリリとベアトリーチェか。御前会議のさなかに私語を交わすとは大層なご身分だな」
やってしまった……。
心の中で頭を抱える。
御前会議中の私語は厳禁だとされている。
さすがに私語のみで重罪に処されることはないだろうが、娯楽に乏しい宮廷生活を送る者たちに、攻撃を与える格好の的になってしまう。
貴族や官僚たちが色めき立って、私たちを見た。
「サー・リリ。貴殿は何か自分の立場を勘違いされているようだな。そんなに私語がしたいのなら、国王陛下の前に出てきて行ったらどうだ?」
「申し訳ありません……。私の不注意でした」
「リリ! そんな、財務相。今のは私が悪くて――」
「ビーチェ。いいから」
ビーチェの言葉を目線で制し、私は頭を深々と下げる。
「大変申し訳ありませんでした、閣下。以後、厳重に注意を払います」
「申し訳ありませんで私語が許されるのなら、ぜひとも私もしてみたいものだ。きみは聖女だのと国民にチヤホヤされて、少々いい気になっているのではないかね?」
謁見の間の一同から笑いが沸き起こる。
男たちからは、女を見下すような笑み。
女たちからは、ざまあみろと蔑むような笑み。
特に貴族の息女の、同じ年代の女の嘲笑が、一番激しかった。
私が怒られている姿を見て、謁見の間の吹き抜けの上階となっている、閲覧席に列席していた貴族の貴婦人たちがくすくすと笑いを立てている。
「見て、あの子。国民から聖女だのなんだのと持て囃されて、何か勘違いしていらっしゃるのではなくて?」
「御前会議中に私語だなんて、教養の底が知れようというものね」
「ああ、いやだ。これだから平民出身の身分のない女というものは」
「どうしてあんな子が、貴族の社会で人気があるのかしら」
私が怒られている姿を見て、貴族の息女たちが嘲笑した。
普段、つまらない生活を送っている彼女たちが、格好の餌食を見つけてここぞというばかりに叩く。
彼女たちが国民から聖女と慕われている私を妬み、私の立場に嫉妬していることは明白だった。
ここで下手に反論すればさらなる罵倒が待っているのは明らかだったから、私は澄ました顔でひたすら黙って耐える。
「だから貴殿のような女が騎士団に入るべきではないと、私は常日頃から――」
そのままゆうに半々刻は皆の前で怒られ、貴族たちの嘲笑を浴びながら、私は地獄のような御前会議を耐え抜いた。
うんざりするような会議だった。
◇ ◆
「ごめん……リリ。私のせいで、皆の前で怒られて……」
御前会議が終わった後、私とベアトリーチェは騎士団の詰め所に戻ってきた。
ここは騎士たちが着替えや任務のための待機をする場所で、男性用の部屋とは仕切りで区切られているだけだった。
脱いだ騎士甲冑を自分の棚に置きながら、ベアトリーチェはしゅんとした様子で頭を下げる。
「気にしないで……とはさすがに言えないか。次からは私語気をつけようね」
「うん、ごめんね。リリは何も悪くないのに。私のせいで……」
「いいよ。ああいうのも、仕事のうちでしょ」
私はからからと明快に笑って、ビーチェの肩を優しく叩いた。
「怒られるきっかけを作った私が言うのもなんだけど……、なんでああいう理不尽な嘲笑に耐えられるの? 私語で怒られるのは差し引いても、閲覧席から見ていた貴族の女たちは、明らかにリリのことを嫉妬して、馬鹿にしてたじゃん。今のリリの発言力なら、あんなやつら、言い返せばいいのに」
「うーん……なんていうか」
と、同じように騎士甲冑を脱ぎながら、私は応える。
「今だけでしょ」
それだけ言った。
ビーチェには理解できなかったようで、顔にはてなマークを浮かべる。
「今だけって、何が?」
「私が国民から人気があるのも、チヤホヤされるのも、それに貴族のご令嬢たちが嫉妬するのも。今だけじゃない?」
「そうなの? リリの可愛さや知名度なら、ずっと皆に褒めてもらえると思うよ。リリ、可愛いもん」
ビーチェが訝しげに、首を傾げた。
静かに首を横に振る。
「私が王国で聖女だとかチヤホヤされているのは、私が可愛いからとか、特別だからってわけじゃないんだよ、ビーチェ」
「どういうこと……?」
「ただ、私が10代の女の子で、たまたま騎士団に選ばれて、たまたまわりと顔が良くて、たまたま国民を助けるような性格だったから。
だから、国民はみんな見ている。私じゃなくて、私の背後にある『聖女リリ』という偶像を」
「へぇ……、リリってそういう風に自分を見てたんだ」
同じ騎士をやっている少女が、目を見開いた。
「うん。だから、こういう期間に、自分の価値を勘違いしちゃうと、後がつらいよね。
ビーチェも分かるでしょ。私も、女だから分かるんだ。
10代の若いうちにチヤホヤされて、舞い上がっちゃって、本当の自分の魅力を磨くことを忘れて。
それで歳をとって女としての価値がなくなった瞬間、みんなから見向きされなくなっちゃって。
いつまでも自分の栄光時代が忘れられずに、過去の思い出にすがりつく女の人、私はいっぱい知ってる」
迸るような言葉を区切って、私は言った。
「だから、今のうちに努力して、容姿やスタイルなんて上辺だけじゃない、価値のあることを磨いておくんだ。
そのために、思想や信仰を持つって言ったら、ちょっとおおげさかな。
でもね、『あぁ、今日もつまんない日だった。退屈だった』って日に、『でも、ルークがどこかで見ているかもしれない。だから自分に嘘をつかず、今日という一日を精一杯生きてみよう』と。
そう思えることって、私は大事なことだと思うんだよね」
「うん。そうだね。私もそう思うよ」
ビーチェが言葉短く、優しい表情で共感してくれた。
ビーチェは続けてこう言った。
「楽しいだけが人生じゃないからね。女の人生はむしろ、辛いことのほうが多い。
同性の妬み嫉みから始まって、足の引っ張り合いもあるし、男関係でもめんどくさいトラブルたくさんあるもんね」
「うん。そういう中で、『明日も一日、笑顔で頑張ってみよう』。
そう縋れる、心の拠り所があるって、私は素敵な事だと思うんだよね」
私がそう言うと、ビーチェはにやにや笑いを浮かべて言った。
「なるほど。プリンセス・リリ様は、エジンバラ皇国で冒険者をやってる王子ルーク様が、いつの日か素敵な白馬で迎えに来てくれることを、夢見てるわけですなぁ」
「えーっ、真面目に語ったのになー、今!」
「うんうん。分かってるよ。分かってるから。離れ離れになっても、ルーク殿が大好きなんでしょう?」
「それは、まぁ……なんといいますか……」
私はあらためて照れくさくなり、ごにょごにょと言葉を濁す。
「でもね。そんな夢見るリリ嬢に、とても悪いお知らせがあるのです」
「悪いお知らせ?」
それまでの陽気な表情を一転させて、ビーチェは神妙な顔つきで頷いた。
「御前会議では体面を取り繕っていたけど、ウェルリア王国の財政政策が、とうとう破綻したよ。流行り病の影響によって生産階級が壊滅的な被害を被り、領地収入が激減して国庫支出が総収入を上回った」
私の身体に、電流が走るかのようだった。
「それって……つまり……」
「数百年に渡って繁栄してきた、ウェルリア王国の瓦解が始まる。たぶん、内政の破綻をごまかし、エジンバラの豊かな資源を略奪するために、エジンバラ皇国と近いうちに戦争になるよ。この国、どうなっちゃうんだろうね……ホント」
そう語るビーチェの言葉が、私の耳に焼き付いて離れなかった。