16話・聖女、再起
私の眼から溢れ出る涙が、どれだけ枕を濡らしたのかもう覚えていなかった。
ルークが処刑された日から、私はずっと、一人では寂しいぐらいに広い邸宅に閉じこもったままだ。
もう1週間以上は騎士団の任務を無断放棄している。
団長や副団長は相当おかんむりだろうし、事実、彼らは私を任務に引きずり出そうと私の家に何度も面会に来た。
だが私はまるで子供のように、ベッドに丸まってシーツをかぶり、ひたすら泣き続けて引きこもった。
表にすら出ない私に、やがて彼らは呆れ、怒って帰っていった。
『お前の復帰を、騎士団一同が待っている』とだけ、社交辞令の言葉を言い残して。
こういう境地に陥って、私はつくづく人間的に未熟で甘い女なんだと思い知らされた。
大事な人に裏切られ亡くす痛みは、別に私なんかでなくとも世界中のいたるところで、いろんな人が経験していることだろう。
そう、これは特別なことじゃない。
誰にでも起こりうる、しごく当然のこと。
みんなこういう経験をしても、心が引き裂かれそうになる悲しみを抱えながらも、強く生きている。
つらい気持ちを抱きながら日々の仕事へ向かい、正しく優しくありながら日常を過ごし、いつか時間とともに心の傷が癒えるのをじっと待っているのだ。
私にはとてもではないが、そのように強く在れる気がしなかった。
ルークのことを思い出すだけで、気持ちが張り裂けそうだ。
ルーク……。
ずっと一緒って言ったのに、どうして私を置いていっちゃったの。
あの日、あの法廷で。
ルークが口にした言葉の数々が、未だに信じられない。
何かの間違いじゃなかったのか。
あれはルークではない、悪魔か何かが彼に擬態して言った言葉なんじゃないのかと。
あの事実を、頭が受け入れることを拒否している。
ルークはあんなことを言う人じゃなかった。
いつだって彼は優しくて。
ちょっと離れたところから私のことを見守ってくれていて。
恥ずかしそうにはにかんで、こう言うんだ。
リリは優しいね。いい子だね。
そう言われるだけで、心が暖かくなった。
飛び上がるほど嬉しかったのに。
優しいあなたが大好きだったのに。
なのに、どうして?
なんでなの、ルーク。
どうして、私の気持ちを裏切るようなことをしたの。
私の何がいけなかったのだろう。
どこが不満だったのだろう。
言ってくれれば、直したのに。
あなたのためなら、喜んで変わろうとしたのに。
「どうして……どうしてよ、ルーク……」
彼の最後の光景が脳裏に焼き付いて、何度も何度も繰り返される。
そのたび、私の弱い心は傷ついて、ずたずたに引き裂かれた。
もう何もしたくなかった。
騎士団とか貴族なんてどうでもいい。
ご飯すら喉をとおらない。
もう、このまま、死んでしまいたい……。
それからまたしばらく経ったころだろうか。
私の1日はベッドの上でひたすら泣き、泣きつかれたらそのまま眠る。
窓もカーテンも閉めきっているから、今が朝なのか夜なのかすら分からない。
泣き続けることに疲れ、私は久しぶりにベッドから起き上がって、邸宅の居間に降りた。
簡素なソファーとダイニングテーブルが置かれている居間。
あぁ……。
ここで、彼とどれだけ平凡で、幸せな会話を交わしたのだろう。
居間を見ているだけで、ルークの残滓があるような気がして、涙が出る。
彼が以前使っていた毛布を手に取り、鼻をすんっと鳴らした。
彼が使った匂いが残っているようで、胸がドキドキした。
その行為を振り返り、我ながら愚かしく思えた。
「私って、馬鹿な女……。あんなにハッキリと拒絶されて裏切られたのに、まだルークが好きなんだ……」
つくづく救われない。
しばらく居間のソファーで何も考えられずにぼーっと座っていると、邸宅のチャイムが鳴る音がした。
今更、私なんかに誰が用があるのだろう。
また、騎士団の団長あたりが、復帰してくれと説得に来たのだろうか。
居留守を使ってやろうかと思ったが、あまりに意固地になるのも幼稚すぎる気がしたので、涙で腫れた瞳のまま、私は玄関へと出た。
「はい。どなたでしょう」
私がおよそ1週間ぶりに外に出ると、そこには見知らぬおじさんが立っていた。
あ、いや、どこかで見たことがあるな。
そうだ。ルークが最後に処刑された日に、彼の死刑執行人を務めていた兵士の人だ。
おじさんは恥ずかしそうにぽりぽりと頭をかいて、言った。
「こういうの、あいつの意思に反するし、ルール違反かなと思ったんだけどよ」
「……?」
唐突な話題に、私は首をかしげる。
なんだろう。
新手のナンパだろうか。
そうならぜひともお帰り願いたい。
こちとらそんなのに構っている余裕はないのだ。
「でも、このままだとルークのやつがあんまりにも浮かばれねえし、あんたもずっと邸宅に引きこもったまんまだって聞いたから、やっぱりちゃんと言っておいたほうがいいと思って」
「ルーク? ルークがどうかしたんですか!?」
我ながら面白いぐらいに、おじさんの話に食いついた。
「あいつ、嵌められたんだよな」
「え――?」
「あの裁判では、最初からルークの有罪は決まっていたんだ。たとえ嬢ちゃんがどれだけ必死に弁護しようと、上層部で話は固められていてルークの有罪は動かなかった」
「え、え……? な、なんで。それなら裁判なんて開く意味ないじゃないですか」
「そういう事を思える嬢ちゃんは、たぶん今まで幸せで純粋な人生を送ってきたんだと思う。でも、ウェルリア王国はそうじゃない。この王国は腐ってる。自分の利益のために不当に人を貶めたり、自らの出世のために下の人間を使い捨てるクズがうじゃうじゃいる」
「言っている意味が……よく分かりませんが……。じゃあ、ルークは最初から死刑になることが決まっていたんですか!?」
「そういうことになる」
おじさんは恭しく頷いた。
「だからあいつは、お前さんに少しでも迷惑がかからないよう、みんなが見ている法廷の場で嬢ちゃんを裏切るフリをした言葉を口にしたんだ。嬢ちゃんの輝かしい将来を、守るためにな」
おじさんの言葉を、私は呆然としたまま聞いていた。
私の将来を、守るため……?
「どっ、どういうことですかっ!? どうしてルークが私の将来を守るために、あんな事を言わなければならなかったんですか!?」
「嬢ちゃんはたぶん才能に恵まれた御方だから、騎士団に入ることの重みとか、ウェルリア全国民がどれだけ騎士に憧れているかは分からないんだろう。
俺たち庶民からすれば、騎士団への入団資格は喉から手が出るほどほしい。たしかに仕事はキツいかもしれないが、騎士叙勲されれば下級貴族に成り上がれる。
そうすれば家族の生活はもう安泰だ。少なくとも仕事を失って路頭に迷うことは絶対になくなる」
「騎士がどれだけ恵まれているかなんてどうでもいいんです! 私の質問に答えて! どうしてルークはあんな言葉を言ったんですか!?」
「だから嬢ちゃんの恵まれた生活を、輝きにあふれた未来を守るために、ルークはわざと嬢ちゃんと縁を切ったんだ。犯罪者になることが確定していた自分を身内に置いておくと、嬢ちゃんの成功に約束された未来を汚すことになると思ったんだろうな」
「え……え……!?」
これまでずっと鬱屈と抱えていた感情が。
寂寞の思いが、一気に晴れ渡るかのようだった。
ルークは、私のために、わざと嫌われるような言葉を言っていた……?
私の騎士と下級貴族としての将来を守るために、自分一人が悪者になって……?
「ルークは嬢ちゃんの足を引っ張りたくなくて、自ら悪人となって、自分だけ罰せさせられて死んでいったんだ。嬢ちゃんに迷惑がかからないようにな。
どうかその想いを、嬢ちゃんも分かってやってくれ。このまま嬢ちゃんが孤独に朽ちていく姿を見るには、事情を知っているものからすればあまりにも物悲しい。あいつが浮かばれねえよ……」
滂沱の涙が、私の両目からこぼれ落ちた。
ルークは……。
ルークは……、私のために……、自分ひとりだけがすべて罪をかぶって、死んでいった。
私に迷惑をかけないようにって。
私の将来を守るためにって。
「あ……あぁぁぁ……」
震えが止まらない。
全身が、彼の献身的な想いに鳴動するかのようだった。
ルークは、私のことを嫌いになんかなっていなかった。
私のことを裏切ったりしていなかった。
それどころか、献身的なまでの愛情を、私に注いでくれていたんだ。
愛情という言葉の本当の意味を、私はこの日、知った気がする。
今まで、ルークの何を知っていたと言うのだろう。
あれだけずっと一緒に過ごしていた時間さえあっても。
私は、彼の想いを、かけらほども理解できていなかった。
物事の表面しか見えていなかった。
あぁ、馬鹿な女。
私って、本当に馬鹿な女。
「だから、俺は嬢ちゃんにこれからの人生を強く生きてほしい。それが、嬢ちゃんの義務と責任だと、俺は思ってる。それだけ言いたかったんだ、悪ぃな」
呆然とする私に、おじさんはそう言って去っていった。
私はその場に崩れ落ちる。
もういい加減枯れ果てたと思っていたのに。
私の涙は、再び流れ続けた。
けれどそれは決して悪い感情ではなく。
今流れる涙は、美しく純粋で透き通った尊敬の色を帯びていた。
「うわぁぁぁぁー! ルーク! どうしてそういう事を自分一人で抱え込んじゃうの!? あなたは、あなたはなんで。私に一言でも言ってくれなかったの!? 私に言ってくれれば、どうにかできたかもしれないのに!」
どうして。
どうして、あなたはそんなに、優しいの。
ルーク。
彼の残酷なまでの優しさが、私を狂わせる。
今までのあまりの自分の愚かさに、心が焼かれそうになる。
「ああぁぁぁーっ!」
私の眼から流れる雫が、玄関の石畳を濡らした。
「ルーク……ルーク、ごめんね……私が馬鹿だったね……」
やがて私は、瞳に光を取り戻す。
固く拳を握って、自らの意志をよみがえらせる。
無念を抱えたまま死んでいった彼の想いを。
彼が祈り続けた、宿願を。
私にくれた慈愛の精神を。
ここで終わらせるわけにはいかない。
このままなかったことにして生きていくなんてできない。
強くありたい。
強く生きたい。
生まれ変わろう。
幼稚でわがままで自分勝手な私を捨てて。
ルークみたいに人に優しく、美しくあれる人間になりたい。
ここに、私は神聖な誓いを立てた。
もう、誰も犠牲にさせない。
ルークみたいな悲しい想いをする人がいないように。
私がこの腐った王国を変えてやる。
恵まれない人、悲しい思いをしている人、つらい境遇にある人。
そんな人たちを。
目に入るすべてのものを、救おう。
それが、私に未来を託して死んでいった、ルークへの贖罪になると信じてる。
「ルーク……。どこかいずこからでも、私のことを見ていてね。
私、頑張るから。あなたが最後まで想い続けてくれたことを、永遠の宝物にして、私はあなたにふさわしい女になってみせるからね」
私はこの日。
この瞬間。
やがてウェルリア王国の国民をして、『救国の聖女』と言わしめる女に、生まれ変わった。




