10話:最果ての底で
ぼやけた意識の片隅で、さらさらと水が流れる音がする。
水は止めどなく流れているようで、その音は不思議と嫌いじゃなかった。
「うあ……ここは……?」
僕はもうろうとする頭を振って、起き上がった。
「おう。起きたか、坊主」
「え……」
身体を起こし周囲を見渡すと、渓谷の底の部分のようだった。
あたりは頂上が見えないほど高い岩山に囲まれており、目の前には綺麗な水が流れている川があった。
さきほどから聞こえていた水の流れる音は、あの川の音だったのか。
目の前には焚き火に乾いた木の枝を入れて、火を大きくしている男がいた。
僕よりは年上そうで、顔立ちも整っており、かなりかっこいい部類に入る青年だった。
おそらく年頃の女性が放っておかないタイプの美男子だろうな、と僕は感じた。
ぱちぱちと燃える焚き火を見つめながら、青年は言った。
「傷は大丈夫か?」
「僕は……一体……」
身体を確かめてみると、あちこちに擦過痕があった。
レスティケイブに突き落とされた時にできた傷だろうが、よくあれだけの高さから落とされて無事でいられたものだ。
「そこの川の岸辺に打ち上げられて、うんうん呻いてたから、とりあえず応急処置だけはしておいたぞ」
「あなたが助けてくれたんですね。ありがとうございます、僕はルークです。あなたのお名前は?」
「ロイだ。ロイ・エメラルド」
ロイは不器用に笑って、そう言った。
「魚がじきに焼ける。とりあえず飯でも食おう」
鉄串に刺して、焚き火の中で焼いている魚をいじりながら、ロイが口にする。
「あの……ここはどこなんですか?」
僕の疑問に、ロイはからからと笑った。
「どこって。レスティケイブだよ。知ってて飛び降りてきたんだろ?」
まるでレスティケイブにいることが当たり前のように、彼は言う。
「たしかに僕はレスティケイブに突き落とされたはずですが……。ここは本当にレスティケイブなんですか? 魔物の巣窟と言われていますが、それにしたって魔物は一匹も見当たらない」
「レスティケイブにも、魔物がいない空白地帯がいくつかある。ここはそういう場所だ」
「な、なんのために、ロイさんはわざわざレスティケイブなんかにいるんですか」
僕の疑問には応えることなく、ロイはにやりと笑うだけだった。
彼の笑顔は人懐っこくて、なぜか気がついたら心の奥深くまで踏み込んできているような。
女性と出会った瞬間にロイがこの笑みを見せれば、ひと目で好意を持ったという表情を女性から返されそうな、とても素敵な笑顔だった。
「さっきお前は突き落とされたと言ったが、お前は自殺志願者じゃないのか?」
僕の質問には答えず、ロイは尋ねてくる。
「ええと、そうですね、どこから説明したらいいかな」
「何か深い事情がありそうだな。おら、魚をやる。まぁ飯でも食いながら話してみろ」
「はぁ……、それは構いませんが。あ、焼き魚どうもありがとうございます」
鉄串に刺さってよく焼かれた魚を受け取り、一口かぶりつく。
塩味がよく効いていて、美味しかった。
「美味しいですね……」
「だろ? レスティケイブ産の魚もなかなか捨てたもんじゃないだろ。ここは食料はすべてが自給自足で不便なことと、生活必需品が一切手に入らないことと、道中は魔物に襲われまくることに目をつむれば、なかなか快適な場所だぞ」
それって致命的に不愉快な場所なんじゃないかと思ったが、黙っておいた。
「そういえば、ロイ・エメラルドさんと言いましたね。姓があるということは、ロイさんは貴族なんですか?」
「生まれはな。貴族社会での堅苦しいお世辞と美辞麗句が嫌いで嫌いでしょうがなくて飛び出して、今はただの浮浪者だよ。で? お前は何をやらかしてここに突き落とされたんだ」
ロイにそう問われると、僕はぽつりぽつりと事情を語り始めた。
誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。
リリと仲よかったこと。ユースの強引なリリへの迫りをいさめたら、手痛いしっぺ返しを受けたこと。
リリを守るために、自分ひとりが悪役になって、ここに突き落とされたこと。
彼女の信頼を裏切ってしまったこと。
それらを一気呵成に喋る僕を、ロイは静かに相槌をうちながら聞いてくれた。
「――なるほど、事情は分かった。これからルークはどうするつもりなんだ」
「どうするつもりか……、ですか……。今はまだ分かりません。心にぽっかり大きな穴があいて、大好きだったリリを失った喪失感で上手く頭が回りません」
「もうウェルリア王国には戻らないのか? もしルークが戻りたいと言うなら手伝ってやれないこともないが」
「僕が王国に戻っても、リリに迷惑をかけるだけでしょう」
僕は寂しさをにじませて、苦笑した。
「そうか……。俺はお前のとった行動に、素直な尊敬を捧げる。とても純度が高くて、美しい想いだと思う」
「ありがとう。ロイさんはとてもいい人ですね」
僕がはにかんでそう言うと、ロイはけたけたと笑った。
「上辺だけの罪悪人かもしれんぞ?」
「もしそうなら、僕のことはさっさと見捨てていたでしょう。一文無しの男を拾って、何も得することなんてありません」
「違いないな。俺もこんなところで暮らしているからな。時々、無性に人と話したくなるんだ」
「そうですか……。なぜロイさんはレスティケイブなんかで暮らしているのか、お伺いしてもいいですか?」
ロイは逡巡を見せた後、こう言った。
「……ある人物を、探している」
「探している? 魔物がひしめき湧き出てくる本拠地と言われている、レスティケイブで、ですか?」
「あぁ、腕の立つ冒険者でな。ギルドのSランクの依頼を受けたまま、レスティケイブの中で失踪したんだ」
「失礼ですが、すでに亡くなっている可能性も高いのでは……?」
命の恩人に向かって、おずおずと進言する僕に、ロイは頷いた。
「その可能性ももちろんある。だが俺は、あいつが死んだとはどうしても思えない。だからこんな場所で暮らして、ひたすらレベルを上げ、腕を磨きながらそいつを探してるってわけだ」
「ロイさんも深い事情があるんですね」
僕の言葉を、ロイは笑って蹴飛ばした。
「なに、くだらない話さ。そういえば、ルークはスキルや魔法は使えるのか?」
「一応、ウェルリア王国で祝福の儀は受けました。低位魔導師という最下位職でしたが」
「それなら一度、エジンバラに行って冒険者ギルドに登録しておくのもいいかもな。レスティケイブで倒した魔物の素材を売れば、金も稼げて一石二鳥だ」
「落ち着いたらエジンバラに行ってみようと思います」
僕がそう言うと、ロイは静かにうなずいた。
「あぁ。まずはここでの生活のイロハを教えてやる。レスティケイブでは誰も守ってくれない。自分が強くなるしかない。弱肉強食の世界だ」
「今の僕には、それぐらいのほうが分かりやすくていいです」
こうして僕は、ロイさんとレスティケイブの中でサバイバルすることになった。