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ライヒロッドスの場合

 ――中央統治局治安操作委員会極秘指示書より抜粋

・スス=グライド

・アグル=グライド

・ライヒロッドス

・ゴイ

・ルル

 上記五名を異端分子と認定し処分する事を決定。


 俗に天外空間と呼ばれる遥か上空。爆発が起点となる衝撃波が拡散した。

 爆発したのは人造物。雲の上を観測する為に打ち上げられた調査嚢。

 肉削樹木とヒガヌの肋骨を何層も張り合わせて作られた外壁に大きな穴が開いていた。

 その穴から二人の作業員が天外空間へと投げ出される。

 悲鳴は虚空に呑まれた。

 空虚な世界と比較すると驚く程矮小であるその二人、若き魔法士ゴイとルルは、地上へ向けて落ちて行った。

 ゴイとルルが気圧の変化と加速と恐怖で揃って意識を失った。

 二人が地上に叩き付けられて形状を失うその瞬間まで気絶したままだったのは僅かな救いであった。

 調査嚢の推進力を司る魔法式を維持管理していた二人が投げ出された為、調査嚢は上昇能力を失った。

 それでも、スス=グライドとアグル=グライドは必死に生き残ろうとした。

 ライヒロッドスが恐怖からその精神を崩壊させ始めたのを横目に、あらん限りの魔力で推進力を得ようとする。

 結論だけ言うならばその行為はただの徒労に終わった。

 彼等は事故の原因を正確に把握しておらず、魔法式自体が爆発で損なわれていると言う可能性に至る事も無かった。

 ヒガヌの内翅を利用した窓から見える光景には、灰色の雲が壁の様に迫っていた。

 雲に突入するかに見えた瞬間、調査嚢は予期せぬ衝撃をその身に受けた。

 翻弄され内壁に全身を打ち付けた三人の意識はそこで途切れる事になる。


 その時代の人族も爆炎広華の残滓も知らぬ事であるが、雲は上空に停滞した水蒸気である。

 大気中で水蒸気が雲になる条件は多数あるが、その一つは塵の存在だ。

 微細な塵を拠り所に、雲は形成される。

 この世界においては爆炎広華の胞子がその役割を果たす事が多い。

 その為に晴天よりも曇天の方が一般的な空の情景だ。

 雲の一部は長期間その存在を維持し、調査嚢が衝突した雲に至っては凡そ千年に渡って存在していた。

 残滓がそこに飛び込んだのは今から凡そ六百年程前。

 爆炎広華の華が空中で爆発四散した事が原因である。

 それ自体はよくある事で、その場合残滓は蓄積された知識を次に繋げる事無く死滅する。

 この知識の断絶が爆炎広華の個体数が爆発的に増加しない原因でもあり、それは未来永劫爆炎広華が知る事の無い話だ。

 今雲の中に存在する残滓もまた散って消える宿命を背負った存在、であった筈だった。

 その残滓は爆発の衝撃で小さな飛沫となって虚空に投げ出された。

 その落下軌道に存在したのが、分厚い雲である。

 残滓を受け止めた雲は齢六百年程の雲であったが、それはこの世界雲としては一般的な年齢である。

 六百年はある種の生物にとっては刹那とも言える時間だが、ある種の生物にとっては悠久とも言える時間である。

 当然の様にそこには生態系が発生していて、貧弱ではあるが多種多様な生物が存在している。

 残滓は四百年の時間を費やして、そこの生態系を駆逐した。


 ライヒロッドスは激痛で失った意識を激痛によって取戻し、その過程で正気をも取り戻した。

 目を開くとその視界は正常だった。

 そこには四肢が明後日に曲がり頭蓋骨を陥没させた人体が二つ転がっていて、それはスス=グライドとアグル=グライドであった。

 ライヒロッドスは激痛に悶える身体を気力で動かす。

 奇跡的に両腕の損傷は軽微な物であった。

 指が半分程折れていたが、それ以外は無事に思えた。

 呼吸によって身体が痛むが、上半身には致命的な損傷が無さそうだった事もまた幸運だと思った。

 上半身の痛みは指以外には骨折が無い事を伝えており、それらの損傷は事故の全容から考えれば無傷にも近い意味を持つ。

 その代償として、下半身の惨状は無残であった。

 ライヒロッドスはその視線を下半身に向けて、数十秒かけてその状況を把握すると絶叫した。

 腰から下が元の形状を失っていた。

 最初ライヒロッドスは自分の下半身が床に埋まっていると思っていた。

 暫くして床だと思っていた物が天井である事を理解しても、その認識は変わらなかった。

 しかし、ライヒロッドスはそれが勘違いだと気付いてしまう。

 ライヒロッドスの腰から下は潰れていた。

 足先から腰に掛けて、その身長が半分近くになるまで、潰れていた。

 ひとしきり絶叫して、ライヒロッドスは再びその意識を手放した。

 結果としてそれは非常に幸運だった。


 それは長い間残滓としての生態を忘れていた。

 雲の中には残滓として成立するだけの養分が不足していた。

 元よりそこに存在していた生命は、生命を維持する事だけが目的で生きている生命ばかりだった。

 花となり種を残して死ぬ様な生命は存在しなかった。

 全て駆逐して吸収しても、足りなかった。

 そうやって残滓から別の存在へと変質しつつあったそれは、幸運にも養分を得る事に成功したのだ。

 養分は外からやって来た。

 それは再び残滓としての生態を取り戻した。


 ライヒロッドスは目を覚ました。

 その段階で、精神はほぼ崩壊していた。

 ライヒロッドスは艶の無い目で潰れた半身を見て、次に二人のグライドを見た。

 二人のグライドは脳を損傷していた。

 どちらも体内に残滓が侵入していたが、本来の寄生先である脳が存在しなかった。

 結果的に残滓は心臓に到達し、血液を媒介にその身体を掌握した。

 しかしそれまでである。

 残滓は骨が砕け筋は断裂した身体を動かす術を持っていなかった。

 一方でライヒロッドスに寄生した残滓もまた、その役割を果たす事に苦慮していた。

 ライヒロッドスの精神が通常の状態では無かったが為に。

 ライヒロッドスの視界には異形が存在していた。

 二十七本の黒く汚れた腕、血を流す七つの頭、規則性も無く散りばめられた六十六の目、半分の鼻、縫い合わせられた口、下半身は存在しない。

 半分の鼻が大きく膨らみ、ゆっくりと音を漏らす。

「すら、がすすす、はない、そうまい、る」

 ライヒロッドスが聞いた声はそう言っていた。

 それを聞いたライヒロッドスは、両腕で上半身を持ち上げて揺らした。

 振り子の要領で揺れ幅を増大させて、揺れの頂点で自らを投げ出す。

 そうやってライヒロッドスは健常者であれば二歩程の距離を移動した。

 それを繰り返す事によってライヒロッドスはアグル=グライドの身体に接触する事に成功した。

 その工程で凡そ一時間の時間が経過していた。

 対してそこから先の劇的な変化に要した時間は僅か数分。

 ライヒロッドスとアグル=グライドの身体は溶け合う様にして接続される。

 そうやってライヒロッドスは不完全な下半身を手に入れた。

 ライヒロッドスの艶の無い目がスス=グライドの方へ向いた。

「ふじ、わ、ぽたこ、ちしすむらい」

 異常な幻影が六本の腕をばらばらに揺らしながらそう言った。


 残滓は困っていた。

 あまりに残滓で無かった時間が長すぎたせいで、残滓としての生態が曖昧になっていたのだ。

 加えてライヒロッドスの脳は正常に機能しなかった。

 残滓は脳の機能を借りる事で仮初の知性を得る。

 その脳が壊れていたのならば、残滓もまた壊れた状態になるのだ。

 通常であればその様な不良品は廃棄されるのだが、その残滓は選り好みする自由を持ち合わせていない。

 弱った脳で残滓は考えた。

 考えた末、取り敢えずこの状態を脱する事を目標にしようと思った。

 残滓が考え事をしている間に、ライヒロッドスは二人のグライドを併合する事に成功していた。

 人は本来そんな機能を持っておらず、その点においてもライヒロッドは正常では無くなっていた。

 でも、残滓にとっては好都合でもあった。


 ずるずると、肉塊が這う。

 四本の手と四本の脚は最初から滅茶苦茶に砕けていて、それを強引に動かすものだから更に壊れて行く。

 無秩序な外見の肉塊。その上にはライヒロッドスの上半身が据え置かれていた。

「そきと、ときそ、そとき、きぬ」

 異常な幻影がその様子を真似ながらそう言った。

「かえろう」

 ライヒロッドスの口から、黒い血と共にそんな声が流れ出た。

「かえりう」

 異常な幻影がその声を真似た。

「かえろう」

 ずるずると、肉塊が這う。

「かあろふ」

 肉塊はどす黒い軌跡を描きながら、調査嚢の外を目指して這う。

「かえろう」

 ライヒロッドスの壊れた脳は、辛うじて調査嚢の内部構造を覚えていた。

「あいろう」

 肉塊部分の歪な腕の内一本が、苦労しながらも壁の機構を操作して内扉を開けた。

「かえろう」

 肉塊は調査嚢の通路を進み始めた。通路は途中で途切れている。

「あえうす」

 調査嚢はその三割を損失していた。途切れた通路の先は外である。

「かえろう」

 這う肉塊が通路の先へと落ちた。

「かぁ、えろう」

 その瞬間、残滓とライヒロッドスの脳が、ほぼ同調した。


 天外空間と呼ばれる場所。

 ただ雲の上と言ってもいいのかも知れない。

 残滓がその生態を忘失しながらも支配している齢千年の雲。

 それは調査嚢を受け止める事に成功したものの、その重みで崩落しつつあった。

 実際緩やかに落ちていた。

 最初は体感出来ない程度でしかない落下は、閾値を超えた瞬間に明確になる。

 雲が限界を迎えたのだ。

 雲が割れる。それはそう表現するより他無い。

 その光景は地上からも容易に観測する事が出来た。

 ある文献ではそれを光条の到来と記していた。

 ある文献ではそれを秩序の崩落と記していた。

 ある文献ではそれを落失の瞬間と記していた。

 ある文献ではそれを灰曇の終焉と記していた。

 しかし真実はどこにも記される事は無かった。


 ――これは百七十一統治区域の調整担当官が記した日誌の一部である。

 基準庁舎から北北西の方角で轟音。

 広域傭兵管理組合経由で調査隊を派遣。

 サタキの平原に何かが落下した形跡を発見。

 落下物は回収出来なかったが、類似した現象として爆炎広華の落下が挙げられる。

 多少の相違点は存在するが、おおむねの特徴が一致していた為、その様に処理した。


 ライヒロッドスは僅かに正気を取り戻していた。

 落下の恐怖がその引鉄となった。

 落下の衝撃は雲がその大半を引き受けてくれた。

 雲に擬態しているともいえそうな残滓の雲は、スポンジの様な構造をしていたのだ。

 残滓の雲は、溶ける様に消えた。

 遥か上空の低温に慣れ切ったその雲は、地上の熱に耐えられずに形状を崩したのだ。

 液状になったそれは地面に染み込んで消えた。

 それらは地上の環境を思い出す前にただの養分へと変化した。

 一方で僅かに正気を取り戻したライヒロッドスは、二本の足で立っていた。

 肉塊の大半が周囲に飛び散っていた。

 ライヒロッドスは正しい下半身の形状をある程度思い出し、残滓がそれの再現を手助けした。

 全裸のライヒロッドスの股間には、突起も穴も無かった。

 その部分は思い出せなかったのだ。

「ただいま」

 ライヒロッドスの視界に、白くふにゃふにゃした人型の何かが居た。

「たぁ、だいま」

 白い人型がライヒロッドスと同じ声で喋った。

 ふらふらと、ライヒロッドスは歩き始めた。

 行く宛ては無い。

 この時点でライヒロッドスの自我は終了した。


 鎖無き民と呼ばれる者達が居た。

 鎖無き民は遥か昔に中央統治局の干渉から逃れ、貧弱な砂漠でひっそりと暮らしていた。

 鎖無き民は中央統治局が禁じている精霊魔法を得意とする者達だった。

 精霊魔法の恵みで、砂漠で生きていたのである。

 鎖無き民が住むその砂漠に、名を知らぬ者が行き着いたのは、百七十一統治区域で爆炎広華由来と推測される現象が観測されてから、丁度十日後の事だった。

 性器を持たないその者との会話は成立しなかった。

 名を知らぬ者は何を聞かれても「ただいま」と言うだけだった。

 鎖無き民の討伐後、砂漠から回収された記録によれば、名を知らぬ者は一部の民から崇拝の対象として崇められていたらしい。

 名を知らぬ者は常に幸せそうで、それを見ている者もまた幸せな気持ちになれたと言う記録は多い。

 話し掛けると花が咲き乱れる様な笑顔で「ただいま」と言い、物を渡すと澄んだ清流の様な笑顔で「ただいま」と言ったと記録されている。

 時折何も無い所に向かってその笑顔を向けて「ただいま」と言う事があり、鎖無き民の一部は名を知らぬ者が見ている存在が善良なる高位の存在だと信じて疑わなかったらしい。

 名を知らぬ者は鎖無き民と共に八十年の時を過ごし、多くの者に看取られてその生涯を閉じたとされる。

 名を知らぬ者の死についての記録は鎖無き民が討伐されるより十二年前の物であるとされ、その事から名も無き者は何らかの利益を誘導する超常的な存在であったとも言われる。

 また、その後発生した数多の宗教観が名を知らぬ者の記録を起源としているされる。

 名を知らぬ者の正体について、その謎を解き明かせるものは居ない。

 ただ一つはっきりしているのは、その砂漠は爆炎広華の成長には適さない環境であると言う事だけである。

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