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グリルの場合

 ――魔生物学者ラムダスゴイルの研究資料より抜粋

 墜落した爆炎広華は塵となって散る。

 本当にそれだけなのか?


 毒ガヅヂ。名が示す通り、毒を持つガヅヂである。

 肉削樹木が群生する場所に生息するガヅヂは何故か尾爪に毒を持つ。

 フフルの森でも毎年少なくない者がその毒で命を落とす。

 その毒ガヅヂの生息数を調査する為に、壮年の傭兵グリルは単独でフフルの森に潜っていた。

 それは中央統治局から定期的に発注される依頼である。

 毒ガヅヂを駆除する必要性は無いが、それでも死ぬ可能性は低いとは言えない。

 その為評価値はやや高い138と設定されている。

 この依頼を成し遂げるには最低限毒ガヅヂの雌と相対して逃げ延びる実力が必要であり、グリルはその実力を持っていた。

 自身の能力を客観的に測定出来ていると自負していたグリルはこの依頼は無理の無い範囲だと判断していたので、毒ガヅヂの雌に相対しても落ち着いて対処が出来た。

 平たい硬質な身体に多数の節足。長い尻尾の先には把槌と呼ばれる厄介な器官。

 グリルは尾の攻撃を掻い潜り赤黒い光沢を放つ外顎へと肉迫する。

 岩をも砕く外顎の付け根側、即ち毒ガヅヂと地面の間。

 そこに手にした短槌を滑り込ませる様に潜らせて、その勢いを殺さずに救い上げる様な一撃をお見舞いする。

 ガヅヂの外殻はどの部分あってもその硬さに差は無いが、外顎の付け根だけは浅い位置に神経が集まっている。

 倒すためでは無く怯ませる為の一撃。

 その的確な一撃がその時ばかりは手応えが無かった。

 否、手応えはあり過ぎる程あった。

 誤ってカタバミの硬鱗を叩いてしまった時の様な手応え。

 グリルの腕が重い反動で痺れ、毒ガヅヂは頭部を起点に一メートル程浮いた。

 その時点ではまだグリルは状況を立て直す事が可能だった。

 毒ガヅヂを怯ませる事は出来なくとも、跳ね上げた毒ガヅヂが体勢を整えるまでの隙はあったのだ。

 その隙をグリルが呆然と遣り過ごしてしまった理由は一つだけ。

 毒ガヅヂの顎の付け根に見惚れる程鮮やかな緑色の蕾があったからだ。

「爆炎…!」

 グリルは爆炎広華の生態を完全に理解している訳では無い。

 だからその認識はいつ爆発するか予想出来ない危険な爆発物と言う程度だった。

 それを全力で叩いたと言う事にグリルは戦慄を覚えた。

 蕾の爆発は至近距離で晒されれば即死する威力だが、華の爆発の様に周囲を焦土と化す程の威力では無い。

 それは毒ガヅヂを盾にすれば無傷で遣り過ごす事は可能な程度の威力だが、有名で派手な華の爆発を起こすのがグリルの認識する爆炎広華だ。

 それ故の隙。

 それは毒ガヅヂが体勢を整えるには短かったが、その尾を振り抜くには十分な時間であった。

 把槌が迫って来る事に気付いて咄嗟に姿勢を落とし握り潰される事は防いだ。

 しかし、爪の先端が左腕を掠める。

 布鎧が裂ける音と、鋭い痛みでグリルは冷静さを取り戻した。

 痺れた腕を気力で動かして毒ガヅヂの目の一つを叩く。

 ただ怒らせるだけのその攻撃は普段であれば悪手だが、後先考えずに撤退するのであれば悪くはない。

 匂い袋を破り毒ガヅヂの嗅覚を誤魔化しながら、グリルはより鬱蒼と肉削樹木の繁る森の深くへ逃げた。



 あれからどれだけの時間が経過したのだろうかと、グリルは朦朧とする意識の片隅で考えた。

 森の中で琥珀有漏が肉削樹木の浸食に耐え忍ぶその場所で、グリルは琥珀有漏の樹液に浸かる様にして倒れていた。

 甘ったるい香りとべたべたとした感触が気持ち悪いが、肉削樹木の下で骨になるよりは遥かにマシである。

 グリルの視野は暗く狭くなっていて、既に自分の手の形すらも判然としない。

 その曖昧な視野と琥珀有漏の樹液。

 その二つの要素がグリルにそれの存在を認識させなかった。

 琥珀有漏の樹液を汚く濁らせた様な色の不定形の、爆炎広華の残滓の存在を。



 グリルの前に、一人の女が現れた。

 やけに鮮明な輪郭を持つその女は、肉削樹木の群生する森の中にも拘らず両腕と背中を露出させた服を着ており、優しい笑みを湛えて振り返った。

『大丈夫』

 その言葉はグリルを安心させた。

 故郷の共母を連想させる優しいその声に、頬に触れるしなやかな指に、グリルは理屈では無く本能で安心していた。

『それを食べれば大丈夫』

 女が指差す先、色も判然としない琥珀有漏の樹液の中に何かがあった。

 それだけが妙にはっきりと見えた。

(尖った何かの芽?)

 それは琥珀有漏の樹液の中だけに生息する人族には未知の植物であった。

 未発見であるが故にその植物にはまだ名前が無いが、近い未来には祝福草と呼ばれる事になる。

 グリルは女の声に促されるまま、何等疑う事も無く祝福草を毟って食べた。

 口の中に堪えがたいえぐみが広がった。

『吐いては駄目』

 女の言葉に従い、グリルは目に涙を溜めながらも祝福草を嚥下した。

『少し眠りなさい。外敵は付近にいない』

 その言葉を聞いた直後、グリルの意識は安らかな眠りへと落ちた。



 跳ね起きようとしたグリルは、琥珀有漏の樹液の粘性に勝てずに僅かに身体を浮かしただけだった。

 体調は万全と言えないものの、確実に毒の影響から脱していた。

『気が付いた?』

 女が顔の横に座っていた。

「ああ、大丈夫だ」

 グリルはそう答えて、周囲に視線を巡らせた。

 朦朧とした意識下では女の異常に気付けなかったが、今であればはっきりとその異常さに気が付いていた。

 どう考えてもこんな所に居る女は普通では無い。

 何かの幻覚を見ているのかと、グリルは己の認識を疑った。

『そんなに心配しなくても平気よ。グリルに害を与える積もりは無いから』

 女はそう言って立ち上がった。

 綺麗な女だとグリルは思った。

 顔立ちの事では無い。

 その身なりだ。

 来ているドレスの様な純白の服は汚れ一つなかった。

 グリルの常識ではフフルの森で服を汚さないのは特級傭兵でも不可能な事であり、そもそも今の今まで琥珀有漏の樹液に浸かっていた筈なのだ。

 女は警戒するグリルに微笑むと、空を見上げた。

 グリルも釣られて空を見上げた。

 肉削樹木に遮られながらも、双月がのっぺりと輝いていた。

『双月の間に星が見えるかしら?』

 女の声にグリルは月と月の間を見た。

「王星の事か?」

 グリルが問うと、女は頷いた。

『あの星に向かうと、集落から離れて行くことになるわ』

 グリルはそんな事位知っていると言うと、女は悲しそうな顔をして話を続けた。

『でも、集落の方向はグリルを傷付けたあいつの縄張りよ』

 だから、先ずは体力をつけましょうと女は言った。

『琥珀有漏の樹液は食するのには適さないわ、毒では無いけれどね。だからそれを』

 そういいつつ女は樹液の中で芽吹く祝福草を指差した。

 グリルは心底嫌そうな顔をした。



 新しい朝が来た。

 三度の夜をグリルは樹液に埋まったまま過ごした。

 朝眠りから覚める度に、常に隣で微笑む得体の知れない女に対する感情は複雑な物になって行く。

 明らかに、異常な存在である。

 女は夜も眠っている様子はない。

 その微笑み自体が不気味な生き物に見えてくる一方で、女の存在が無ければ肉体的にはもちろんの事、精神的にも死んでいた事を、グリルはしっかりと認識している。

 女に対して常に感じている強く不自然な安堵感。

 その安堵感が無ければ自身は狂っていたのは確実であった。

 一方で感情が支配されていると言う恐怖も確かに存在していて、そのちぐはぐな印象が女に対する客観的な評価を定められない原因でもある。

 グリルはこの強く不自然な安堵感は女が自分の精神を守る為に与え続けていると言う仮説を立てていた。

 相変わらず祝福草は不味かったが、その一方で体力は確実に回復している。

 既に万全に近い状態まで回復しているのだ。

 祝福草のえぐみに涙するグリルはそんな事を考えていた。

『そろそろ森を出ましょう』

 その考えを読んだ様に女がそう言った。

 グリルは実際読まれたのだと思っている。

「どうやってだ?」

 女の言う事を信用するのなら、集落に帰る為には爆炎広華の蕾を持った毒ガヅヂの縄張りを通り抜けなければならない。

 ただの毒ガヅヂでは無く、短槌の一撃を打ち込む弱点を蕾に護られた毒ガヅヂの縄張りを通り抜けなければならないのだ。

『大丈夫』

 グリルの不安に対して、女はたった一言そう言っただけだったが、グリルはこれまで以上に強い安堵感をその言葉に感じた。

 それは不自然さを感じさせない程強力で、理屈で否定出来ない安堵感だった。

「ああ…あんたがそう言うなら、大丈夫なのかもな」

 グリルはそう言って立ち上がった。

 粘性の強い樹液が引き留めようとするかの様に纏わり付くが、体力の回復したグリルを引き留める事は出来なかった。

 女は森の中を指差して行く方角を示す。

 グリルはしっかりとした足取りで、それでいてふらふらと、女の指差す先へと歩いて行った。

 平たい硬質な身体に多数の節足。長い尻尾の先には把槌と呼ばれる厄介な器官。

 グリルが我に返ったのは件の毒ガヅヂに再会した時だった。

 嫌な汗がグリルの背を伝う。

 咄嗟に短槌を手にしようと腰に伸ばした手は、虚しく空を掴んだ。

 短槌は逃走する際に放棄した事を、グリルは今更思い出した。

 慌てたグリルはせめて匂い袋を破こうと懐に手を伸ばす。

 その手を、女が両手で優しく包み込んだ。

『大丈夫。あれは弱っている』

 そう言われて改めて毒ガヅヂを見ると、その様子は衰弱している様にも見えた。

 尾や顎が規則的だが非常に緩慢に動くだけで、襲って来る様子は無い。

『ここで十分かな』

 女はそんな事を言うと、毒ガヅヂの方へと歩いて行った。

 グリルは女の後姿をただ見ていた。

 弱っていたとしても、毒ガヅヂに不用意に近づくのは危険である。

 しかし、女は普通では無い。

 であれば何が起こるのか。

 リグルの視線の先で女は毒ガヅヂの正面まで歩み寄ると、その顎に触れた。

 その瞬間、毒ガヅヂの堅牢な外殻が割れる音が響いた。

 毒ガヅヂの体表に黒三角錐状の黒が生えていた。

 それが毒ガヅヂの堅牢な外殻を突き破ったのだ。

 それは吸い込まれる様に黒く、怖いほど黒い。

「爆炎…!」

 後ずさるグリルに、振り向いた女は森の中を指差した。

『集落はそっち』

 グリルは女に安堵を感じなかった。

 得体の知れない存在に対する恐怖と、爆炎広華に対する恐怖。

 その二つの恐怖に、グリルは胃の中身を吐き出した。

 胃液の酸味と同時に、祝福草のえぐみが口の中に充満した。

 未だに樹液で粘つく袖口で口を拭ったグリルは、右耳に妙な感触を覚えた。

 手で触れるとそこには粘ついた何かがあった。

 樹液だろうかと思うグリルの指先で、それは震えた。小刻みに、しかしはっきりとそれ自体が震えていた。

 生き物だ。

 そう直感したグリルは気持ち悪さにそれを毟り取った。

 ずるりと、耳の中を何かが抜ける感触があった。

 怖気に震えながら毟り取ったそれを見ると、薄黄色の得体の知れない物がそこにあった。

 それは爆炎広華の残滓である。

 ふるふると、震えていた。

 グリルは悲鳴を上げてそれを投げ捨てると、森の中を走った。

 時折危険な魔物にも出会ったが、ただ駆け抜けた。

 十分程走った頃、グリルの後方で轟音が鳴り響く。

 グリルは本能的に大きな肉削樹木を背にして屈み込んだ。

 骨にされかねない行動だが、それは正しい行動だった。

 肉削樹木がグリルを呑み込もうと洞を広げる前に、爆風が森を駆け抜けた。

 グリルが女の姿を見なくなったことに気が付いたのは、重度の火傷で痛む身体を酷使して集落に戻ってから随分後になっての事であった。

 結局、グリルが得体の知れないふるふる震える何かと異常な女にまつわる体験を誰かに語る事は死ぬまでなかった。

 もし二ヶ月以上グリルが生存していたのであれば、その機会は存在したのかも知れない。



 打ち上げられた個体と同化していた残滓は、失敗した事を知った。

 まだ墜ちてはいないが、落ちない軌道には乗れない事は確実だった。

 残滓はそれを踏まえて検証する。

 残滓は同化している個体を精査して、十分に栄養が足りていた事は間違い無いと結論付けた。

 その残滓が失敗した時とは違い、この個体は落ちるその時まで推進力を失わないだろうと判断した。

 ならば失敗した理由は別にあるのだろうと、残滓はそう考えた。

 残滓の同化した個体の軌道が、上昇から下降へと転じた。

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