イブの妄想 真田はチロルが嫌いらしい
「イブの妄想」は、「小説家になろう」のほうで連載していたもので、短編のほうはそのシリーズの続編になります。登場人物の詳しい関係は、本編の第一話を読んでいただけたらわかりやすいかと思います。みんなからイブと呼ばれて愛されている高校二年生の相田伊吹君は、たくさんの友人たちに囲まれて、なぜだかいつもまわりを大変なめにあわせるというお話しです。
かわいた空気が風になって吹いてくる。
空は青く澄みわたり、公園のクヌギの木も秋めいて色づきはじめる。
クヌギの木の枝には帽子をかぶった青いドングリの実が鈴なりに成っていて、秋が深まれば茶色になって落ちてくるのだが、いまはまだ早いようだ。
相田伊吹は未練がましくシイの木を蹴っているが、大木はびくともゆるがない。
「あのお兄ちゃん、さっきからなにやってるの?」
母親と公園にきていた幼稚園ぐらいの男の子が、伊吹を指さしながら母親に尋ねた。
「ドングリを落とそうとしているのよ。そのうち自然に落ちてくるのにね」
「ふーん」
若い母親は、子供の手を引っ張って歩きだした。
日曜日の公園は、親子連れや犬の散歩でにぎわっていた。枯れはじめた芝生には、若い夫婦や若者たちが腰をおろして談笑している。年少者用のアスレチック遊具では子供たちが騒いでいた。
伊吹はまだクヌギの木を蹴り続けていた。スニーカーのつま先が、ささくれだした木の表皮のせいで傷だらけになってきている。靴のなかのつま先も痛みだしているのだが、やめようとしない。ドングリの実を落とそうとして木を蹴っていたのだが、木を蹴ることに目的がすり替わっていた。
涼しい風がふいているというのに、必死な形相で汗ばみながら木の根本を蹴り続けている伊吹は、そうとう変だった。
「だれか、いいかげんにイブをよんでこいよ」
少し離れたところで、芝生に寝ころんでいた真田幸継が言った。夏目想介は、原文で書かれた土佐日記の文庫本を、立てた膝の上に乗せて優雅に読者を楽しんでいる。その横で土方歳哉は、真剣な顔つきで懸賞パズルを解いていた。三人とも伊吹のクラスメイトだ。
金網で囲われたグランドから少年野球チームの試合の歓声があがった。にぎやかではあるが、のどかな昼下がりだった。
「なあ、あれ、うちの高校の一学年下のやつじゃないか?」
真田は身を起こして、伊吹に近づいてきた少女に眉をひそめた。
その少女は、ボーイッシュな髪型で、ピンク色の長袖Tシャツに白のベストを重ね着して、ポケットがたくさんついたデザインパンツをはいていた。子猫のように愛くるしい顔立ちの少女は、伊吹と同じくらいの身長で、向かいあって立っていると、かわいいもの同士、しっくり似合っていた。
「おい、あいつ、一年C組の草原チロルじゃないか? そうだよ。チロルだ」
すごいものでも見つけたように真田が大きな声をだした。
「草原チロルだと?」
土方が、胡散臭そうに懸賞パズルから顔を上げた。
「ほんとだ。チロルだ」
「な。チロルだろ」
土方が鼻の上にしわを寄せたのを見て、真田も小鼻をうごめかせる。こんどは夏目がいやそうに顔をあげてチロルのほうを見た。
「あんなやつをイブに近づかせるなよ。土方、追い払ってこいよ」
「イヤだね。いま忙しいんだ。夏目が行ってくればいいじゃないか」
くだらないというように土方は再び懸賞パズルに戻った。
「……」
「……」
真田と夏目は、無言でクヌギの木の下のイブとチロルを見つめた。
チロルは伊吹の足下にかがみ込んで、靴と靴下を脱がせて伊吹のつま先を両手にとって、伊吹に何か話しかけていた。
真田と夏目が身を乗り出して耳をそばだてる。そんなことをしても距離があるから聞こえないのだが、チロルの小さな手が、優しげに伊吹の赤くなったつま先を撫でるのを、二人は息をのんで見つめていた。
「なに、あれ」
真田が言った。
「なんか、俺、ドキドキしてきた」
めずらしく夏目が顔を赤らめて唾を飲んだ。
チロルは伊吹に靴下と靴をはかせてから立ち上がり、何事かささやいてから、身軽にジャンプしてクヌギの枝に飛びついた。小猿のようにするするとかけ上り、茂った枝の中に身を隠したかと思うと、ばさばさ音を立ててドングリの実が鈴なりになっている枝を折りはじめた。一抱えほどの枝の束を小脇に抱えて木から飛び降り、ぽかんと口をあけて眺めていた伊吹に差し出す。伊吹は輝くような笑顔になって枝の束を受け取った。チロルは伊吹に近寄り、ほほえみながら伊吹の頬にチュッとした。
「み、見たか!」
「チロルが、イブに、イブに!」
真田と夏目が泡を吹きそうな声をだした。
「イブとチロルがどうしったって?」
土方が顔をあげた時には、通りかかったおじさんに、公園の木の枝を折ったことを叱られたチロルが、伊吹の手を掴んで逃げ去ったあとだった。
いつもの登校風景である。
真田、土方、夏目の真ん中にいる伊吹の横に、なぜだか草原チロルがいた。伊吹と同じくらいの背丈のチロルは、制服のスカートの下にジャージのズボンをはいていて、伊吹の手をしっかり握って、楽しそうになにやら話しかけていた。なにを話しているのかは声が小さすぎて真田たちには聞こえない。しかし、伊吹には聞こえているようで、二人して顔を見合わせてクスクス笑っている。それが真田たちにはおもしろくなかった。
「あいつらエスパーかよ。なにしゃべっているのか聞こえないぞ」
真田がいまいましそうに言えば、いつもの順番を通り越して夏目が目をつり上げた。
「きにくわないな。だれかチロルを何とかしろ」
土方は、ポカンとおもちゃのようにかわいい伊吹とチロルを眺めていた。
「なんか、すんげえかわいいんだけど」
土方の独白なんか、誰も聞いていない。真田と夏目にとっては、チロルが目障りでならない。
「土方、チロルを放り出せよ」
真田がじれて土方を手で突くと、怒った土方が、その手を払いのけて怒鳴った。
「俺に命令するな。そういうことは夏目にいえ」
「なんで俺なんだよ」
夏目がグーで土方に殴りかかったものだから、土方は長い足で夏目の腹を突き飛ばした。夏目が真田に倒れかかって、二人して道に倒れる。二人は素早く立ち上がって土方に左右から組み付いていった。いつものじゃれあいとは違う三人の様子に、後ろを歩いていた円谷瞳と近藤勇子と三島由紀菜が眉をひそめた。
「なんか、雰囲気、違うよね」
「三人の顔つきが変わっておるな」
円谷瞳に相づちをうちながら近藤勇子が答える。三島由紀菜はめがねの奥の瞳を鋭く光らせた。
「あのチロルって子、トップの成績で入学してきたんですってよ。父親のおじいさんが中国系のマフィアで、母親のおばあさんが台湾系のマフィアで、日本人の両親はラスベガスでカジノを経営している大金持なんですって。あのこの声は誰も聞いたことがないそうよ。特殊な周波数で、ほとんどの人には聞こえないんですって」
「でも、相田は聞こえているじゃない」
円谷瞳は、おもしろくなさそうにチロルを見た。伊吹とチロルは、組つほぐれつしている真田と土方と夏目など目に入らないようで、互いを見つめあいながら口をパクパクさせて楽しそうに会話している。
「いや、それがしには、相田殿の声も聞こえもうさん」
近藤勇子は妖怪に遭遇したような、何ともいえない表情をうかべた。
「草原チロルには、友達がいなかったの。なぜなら声が人には聞こえないから。でも、やっと友達ができたみたいね」
三島由紀菜が言い終わるのをまって、円谷瞳が「気に入らないな」と、ぽつりと呟いた。
「気に入り申さぬか」
「どうして気にいらないのよ、円谷さん」と三島由紀菜。
「あれを見なさいよ」
円谷瞳が顎をしゃくって示した先を見ると、取っ組み合っている三人の遙か先を、目つきの悪い男子生徒の一団に囲まれた伊吹とチロルが、昇降口の中に入っていくところだった。
「なに、あの男子たち」
円谷瞳が不安そうに眉を潜めた。
「不穏な男子たちとおみうけするが」
「チロルのボディーガードたちよ。子供の頃から特別に訓練された人たちなんですって」
三島由紀菜の説明に、円谷瞳と近藤勇子は言葉を失った。
「おはよう。どうしたんだ、立ち止まったりして」
福沢万作が通り過ぎながら声をかけてきた。三人の返事を待つことなく、砂埃にまみれてけんかしている夏目たちにも声をかける。
「おはよう。真田に土方に夏目。朝から元気がいいな」
万作は親衛隊の女子たちに囲まれて颯爽と昇降口に消えていった。
その日からチロルは、昼の弁当の時間になると息吹の教室にやってくるようになった。
当然のように息吹の隣の席に座って弁当を広げる。チロルの家で雇っている住み込みの料理人の弁当を持ってくるのだが、その弁当がすごい。
「これ、弁当じゃないよな。弁当っていわねえよな」
伊吹の正面の席に座っている真田がいえば、土方も大きくうなずく。
「うん。これはフルコースのランチだな」
「なんで銀食器が並んでるんだよ。それも、机三つぶん並べて糊のきいたテーブルクロスまでかけてさ」
夏目も不満たらたらだ。チロルの後ろには食事係の目つきの悪い男子生徒が三人控えていて、ポットからあつあつのコンソメスープをカップにそそいだり、ローストビーフに添えられたサラダにドレッシングをかけたりしている。廊下には、チロルの護衛の目つきの悪い男子生徒たちが居並んで、昼食の菓子パンを牛乳で流し込んでいた。
雰囲気が悪い。何ともいやな空気が立ちこめている。教室の生徒たちは、すみのほうに固まって目つきの悪い男子たちと目を合わせないように息をひそめて弁当を食べているし、円谷瞳たちもイライラと箸を使っていた。
たまりかねたように、円谷瞳が箸をパチンと机においた。
「何とかならないのかな。目障りなんだけど」
聞こえよがしにわざと大きな声でいったら、伊吹の耳がぴくんとはねた。
「どうしたの、円谷瞳さん。なにが目障りなの」
伊吹が席を立ってちょこちょこそばにやってきた。すると、チロルもくっついてくる。
円谷瞳はいすに座ったまま、傲然と胸を反らした。
「ここは二年の教室なんだよね。一年は自分のクラスで食べなさいよ」
「○#△$□~&GAGAPA!」
チロルが口をパクパクさせて身振りでいいかえしてきたが、なにを言っているのかさっぱり聞こえない。
「もっと大きな声で言ってくれない? 声がちいさくて聞こえないんですけどぉ」
チロルの声がでないことを承知で意地悪くいう円谷瞳に、チロルはさらに早口で何か言った。
「きこえない、きこえないなあ」
円谷瞳もいいかえす。
「あのね、チロルちゃんはね、どこで食べてもいいでしょ、っていってるの。そんな校則は生徒手帳には載ってないって」
伊吹が代弁してやると、うれしそうにチロルが伊吹の腕に腕を絡めてきた。
真田と土方と夏目がぴくんと反応した。
「見ろよ、腕、組んだぞ」
「俺、引きはがしてくるよ」
土方がイスから立ち上がった。
「早く行け。チロルはすばやいから、すぐチュしちゃうぞ」
いつもなら面白がって傍観している夏目までおたおたしている。
「え、チュってなんだ?」
土方が聞き捨てならないというように動きを止めた。
「だから、この前の日曜の公園で、チロルがイブにチュしたじゃないか」
「えええ、俺、知らないぞ」
「おまえは懸賞パズルに熱中していて見逃したんだよ」
横から真田に言われて土方は顔を赤くした。
「イブとチロルはそういう関係だったのか。子供だとばかり思っていたけど、知らないうちにおませになっていたんだな」
「ばかか、おまえは。おまえとイブは同い年だろうが。いつから土方はイブの疑似親になったんだ」
「いいから早く連れてこい」
真田と夏目の両方から言われて、土方は伊吹に手を伸ばした。肩をつかんで引き寄せようとしたら、チロルの手がさりげなく土方の手をはたいた。
「え?」
目をみはってチロルを見れば、幼げで愛らしいチロルが、ひどく大人っぽい表情で、土方を軽く睨みつけていた。年上のお姉さんに冷たくあしらわれたような間の悪さに土方の心臓がドキドキした。
「あ、あの、チロルちゃん。こっちへおいで? そっちは獰猛な猛獣の区域で危険だから、イブを連れてこっちでごはんの続きをしようね」
猫なで声の土方に表情を一変させてチロルが機嫌よく頷く。伊吹の腕に腕を絡めたまま席に戻ってきた。土方も自分の席に着こうと向きをかえたら、近藤勇子の鬼のような顔にぶつかりそうになった。
「獰猛な猛獣の区域とは、どこのことでござるかな」
「や、へ、は」
ぐいっと前に突き出された近藤勇子の顔に、土方の頭は真っ白になってしまった。
「獰猛な猛獣とは誰のことでござるかな」
「う、ぐ、げ」
土方は目を見開いたまま失神していた。
「夏目、助けに行けよ」
真田が小さな声でささやいた。
「真田が行けよ」
夏目もささやき返す。
「獰猛な猛獣っていったらきまっているじゃないの、ねえ」
遠慮のない円谷瞳の声が、しんとした教室にはっきり聞こえた。
三島由紀菜は近藤勇子をちらりと見て身震いした。
「ごちそうさまでした。わたし、図書委員だから図書室に行かなきゃ。お先にね」
「まだ食べ終わってないじゃないの。顔面筋肉の猛獣も早く餌を食べちゃいなさいよ」
あっけらかんとした無神経な円谷瞳の大声がおわらないうちに、真田と夏目は三島由紀菜のあとを追って教室から逃げ出した。それに続けとばかりに生徒たちが一斉に弁当を持って廊下に走り出していく。
教室では、立ったまま失神している土方をはじきとばした近藤勇子が、猛然と円谷瞳に飛びかかって行くところだった。
校舎の屋上まで逃げてきた真田と夏目は、息をはずませながら床にへたりこんだ。
「いけねえ。イブを連れてくるのを忘れてた」
「あ、ほんとだ」
二人とも、そのままごろんと横になった。
空はどこまでも青く透明で、吹いてくる風は乾いていて心地よい。下の階のどこかで騒々しい音が聞こえているが、屋上で寝ころんでいると気にならない。カラスが一羽、のんきにアホーアホーと鳴きながら空を横切っていった。
「そろそろ中間テストがはじまるな」
夏目のつぶやきも、眠気が差してきた真田には聞こえていなかった。
――真田はチロルが嫌いらしい 完――
おまけのお話 「のばらの母心」
「万作様、ちび助にガールフレンドができたって、本当ですの」
昼休みに教室の入り口で、花屋敷のばらは福沢万作にそうたずねた。万作は宝子がつくってくれた三人前の弁当をぺろりとたいらげて、生徒会室に向かうところだった。教室は福沢万作親衛隊の女子たちですし詰め状態だったから、万作の机までたどり着くのは大変なのだが、のばらはじゃまな女子を突き飛ばし、蹴り倒し進んでいく。目の前に立った許嫁ののばらに、万作は首をかしげた。
「ガールフレンド。イブにか」
「ええ。マフィアの娘で、名前はチロチロっていうんですって。学校中がその話をしていてよ」
「なにかの間違いだろ。イブはまだ子供だ」
「いつまでも子供ではなくてよ。それだから父親はだめなのですわ。やっぱり、こういうことは母親でなくては」
万作の親衛隊の女子たちは、のばらが万作とのばらを父母に例えたあたりで髪の毛を逆立てた。
「いや、父親は貢さんで母親は宝子さんなんだが」
「いつもそばにいる万作様がちゃんとみていないと、あのチビ助はなにをしでかすかわかりませんことよ」
「そうかといって過保護にするわけにもいかないしな。本田さんにも以前注意されたんだ」
「わたくしにおまかせください。ちび助の様子を見てきてさしあげます」
「真田たちもいるし、心配ないと思うけどな」
「いいえ、わたくしが行ってまいります」
「そうか。じゃ、俺は生徒会室に行くから」
万作が教室を出ていくと、のばらも伊吹の教室に向かった。いまの会話に福沢万作親衛隊は全員わなわなとふるえてのばらへの怒りと嫉妬の水蒸気を吹き上げていた。
息吹の教室に向かう途中の廊下で、のばらは真田と土方と夏目にすれ違った。
「あら、三人とも、どうなさったの。どこへいらっしゃるの」
「教室の空気がおもしろくないんで、ちょっと校庭で暇つぶしだよ」
真田が肩をすくめれば、土方も口を曲げる。
「おれはかまわないんだけど、真田がチロルちゃんをいやがるんだよ」
「ほんとうだったのですね。ちび助とチロチロのうわさ」
「かわいいよお、イブとチロル。見ておいでよ」
夏目がクスクス笑った。
「あなたがた、チビ助の子守をしないでいいのですか」
「おれたちはイブのベビーシッターじゃないぜ。勘違いすんな」
機嫌の悪い真田が、かるくのばらを睨んで歩きだした。土方と夏目も歩き出す。のばらは三人をしばし振り返ってながめたあと、伊吹の教室に向かった。
教室についてみると、確かに空気がおかしかった。教室の生徒たちが伊吹をとりまいて興味津々で眺めているのはいつものことだが、今日はよそのクラスの保藻田と芸田と釜田が来ていた。お雛様のように行儀よく並んで紙パックの牛乳をストローで飲んでいる伊吹とチロルを、三人は前の席に座って飽かずに眺めている。それを少し離れたところで円谷瞳と近藤勇子と三島由紀菜の三人が横目で睨んでいた。
「チロルがくるようになってから、真田さんが出て行っちゃうのよね」
忌々しそうに円谷瞳が舌打ちすれば、近藤勇子も憮然と腕組みをする。
「チロルなどどうでもよいが、土方殿もいなくなってしまうのが気にくわぬ」
「それに、チロルをガードしている目つきの悪い男子たちもじゃまだわ」
と、三島由紀菜。
チロルをガードしている男子たちは、チロルを取り囲むようにして後ろに控えていた。隙のない目配りと物腰が尋常ではない。近藤勇子のバレー部員や、三島由紀菜の図書部員などが、束になってかかってもかなうとはおもえない。高校生にしては物騒すぎる雰囲気を発散させている男子たちだ。
チロルの昼食の給仕を終えた男子たちと、食事をすませた男子たちが交代して、かいがいしくイギリス式のティーポットから紅茶をついでいる。
「かわいいよねえ、二人とも。いつもなにを話しているの」
保藻田が涎を垂らしそうな表情でそうたずねた。
「いろいろしゃべるよ。ねえ、チロルちゃん」
「@#$%&’()0=~’’%。U、FUFU」
「そうそう、あのときはおもしろかったね」
「ー:*>>’%”$$#!。KyaHaHa」
「あはは、あれもおかしかったね」
「なに話しているか、わかんないんだけど」
芸田が、わかるかというように釜田を振り向いた。
「チロルって子は、声の周波数が普通とは違っていて、わたしたちには聞こえないのよ。でも、イブちゃんには聞こえるらしいの。だから、この子はイブちゃんから離れないのよ」
釜田がこそこそささやいた。芸田は、なるほどというようにうなずいたが、釜田の小声は保藻田の席にまでは届かなかった。
「かわいい声でさえずるよねえ。チロルちゃんは、そうしているとイブちゃんの妹みたいだよねえ。ほんとにふたりとも、かわいいよねえ」
保藻田はのぼせたように、同じことを繰り返した。チロルが抗議するように机を両手で叩いて保藻田を睨みつけた。
「!’’’&’%%$&””GUGUBU」
怒ったように睨みつけてくるチロルだが、なにを言っているのかわからない保藻田は、きょとんとしてしまう。
「だからね、チロルちゃんは、妹じゃなくて、ぼくの恋人だと言っているの」
伊吹が通訳すると、保藻田はびっくりした顔をした。驚いたのは芸田と釜田も同じだった。
「へええ。イブちゃんの恋人なの」
三人が異口同音でチロルに身を乗り出す。伊吹がひらひらと手を振った。
「ちがうちがう。ぼくの恋人は円谷瞳さんだよ。ぼくは円谷瞳さん一筋なんだ。チロルちゃんは仲良しの後輩だよ。ねえ、チロルちゃん」
それを聞いていた円谷瞳がいやそうに口を曲げた。チロルがすっくと立ち上がった。円谷瞳を指さして大きな声で叫んだ。
「!△!◆!$!&!@!!*!*!*!KONKURI、TUMETUME、ODAIBA,DOBON!」
しかし、なにを言っているのか誰もわからない。
「ちび助。チロチロはなんと言っているのです」
それまで黙って様子を眺めていた花屋敷のばらが、興味深げに伊吹の腕をつついた。
「なんだ、鼻くそ、いたのか。おとなしいから気がつかなかったよ」
「ちび助にガールフレンドができたと聞いたから見に来たのです。それで、チロチロはなんと?」
「それがね」と、伊吹はチロルをちらりとみてから花屋敷のばらにだけ聞こえるように声を潜めた。
「チロルちゃんはね、後ろのボディーガードの男子たちに、円谷瞳さんをボコボコにしてコンクリートミキサーに放り込んで、コンクリート詰めにして、お台場の海に沈めてしまえっていうようなことを、単語だけで指図したんだよ」
花屋敷のばらの大きな目が、さらに大きくなった。円谷瞳は、チロルの嫉妬と怒りを挑発するように盛んに舌をだしたりバカにするように腰を振ったりしている。チロルを挑発してなにがおもしろいのだろうとのばらは思ったが、伊吹にこっそりささやいた。
「ちび助。チロチロの言いたいことを後ろの男子たちに通訳したら、円谷瞳は、なにをされるかわかりませんよ」
「わかってるよ。だから黙ってるんじゃないか」
伊吹はうなだれてしまった。チロルはかわいい後輩だ。円谷瞳は憧れの人だ。二人がいがみあうなんて嫌に決まっている。そうしているまにもチロルの剣幕はヒートアップしていって、ボディーガードの男子たちもいきり立ってくる。言葉が伝えられないチロルのために、何か困ったことがあったり、危険なめにあったときのために、チロルの両親がつけたボディーガードだ。自分たちの使命をよく理解している訓練された男子たちは、チロルの意向を理解しようと懸命だが、なんとしてもわからない。チロルが悔しそうに歯を食いしばって、円谷瞳に拳を振りあげているのを眺めているばかりだ。
チロルはとうとう泣き出してしまった。大きな口を開けて、出ない声でわんわん泣いているチロルをみているうちに、伊吹も悲しくなってきた。
「ごめんね、チロルちゃん。でも、ぼくが好きなのは円谷瞳さんなんだよ」
うわああああ~ん、と大口をあけて泣き出した伊吹に、花屋敷のばらは困ったようにため息をついた。チロルと伊吹が、わんわん泣いているのを、円谷瞳は腹を抱えて笑っていた。花屋敷のばらは、つかつかと円谷瞳に歩いていった。笑いすぎて涙を流している円谷瞳の太股を、思い切り蹴飛ばしてやった。いきなりの攻撃にかまえる暇もなかったので、木が倒れるように近藤勇子に倒れかかる。近藤勇子は隣の三島由紀菜に倒れかかる。三人はどうと音をたてて教室の床に横倒しになった。
「なにすんのよ! 鼻くそブタ! 近藤さん、この女に一発かましてやってよ」
すぐ立ち上がって円谷瞳がまくしたてるが、近藤勇子は床に座り込んだままそっぽを向いた。
「ひとの気持ちがわからぬほど、わたしは無骨ではない。わたしとて女。チロル殿がいたわしい。」
「なにを気取ってるのよ。どこが女よ。全身筋肉のくせに。じゃあ三島さん。あなたの陰険な図書部員を呼んできてよ」
円谷瞳は三島由紀菜に矛先を変えた。
「お断りよ。尊敬する夏目さんに何かあったのなら、すぐにでも犬笛を吹いて呼ぶけど、あなたのいうことをきく義理はないわ」
「なんだとお!」
吠えた円谷瞳が、三島由紀菜に飛びかかっていった。三島由紀菜もぱっと立ち上がって迎え打つ。聖域の図書室で一キロもある重い大図鑑を十冊もいっぺんに抱えて書庫を移動する三島由紀菜は、ほっそりした外見に似合わず力が強い。円谷瞳に回し蹴りして牽制しながら強烈な一打をボディに打ち込んだ。円谷瞳の体が座り込んでいる近藤勇子の胸の中に崩れた。
「やめられよ、二人とも」
あいだに入って止めようとした近藤勇子の鼻を、円谷瞳の肘が、うるさいといわんばかりに打ち据えた。鼻の穴から大量の鼻血が吹き出した。円谷瞳の顔面が返り血で真っ赤に染まる。
「近藤さんは引っ込んでてよ。これは美女とカマキリの対決よ」
チロルは驚いて泣きやんだ。伊吹は血だらけの円谷瞳に仰天して気を失ってしまった。花屋敷のばらは、保藻田と芸田と釜田にいいつけて伊吹を教室から運び出させた。
「チロチロ、一緒にいっらっしゃい」
教室を出ていく花屋敷のばらのあとを、チロルはおとなしくついていった。教室の中では、返り血を浴びて顔面血だらけの円谷瞳と、鼻血で人相の変わっている近藤勇子が取っ組み合いのけんかをしており、三島由紀菜は怪力で机や椅子を二人に向かって投げつけていた。
のばらの母心 完