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夜会、そして自我の芽生え


窓ガラスを開けた途端、鼻先に迫るのはむせ返るほどの深緑の香り。盛夏特有の力強いその薫りを吸いこみながら、少女は歩きだす。

漆黒に見える庭園だが、一歩足を踏み入れれば適当な間隔で立てられたランプの灯りが、オレンジ色の光で白い石畳を照らしだす。

計算し造園された小路に控えめな靴音を響かせて、リーネンは迷うことなく奥へと進んだ。

この庭園の中央にしつらえた噴水前に彼がいることを確信して。

そして夜の帳に抱かれつつも、闇を拒絶するように地面を照らす炎の元を少女は軽い足取りで歩いた。噴水の淵に腰かけたヨシュアの元まで。

こつり。

小さな靴音に視線が上がる。

「ああ、リーネン。こんばんは、かな」

他人行儀な挨拶は、パーティーが始まってから一度も顔を合わせられなかった後ろめたさでもあろう。

それもあって微苦笑と共に告げられたヨシュアの声は、やはりというべきか、かなり憔悴していた。

「だいじょうぶ?」

「ええ……まあ」

そう言いつつも顔色が優れない。

夜の庭園は当然ながら光量が少ない。それでも顔色が悪く見えるのだから、よっぽどなのだろう。

組んだ両手の上に落とした深いため息。頭を垂れる彼の隣にちょこんと腰かけると、リーネンはヨシュアの額に手を伸ばした。

「リーネン?」

何を、と問う声はすぐに途切れた。

細い少女の指先から流れ込む、清浄な『何か』に言葉奪われて。

熱を冷ますような、淀みを押し流すような、それは清流。

心地よさに瞳を閉じれば、漆黒の中に小川のせせらぎが聞こえたような気がした。

さらさらと。さらさら、と。

体内に沈殿していた澱のような不快さが、一刻ごとに洗い流されてゆく。

その爽快さにしばし浸っていたヨシュアは、悪心が引くと同時に離れてゆく指先を名残り惜しく思いながら瞼を開けた。

「ありがとうございます。でも、わざわざ力を使って頂かなくても、これくらいなら自然に治るんですよ。情けない話、慣れてますから」

自嘲の色もはっきりと。

苦笑を浮かべたヨシュアを前に、リーネンもまた、自身の失態に思い至った。

「……言いつけ破って、ごめんなさい。ヨシュア、辛そうだったから、つい」

そうだ、この力は揮ってはいけないもの。

彼との約束を思い出した少女は、守れなかった約束にしおしおと項垂れる。

「あの、ね。ヨシュアとの約束通り目立ったことはしないわ。だから、これくらいなら、許してくれる?」

自信なさげな声と表情。闇夜の色を映した藍色の双眸が不安げに揺れる。

ああ、そんな顔をさせるつもりはなかったのに。

(俺の思慮が足りないばかりに、君を不安にさせてしまったのか)

己の言葉の過ちに気付いた途端、胸に奔る苦いものにヨシュアの眉根が寄る。

この子は人間としてとても脆いのだ。それは彼女の中に人間の根幹とも呼ぶべき「自己肯定」がないから。

たぶんそれは幼少期に親から与えられるはずの愛情を得られなかったせいで、育つ機会を逸したのだろう。

だから彼女は過敏なほど敏感になのだ。他者から否定されることに。

「すみません、俺の言い方が間違ってました。君が好意で俺にしてくれたことに文句などありません。さっきのは、自分の不甲斐なさにちょっと落ち込んで弱音を吐いただけなんです」

「ヨシュアが、弱音?」

いつも堂々としていて臆する事の無い人が?

信じられなくて大きな瞳を瞬きしていたら、

「ええ、甘えてしまってすみません」

少しの照れを含んだ微笑を向けられた。

わずかに甘く、幼く見えるその表情に、少女の胸がとくんと波打つ。

「っ……!」

(初めて、かも。ヨシュアのこんな顔)

やわらかい表情、あたたかい笑顔。それが少女の胸を落ち着かなくさせるから。

「え、と……あ、そうだ。お誕生日おめでとう、ヨシュア」

動揺をごまかすために紡いだ言葉は、少女がここに来た目的を思い出させてくれた。

手元のバッグにゴソゴソと手を入れると、小さな紙袋を取り出す。

淡いシェルピンクのリボンが結ばれたそれを押し付けるようにヨシュアに渡すと、青年は瞬きほどの驚きを消し、すぐに笑みを浮かべた。

「ああ、わざわざ用意してくれたんですか? ありがとうございます」

「うん、ヨシュアは『お友達』だから、特別」

にこにこと機嫌よさげに笑う少女は、どこかわくわくしている。

それはプレゼントを開けた自分の反応を楽しみにするような、年相応、もとい外見相応の無邪気さで。

(まったく、この無邪気さは凶器ですね)

愛くるしいったらない。

そんな内心をきれいに隠して、男は紙袋を開く。すると中から出てきたのは国花の青いクレマチスが刺繍されたハンカチだった。

「これは、君が刺繍したものですか?」

「そうなの。この刺繍ね、わたしの髪を織り込んだ糸を使っているから、少しだけど水難のお守りになるのよ。ヨシュアは今でも時々、貿易船に乗るって聞いたから」

匿われている状況で用意できる物などたかが知れているが、それでも生まれて初めての友達のために何かしたかった。

そう話すとルチアは刺繍を勧めてくれたのだ。たいした材料は必要なく、ただ時間と真心があればできる贈り物。

幸い神殿にいる時から刺繍は嗜んでいたから、リーネンはこの提案にすぐに飛びついた。そしてどうせ刺繍をするならば、とこの国で切り落とした―ルチアが丁寧に取って置いてくれた―自身の髪を使い、彼の海運を祈りながら一針一針心を込めて作ったのだ。

「わたしの髪が青銀色なのは水の元素(なかま)が宿っているから。だからこれを持っていれば、きっと海でも仲間が守ってくれるわ」

微笑む少女に目が、意識が釘付けになる。

「だからわたしのいない外の世界に行っても、元気でいてね。ヨシュア」

だって彼女は別れを見据えて笑っているから。

透徹なまなざし。そこには悲しみも諦観もなく、ただあるべき事実を受け入れている静けさだけが際立つ。

いつかは別れる。それは彼女が国に帰る時か、自分が外海に出る時か。

いずれにしても少女は既に終わりを見据えているのだ。

――今を、共にしているのに。

「……っ」

腕を伸ばす。小さな身体は見た目通り軽く、掻き抱くような男の腕に軽々と浚われた。

彼の膝の上へと。

「ヨシュア?」

抱きしめる身体が小さすぎて、現実味が感じられない。

それはそのまま少女の存在の不確かさを示すようで堪らなかった。

「その時は、君も一緒に行くんですよ」

「え? でも、この前も言ったけど、わたしはこの大陸から離れられな……」

「絶対に君を連れていきます」

確固たる声が少女の声を遮る。

「世界には驚きが満ちている。楽しいこともたくさんあるし、珍しいものもいっぱい。それを知らないままだなんて勿体ないこと、君の友人として許せるわけがないでしょう?」

「で、も……わたし、ナハルにいないとダメだし」

「そんなのシェレグ王に交渉しますよ。次はきちんと留学してくればいい」

「そんなの無理。『翠姫』が国を出たことなんて、前例がないし」

「だったら君が初めての例になればいいんです」

「でも……」

「いいですか、リーネン」

抱きしめていた腕を緩め、ヨシュアは紫紺色した少女の瞳を見据える。

「全ては『君がどうしたいか』です。自分の判断を他者に委ねてはいけない。それでは望まない結果になった時に後悔が深くなるからです。君も王族なら……いや、ひとりの人間として覚えておいて下さい。自分の選択に責任を持つことの重要さを」

深いふかい石榴色の双眸が見据えるのは、幾重にも彼女を縛る既成概念。

そしてその向こうにある少女の自我。

全てを見通すかのような深い色の瞳を見ていると、少女の心の中にさざ波が起こる。

『したい』 『行きたい』 『やりたい』

ふつふつと、心の深淵から湧き上がる気泡が弾けると、胸の内には様々な声が木霊する。

そのどれもが人間が生きるために必要な原動力、すなわち『欲望』だということに、さほどの時を経ずリーネンは気付いた。

「――……神官長は、ダメだって言ったの」

石榴の瞳に映る自分を見つめながら、リーネンはため息交じりに語る。

「『翠姫は世俗と関わることを禁ず』それは人の世に触れて……人の持つ欲に触れて穢れる事をよしとしない為」

覚えている限り鏡に映る自分は、まるで人形のように空虚だった。

何も感じない、何も考えない人形。

なのに今、暗赤色に映る自分はなんて人間くさく見えるんだろう?

(ううん、『人間臭い』んじゃない。わたしは今、人間なんだもの)

だったら人みたいに、望んでもいいのだろうか。

自分のための願いを持っても、いいのだろうか?

(うん、そう。持ちたい。わたし、自分のために生きてみたい)

胸の内に抱いた、欲。伏した睫毛の奥でそれを抱きしめたなら、リーネンは再度彼の双眸を見上げた。

逸らすことのない柘榴の瞳。それはとても穏やかにリーネンの言葉を待っている。

「でもわたし、本当は」

ためらいがちに紡がれる言葉。

生まれて初めての願いを、しっかりと抱きしめて。

「本当は、もっと自由に……なりたい」

そう口にした少女。囁くような声は小さいが芯が通っている。

その事実は青年から笑みを引き出した。

「もちろんです。君は謙虚だから、欲張りなくらいが丁度いい。もっと貪欲に君が望む自由を、そして幸せを追い求めて下さい。俺でよければ喜んで君の力になりましょう」

真摯な思いが紡がせた言葉は少女の心に響いたようだ。

届かないまでも背に回された腕が縋るように、そして甘えるように礼服のジャケットに皺を作った。

ふたりの後ろで水が舞い踊る。

決められた落下を反故にするかのように自由に、気ままに宙へ向かって。

少女の感情に呼応した、水の元素たちが踊りだす。

月を目指すかのように高く飛翔する水飛沫たちは、月明りを受け水晶のように輝いては夜の庭園を彩る。

けれどその幻想的な光景を見る者は、残念なことにこの庭園にはいなかった。






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