回想、そして決意
初めての仲違いに胸を痛めつつも、死病の猛威は止まらない。
それらを抑えるべく浄化を続けるリーネンの元に、凶報が入ったのは一週間後のこと。
それは最愛の兄がこの死病にかかったという報せだった。
「イーテ様におかれましては既に手の施しようもなく……」
悲痛な面持ちで報告する神官長。
王太子が亡くなった場合、リーネンが立太子として冊立しなければならないと、続ける彼の声は、もう少女の耳に入ってはいなかった。
「……イーテ、が?」
眩い金糸の髪。暁の空を映した瞳。
自分によく似た顔立ちの、けれど活気と光に満ちた兄の姿が脳裏に浮かんだ。
イーテはリーネンにとってただひとりの特別な人。双子として生を受け、神殿に半ば幽閉された生活の中で、彼だけが外の世界から自分に会いに来てくれた。書物を、物語を運び、時に小さな花やお菓子を持参し、また時には小鳥を「新しい友達だよ」と言っては連れてきてくれた。
彼は唯一、ここから出られない自分のために、外の欠片をせっせと運んで来てくれた人だった。
「~~~~~っ!!」
そんな優しい兄が失われるなんて耐えられない。
強い衝動にも似た激情が、体内で急速に圧力を増し呼吸を阻む。
ドクドクと疾走する鼓動に突き動かされるように、気づけばリーネンは神官長の制止を振り切って走りだしていた。
深緑の森に飛び込み、イーテの気を――彼の中に流れる『血の波動』を頼りに走り続ける。
駆けて、駆けて。
喉が痛み、胸が締め付けられ、心臓が胸壁を突き破らんばかりに拍動しても、リーネンは足を止めようとはしなかった。
こけつまろびつ、ようやくたどり着いた王宮。青銀色の髪を見た誰もが驚き、けれど即座に跪き道を譲るのを尻目にリーネンは走り抜ける。
イーテの気配を追って彼の部屋にはすぐに辿りつけた。
隔離し閉ざされた回廊は誰もいない。耳が痛くなるほどの静寂の中、少女は自分が繰り出す荒い呼吸の音だけを聞きながら、紫檀の扉を押し開けた。
――扉の向こうからは、むせ返るほどの死臭。
「ッ?!」
むしり取られたと思しき天蓋の向こうには横たわるイーテの姿。
「~~~~~っ!!」
兄は苦しみぬき力尽きたように、ベッドの淵から半身を落としていた。
乱れたシーツ、千切られ羽根の溢れ出た枕。サイドテーブルに飾ってあっただろう花瓶や水差しは、床の上で粉々に砕け散っている。
そんな惨状をより一層凄惨に彩るのは、おびただしい血の跡。
「イーテっ!!」
恐怖でもつれる足を叱咤し駆け寄る。うつ伏せの兄を抱き起こせば、虫の息に等しいが彼はまだ生きていた。
「っ!」
冷たい頬。冷たい身体。失われかけた命を繋ぎとめるには、『今』しかない。
「死なせない! 絶対に死なせないからっ!!」
たとえ全ての人間がイーテを見捨てたのだとしても、自分は絶対に諦めない。
「おねがい、イーテ」
少女は血に塗れた兄の頬をそっと両手で包み込むと、その額にこつりと自分の額を押し当てて呟いた。
「……おいて逝かないで。ひとりはもう、イヤなの」
そして少女は解き放つ。命を糧に紡いだ力を。
最愛の兄を現世に繋ぎとめるために。
ゆらゆらと、ゆらゆらと。
波間にたゆたうような、心地よさ。
それはまるで母の胎内にも似て。
絶対の安心感と多幸感が身を包む。
その楽園に微かな、けれど無視できないノイズが疾る。
(なん、だろう……?)
まだ霧がかかったように、ぼんやりとする頭で少年は考える。
ノイズは枕元で聞こえるのに、それは水中で音を聞くように遠く、くぐもって聞き取りにくい。
「……?」
そこで初めてイーテは気づいた。自身の意思で瞼も開けられないほど、今の自分が衰弱していることに。
そして五感全てが紗で隔てられたように遠いことにも。
枕元、しかも頭上から降り注ぐ音の連なりを言葉としてうまく認識できない。
そんなイーテには構わず、『誰か』の声は降り注ぐ。
「何故?! 何故にイーテだけを助けた?!」
滴るような悲嘆を湛えて。
「おとう、さま……?」
(リーネン?!)
その一言で急速に細胞が活性化される。五感がはっきりと活動し始める。
瞼は未だ重く持ち上がらなかったが、右手を握る冷たく小さな手の感触が怯えたように震えていることが分かった。
「……!」
声を上げようにも喉を震わせるだけの呼気も出ないし、妹の手を握り返したくとも、指の一本さえ動かない。
ただ意識だけが鮮明に、この場を支配する刺々しい空気を、父王の言葉を感じ取っていた。
そんな状態のイーテに気づかず、父王シェレグは喉を絞るようにして言葉を叩きつけた。
「何故……その力を兄だけでなく母には使わなかったのだ、無慈悲な精霊よ!」
「っ!!」
びくり、と打たれたように竦んだ少女は、縋るように兄の手を握る。
そんな娘を父王はなじり続ける。
同じ時期、同じ死病に罹患した母と兄。けれど兄だけを助けた娘を「非情」と非難することで。
――だってリーネンは知らなかったのだ。兄の治癒中に母もまた罹患し、早世したことなど。
もとよりギリギリだった体力の全てを兄に捧げていた少女に、他のことを探る余力が残っているはずもなかった。
その結果、リーネンは図らずも母ライラを見殺しにすることになったのだけれど。
「ご……ごめんなさ……」
「謝るくらいならライラを返すのだ! その力で! 王妃を、蘇らせてくれ『翠姫』よっ!!」
父王の激昂に、リーネンは弱々しく首を振る。
「ごめ、なさい……できない……」
死者は蘇らない。精霊は自然の理に人より強く縛られる存在。だからこそ精霊にはできないのだ。自然の理を覆すような事象は。
ふるふると力なく首を振る娘に、父王は固く、かたく拳を握る。その手の色を失くすまで。
そして。
「……何が『翠姫』だ」
希望があるからこそ、それに裏切られた時、人は常より深い絶望を見る。
「何が精霊の化身だ?」
息子が、家族の命が救われたからこそ、人は「もっと」と欲を出してしまう。
「……っ、母さえ救えないのなら」
そして男は間違いを犯してしまう。
「お前は……」
愛する妻を失った悲しみを、怒りを、やるせない現実を、娘に叩きつけることで精神の均衡を保とうと。
「一体、何のために生まれてきたのだ?!」
「っ!!」
糾弾の声が残響を残す部屋。その扉が、轟音を立てて閉まる。
彼の悲嘆そのままに。
呆然とへたりこみ、静かに涙を流す娘を拒絶するように。
「―――……」
いつの間にか無駄な力みが入っていたようだ。
掌に食い込んだ爪が血で汚れているのに気づいて、イーテはほう、と溜息と共に体内の圧力を排出する。
あの時の衝撃は忘れない。そして暗く凝るほどの決意もまた。
リーネンは父によって傷つけられた。肉体の成長を止めるほどに。
ううん、肉体だけじゃない。『翠姫』としての力も、その大半を封じてしまうほどに、彼女は傷つけられたのだ。
あの男が存在することで。
「……ぼくは、許さない」
決して許さない。妹を傷つけた存在の全てを。
『翠姫』であることが、リーネンを傷つける最大の要因なら、それすらも自分は排除しよう。彼女が屈託なく笑えるように。自由に、心赴くままに羽ばたけるように。
そう、時は来た。
妹を閉じこめ続けた鳥籠を壊す時が、十年越しの願いが今ようやく現実となる。
「待っていて、リーネン。すぐに君を助けに行くよ」
愛しい、と。
心からの想いが滲むような声音が、便箋の上にふわりと落ちた。




