回想、そして葛藤
「まだリーネンを見つからないの!?」
声変わりをしても、なお高めの声は澄んでいて美しい。
けれどそんな美声も今は烈火の炎を孕み、鋭利な刃物のように鋭い。
彼が抱える怒り故に。
こんな風に感情をむき出しにするのは、怜悧な彼らしくないが、その理由を知っている配下の男は頭を垂れ叱責を受けた。
抑えきれない苛立ちに爪を噛むその姿は、まるで精緻な人形のよう。室内であっても輝く髪は最上級の金糸で、苛立ちを湛える双眸は黎明の空を溶かしこんだアメジスト。端正な顔立ちは甘く中性的でありさえするのに、今は触れたら切れそうな鋭利さを放っている。
そんなナハル国王子、イーテ・イッシュ・ナハルは、捜索をかけること一カ月、未だ妹の所在を掴めない部下の無能さに苛立ちを募らせていた。
「あれほど目立つ容姿の妹を見つけられないなんて、信じられない。一体今まで何をしている!」
直截的な咎の言葉に、男は平伏したまま非を詫びざるを得ない。
「大変申し訳ありません。しかし国内の捜索は一昨日までに全て終わり、引き続き国外を捜索しているところであります。馬の足取りから南のダロムか東のカイツに逃れた可能性が高く、現在両国を重点的に探っております」
簡潔な報告にイーテは苛立ちを持て余し、また右手の爪をかしりと噛みしめる。
分かってはいるのだ。王女を攫った一派はただの賊ではないと。
彼女を攫った輩は思った以上に巧妙で、捜索の攪乱を狙ってわざとあちこちに足取りを残していたのだ。それ故に当初イーテが放った追手は奴らが国内に潜伏していると誤解してしまった。
妹の外見は目立つ。この上なく。
だからこそすぐに見つかると思われたのだが、『翠姫』を拉致するだけあって敵はかなり強かで手ごわい。
神殿の奥深くに隠された『翠姫』を拉致する手際のよさ。その形跡を完璧に消す緻密さ。そして見事な攪乱といい、この計画は民草にできることではない。
イーテの形のよい爪は、すでにガタガタになるほど噛み千切られている。そんな爪先を更に噛みながら、イーテは思考を巡らせた。
この拉致事件の発端――首謀者は間違いなく文官のエノシュだろう。
彼は自分の一番の側近だった。そしてイーテの立てた計画に最初から反対していた男だった。
しかし、とイーテは怜悧さでは他の追随を許さないと冠される頭脳を駆使する。
エノシュは理知的な男だし、また行動を起こせるだけの人脈と能力もある。それに、そうだ。たしかヤツの双子の弟は神殿の護衛を任された武官だった。
そう思うと条件だけで言えばエノシュとその仲間内が企てた誘拐劇とも言えなくもない。
だが、とイーテは更に熟考する。
それにしても手際が鮮やかすぎる。神殿へのルートは弟が手引きしたと考えて間違いないだろう。けれどそれでもその後の情報統制と捜査の攪乱が鮮やか過ぎるのだ。
国の至宝である『翠姫』の拉致という一大事に対して、あまりにも神殿及び王宮が静まり返っている。こんなことこの国の風土からしたら考えられない。
(となると、考えられることはひとつ)
短くなりすぎて、既に噛む爪もなくなった指先。深爪した場所の肉をさらに噛みながら、イーテは結論を出す。
イーテの情報収集が及ばないところ。それはこの国の王の周辺だけ。
王が秘密裏に勅命を出すなら、それは国王直属軍である第一騎士団に違いない。
そして彼らが一枚噛んでいるなら、この用意周到な誘拐劇も、緻密な攪乱方法も、そして情報操作も納得がいく。
(やはり黒幕は、父王シェレグが妥当か)
「……」
どこまで父がこの計画に気づいているかは推測するしかないが、リーネンを隠蔽したのなら、大方の予想をつけてのことだと思われる。
ならば、予想よりは早いが、そろそろ事態を動かすべき時かもしれない。
「……妹の居場所をあと十日以内に掴むんだ。なんとしてもだ。それと後ほど北のツァフォン帝国に親書を持て」
「はっ」
一礼し退出する部下には目もくれず、イーテは机の引き出しから淡い空色の便箋を取り出した。
瀟洒な便箋の上を羽根ペンがさらさらと踊る。
元々書くべき事はずいぶん前から決めていた。それを書く時期が少し早まっただけのこと。
迷いのない速度で手紙を綴りながら、イーテは妹が消えてからずっと感じている不安を今日も噛みしめる。
『翠姫』である妹を傷つける人間など皆無だろうが、心配の本質はそこじゃない。彼の憂慮は妹が『翠姫』として民衆に求められること、その一点だけだった。
「リーネン、君は今どこにいる?」
降り積もる不安に頭がおかしくなりそうだ。
誰も彼女に奇跡を求めないといい。誰も彼女に縋らないといい。
あの子の傷は深く、時を経た今でもまだ癒えていないのだから。
重く深いため息と共に少年は思い起こす。
妹を深く傷つけたあの事件を。――自分がこの計画を決意するに至った、あの忌まわしい出来事を。
キドゥーシュ大陸は精霊信仰を主とする。
その中心にあるナハル国の国王夫妻に双子の男女が生まれたのは十六年前のこと。
母親譲りの金の髪を持つ兄は世継ぎとしてこの上なく生誕を喜ばれた。しかし、それ以上に水の精霊の証である青銀色の髪を持つ妹は、数百年ぶりに降誕した『翠姫』として、絶大な歓声と共にこの世に迎えられた。
その狂喜ぶりは、当時のナハル国が七日七晩、国を上げての祝宴を開くほどであったという。
そして崇拝対象である『翠姫』が降誕まもなく親元から離され、神殿の奥深くに祀られることとなったのは、ある意味当然の成り行きだった。
神殿は王宮の後方に広がる『帰らずの森』の中に建つため、神官の導きがなければ辿りつくのは難しい。
そんな下界から隔絶された場所に住むのは少しの神官と、リーネンに付けられた数少ない侍女のみ。そんな変化も刺激もない、まさに時すら停滞したような場所で、少女は育てられていた。
より純粋であれ、より透徹であれ。
それだけを重視され育てられた妹に、初めて出会った時の衝撃をイーテは忘れない。
「……だれ?」
自分と同じ顔、同じ色の双眸には何の感情も浮かばず、まるで精巧な人形が座っているかのよう。
人としての感情が一切欠落した妹は、まさに周囲の大人が望むような『人型の精霊』だったのだ。
玉座によく似た、けれど決定的に違う椅子に座った幼女に幼い少年は近づく。
「初めてじゃないけど、初めまして。ぼくはイーテ。君の双子のお兄ちゃんだよ」
差し出した手を、幼女が払いのけることはなかった。ただ何の反応もせず、漫然と見つめるだけで。
妹は人として生まれながら、その実、人として育てられはしなかったのだった。
それから事あるごとにイーテはリーネンの元に通った。時に侍従に叱られ、神官に諌められ、さらに父王や母に諭されても、彼は妹に会うことを止めなかった。
だって、彼女だけがイーテを個として見てくれたから。
王子でなく、世継ぎでもない。ただのイーテ自身を。
その喜びがイーテの足を妹の元へ向かわせた。
そして回数を重ねるうちに現れ始めたリーネンの変化。微動だにしなかった表情は少しづつ変化を見せ、やがてイーテの姿を見ると幼女は笑うようになった。
「リーネン元気? 今日はフィナンシェをもってきたから、いっしょに食べよう」
そう声をかけると神性さ漂う『翠姫』は血の通った『妹』に変わる。
「イーテ!」
ぱっと花が咲くような笑顔を浮かべて、駆け寄ってくるリーネン。
伸ばされた小さな手が、輝くような笑顔が、全力でイーテを求めている。
その事実が嬉しくて、少年もまた腕を広げて妹を迎え入れた。
しかし。
「わあっ!?」
「きゃんっ」
飛び込んできた彼女を受け止めきれなかった少年は妹諸共、背中から派手に転がった。
「イタタ……う、ごめんね、リーネン。ちゃんと受け止められなくて」
「う、ううん! ちがう、ごめんなさい! わたしが、とびついたから」
しゅんとする姿も、うさぎのようで可愛いなぁと思いながら、イーテは妹を抱きしめ直す。
「いーの! リーネンはぼくの大事な妹なんだから。甘えてくれなかったらお兄ちゃん、すねちゃうよ?」
ちゃめっ気たっぷりにウィンクをひとつ。
するとリーネンの表情から翳りが消えた。
「イーテ!」
はにかむように、でもうれしい気持ちを隠すことなく笑う少女。
愛しい妹の小さくも温かな身体を抱きしめれば、胸一杯に広がるのは充足感。
欠けていた何かが埋まるようなこの感覚はきっと君だけ。
ぼくの半身である、双子の君だけ。
だからね、リーネン。
「大好きだよ。君が、だいすき」
白くふっくらとした頬へとキスを落とせば。
「わたしもだいすきよ、おにいちゃん」
しがみつく小さな手にぎゅっと力がこもった。
そして兄妹は少ない時間を、それでも叶う限り共に過ごした。
イーテはなんの教育も施されていなかったリーネンに自分の得た知識を与え、書物を与え、外の世界の見聞を伝授することで、籠の鳥だった妹に様々なことを教えた。
そしてまた彼は父王に、妹の扱いが正当性にかけることを訴え、その待遇改善を盛んに訴え続けた。もっともそれは『国の慣習』を前に退けられることが多かったが。
妹の元へ通う日々と、彼女を鳥籠から出す努力。それらが純然たる目標に変わっていった七つの年の瀬。事件は起こった。
「もうやめてよ、リーネン! 君が死んじゃう……!」
青白い顔、輪郭がぼやけて見えるほどやせ細った身体。
妹が自分の命を削って力に変えているのは一目瞭然だった。
「ムリだよ! 君ひとりで国中の人間を助けようなんてっ!」
枯れ木のようにやせ細った身体を抱きしめて、イーテは叫んだ。
ことの発端はひとりの旅行者だった。
異国より訪れた人間が持ち込んだ病は頭痛・発熱から始まった。けれど風邪と違ってそれは三日と経たずして、高熱で苦しむ罹患者たちを死に追いやることとなる。ありとあらゆる箇所から出血を起こし、血塗れになりながら息絶えるという凄惨な姿で。
突然の奇病、しかも異常な致死率の高さに、ナハル国に激震が走った。
爆発的な感染力を持つ死病は瞬く間にナハル国全土に広がり、感染を恐れた人々は罹患者を森の中に打ち棄て、あるいは息があるまま火葬したという。
国中に広がる地獄絵図に、人々が『翠姫』に縋ったのは言うまでもない。
「精霊の加護を今こそ!」
「翠姫様、奇跡を!」
声高に叫び王宮に、そして禁域である神殿に殺到する人々。死者の数は日毎に増え、民の不安も天井知らずに膨れ上がる。
この事態の収拾は人の手には余る。そう判断したナハル国の国王は『翠姫』の加護を得るため正式に王妃を伴ってリーネンの元へ赴いた。
リーネンの出生以来、初めて。
そしてリーネンは生まれて初めて対面する両親の、国王の願いを聞き届けた。
大地に癒しの水を、空に浄化の雨を―――。
来る日も来る日も彼女は水の精霊の『力』である浄化と治癒を施した。しかし精霊がどれほど無尽蔵の力を持っていたとしても、所詮は肉体という檻に閉じ込められた身。リーネンが行使できる力には制限がある。
何故なら生命力を糧に揮う力は、体力に比例していたから。
そして事態は幼い彼女の手に負える規模ではなかった。
それこそ国中を焼くような大火に、わずかな井戸水では対抗しきれないように。
国中で猛威をふるう死病。死者や新たな罹患者は刻々と増えてゆく。
いたちごっこの様な現状を前に、リーネンは日を追うごとに衰弱していった。
「やめてよ、リーネン! なんで、なんで君だけが、がんばらないといけないの?!」
兄の必死の懇願を前にして、リーネンのか細い声が空気を震わせる。
「お父さまとお母さまに、おねがいされたの」
「リーネン?」
抱きしめていた両腕の力を少し緩めて、自分によく似た彼女の顔を覗きこむ。
すると彼女は幸せそうに、小さく笑っていた。
「わたし、ずっと会ってみたかった。わたしの家族に」
『翠姫は俗世と安易に関わらない』
この因習が生後まもないリーネンを外界から隔離し、神殿に幽閉した。
そのためイーテが神殿に訪ねてくるまで、リーネンは自身に家族がいることを知らなかったのだ。
けれどイーテを通じて父母がいることを知ったリーネン。
おおらかな父。やさしい母。
そんな話を聞くうちに、彼女はごく自然に両親へ思慕の念を抱くようになった。
会ってみたい、話をしてみたい。そしてイーテのように自分を抱きしめてくれたら……!
そんな年相応の願いは、非常事態に陥って初めて叶った。
父は、大きくなったリーネンを前にして切なさと愛しさの溢れるまなざしを向けてくれた。
また母は罪悪感からか、当初触れることに戸惑いを見せたが、結局は矢も盾もたまらず娘を抱きしめた。
「わたし、うれしかった。二人とも、ちゃんとわたしを愛してくれていたから……それがすごく、うれしかったの」
望んでリーネンを手放したのではないと、今なお娘を愛しているのだと、短い邂逅の中で両親は言葉ではなく、その態度で強く彼女に知らしめた。
「だから、応えたいの」
自分を愛してくれる、あの人たちのために。
「リーネン……」
充たされた微笑。それがイーテの胸を灼く。
愛しい、愛しい半身が、自分以外の存在を求めている。
彼らの愛を得るために、その身その命を削っている。
その事実がどうしようもなく少年の胸を疼かせ、焦がした。
(ぼくは、リーネンだけがいればいいのに)
吠えたてるような激情が幾重にも胸を突き上げる。
息が苦しい。胸が痛い。
ままならない現状に臓腑が捩れて、いっそ吐きそうだ。
(君以外はいらないのに……!)
ガンガンと頭の中で叫びが木霊する。
苛立ち、哀しみ、憤懣、歯がゆさ、もどかしさ。
雑多な感情が渦を巻き、圧力を増し、そして。
「君は、どうしてぼく以外を求めるのっ?!」
「っ、イーテ!?」
息すら阻む抱擁のあと、突然放り出された身体。
たまらずによろけ、床にへたりこんだ少女が目にしたものは、走り去る兄の後ろ姿。
「まって、イーテ!!」
リーネンの逼迫した声がイーテに届くことはなく、少年は脱兎のごとく走り去った。
「……イーテ、どうして?」
床に倒れ伏した妹を置き去りにして。