市場、そしてはんぶんこ
軽快な蹄の音を響かせて一行は港湾都市であるヤムを目指していた。首都カタルから馬で一時間ほどの場所にあるヤムは、このカイツ共和国の玄関口であり、交易を国の重要な収益源とするカイツの心臓部に当る。
遠くは東の大陸と交易を行うおかげで、このカイツは他国に比べて異国情緒が強く独特の文化を育んでいた。
「疲れませんか?」
「大丈夫。馬は初めてだけど、すごく楽しい」
緩やかなブランコのように前後する馬上で少女の髪が軽やかに揺れる。その感触すら楽しむかのように、リーネンは頬を紅潮させ目を輝かせていた。
普段、表情の変わりにくい少女が、これほど感情を露わにするのは珍しい。それほど楽しいのかと思えば、何かしてやりたくなるのが人情というもので。
「楽しいのなら良かった。今度、よろしければ乗馬をお教えしましょうか? 自分で手綱を握る楽しさは格別ですよ」
「本当? やってみたい!」
即座に返る反応に「じゃあ」と続けたヨシュアの声は、ハザックの鼻息ひとつで遮られた。まるで「俺に任せろ」と言わんばかりの絶妙なタイミングに、少女がふっと笑う。
「じゃあ、その時はよろしくね、ハザック」
「ヒヒン!」
すっかり通じ合っている人馬。その横を並走していたチェーリアと目が合えば、彼女は面白がる風情を隠す気もなくにやりと笑った。
「心配するな、ヨシュア。次は従順な牝馬をお前専用に用意してやろう」
「はは……」
実にご機嫌な(元)愛馬に乾いた笑みを漏らしながら、ヨシュアは緑濃い初夏の街道を駆け抜けた。
カタルとヤムを繋ぐ街道を小一時間ほど駆け続ければ、やがて港湾都市ヤムの入り口に到着する。潮の香り漂うそこは、洗練され落ち着いた景観のカタルとは全く違っていた。
「わ……ぁ!」
前方に広がるのは多種多様な色の洪水。金糸銀糸も眩い反物や、見たことのない意匠の陶器、異国情緒たっぷりの装飾品には大ぶりの紅玉・碧玉が嵌めこまれている。また見事な螺鈿細工の化粧小箱には練り香水や白粉の数々が収められていて女性たちの目を引く。そんな雑多にも見える店たちの間を漂うのは、食欲をそそる香ばしい香り。
店の数の多さに加え、大通りいっぱいにごった返す人の多さは、リーネンの度肝を抜くのに相応しい迫力があった。
「今日は、お祭り? 国中の人が集まっているの?」
目を丸くしている少女を馬から下ろし、大通り入口にある厩に預けたヨシュアは笑顔で答えた。
「そうですね、祭りとは違いますが似たようなものでしょうか。今日は二カ月ぶりに交易に出ていた船が帰ってきたので、かなり活気づいているんです」
「欲しいものがあったら遠慮なく言うんだぞ、リーネン。こいつの財布事情は心配しなくていいからな」
「姉さん、教育上大変よろしくない発言は控えて下さい。リーネンは人を疑うことを知らないんですから、真に受けるでしょう」
「なんだお前、そんなに懐具合が寂しいのか?」
「そうじゃなくてですね」
なんだかんだと言い合う二人に挟まれた格好のリーネンは、まっすぐ歩くことすら困難な大通りへと一歩を踏み出した。
「安いよ、安いよ~!」
「今日は良い新茶が入ったから試飲してってちょうだいよ!」
「奥方や恋人への贈り物に東方の首飾りはいかが? 碧玉のいいのが入ってますよ!」
両脇にずらりと軒を連ねる店のほとんどにたくさんの人々が群がっていて、遠目からでは何の店だかまるで分からない。往来を行きかう呼び込みの声で、ようやくそこが何の店か分かるくらいだ。
人々の活気あるやり取りと談笑で辺りは騒然とし、大声を張り上げなければ隣にいるヨシュアに声が届かないほどだ。
活気。熱気。生気。そういったものがむせ返るほど溢れている。
「すごいね、ヨシュア! あ、声、聞こえてる?」
「ええ、大丈夫です。ちゃんと聞こえていますよ」
生まれて初めてかもしれない。非常事態でもないのに、こんな大声を出すのは。
でも、気持ちがいい。
なんだか浮き立つような気分になるのは、この場を支配する力強いエネルギーのせいか?
大声を上げる度に、何かの殻を破るような解放感を彼女は覚えた。
「みんなお買い物に来てるの?!」
「そうですよ。ここでしか手に入らない交易品を求めて、入船日は皆が押し寄せるのです。これが我が国最大の特色ですよ」
「すごいね、みんな楽しそう!」
「あなたも、楽しんでいってくださいね」
賑々しい大通り。ごった返す人々はまるで濁流のように流れてゆく。
物珍しげにキョトキョトと見回す少女の姿は小さく、うっかりしたらこの流れに飲み込まれ、はぐれてしまいそうだ。そんな危機感を抱いたヨシュアが少女の小さな手を握る。
「?」
見上げてくる不思議そうな顔に笑顔を返して。
「ここではぐれたら最後ですから。迷子にならないよう手を繋がせてください」
「……」
きょとりと、大きなすみれ色の瞳が不思議そうに何度か瞬いた。
その様に青年は即座に己の失態を思い知る。
しまった。この少女は見た目こそ幼いが、立派な適齢期のご婦人だったか!
「あ、すみません不躾で。じゃあ、チェーリアに!姉さん、リーネンの手を引いて……」
慌てて迷子防止の役割を姉に譲ろうとしたヨシュアだったが、ためらうようにきゅっと握りこまれた手に、続く言葉を失った。
「リーネン?」
「いいの。ちょっと、びっくりしただけ……こんな風にわたしに触れる人、いなかったから」
この身は生まれ落ちた瞬間から精霊の化身。
ゆえに軽々しく触れるなど恐れ多いことだと、遠巻きに見守られ続けた十六年間。
少女にとって崇められることは、距離を置かれることと同義だった。
父母でさえそうだった。兄以外の人間はすべて。
だから先ほどの乗馬といい今といい、人のぬくもりは久方すぎて、その温かさに戸惑ってしまう。
けれどこの国の人は―といってもヨシュアとその姉たちくらいだが―リーネンに触れることを躊躇しない。
それが不思議であり、そしてとても嬉しいと思った。
「このまま繋いでいても、大丈夫ですか?」
少し思案気に問う声に、少女はこくりと頷くと、握った手に力を込めた。
そして青年は少女の応えに微笑む。
「では、参りましょうか」
小さな手を包み込むように握り直して、ヨシュアは歩き出す。少女の小さな歩幅に合わせて。
大通りを進む度に「ヨシュア様!」と親しげに声をかける人々。それに愛想よく手を振ることで応えるヨシュア。
ナハルでは考えられない民との距離感を、リーネンは不思議な面持ちで眺めていた。
「みんな、ヨシュアのことがすきなのね」
大通りを抜け、人いきれが切れた所で、ふと聞こえたのはリーネンの小さな声。
「あんな親しげな人たち、初めて見た」
「そうですか? まあ、うちは王政ではないし、小さな国ですからね」
「あそこにいた人みんな、すごく楽しそうだったね」
少女の感想に、深い柘榴色の双眸がやわらかく細められる。
「国民の楽しそうな顔は、国を預かる者にとって最高の褒美です」
少し甘めの低音が潮風に乗ってよく響いた。
「国内が安定し、交易が活性化すれば、街が活気づく。それはすなわち民の幸せに繋がることになるから」
穏やかな声。けれどそこには強い信念が滲む。
「――ヨシュアが望むのは、みんなの幸せ?」
「ええ、もちろん。この国に住まう者の幸せを守るために、元首なんて地位に就いてますので」
微笑むその瞳は温かな柘榴色。
深く強い愛情を湛えて、彼はこの国を見据えている。
遠く、先の未来まで。
(……ざわざわ、する)
胸の奥、とても柔らかい場所で動き出す、何か。
それは喧騒のような、遠く聞こえる潮騒のような、曖昧だけど無視できないもの。
外せない視線の意味なんて分からない。それでもこの人を見ていたいと、不可解な欲求を抱きながらリーネンは案内されるまま歩いた。
そして人の流れに逆らわず、少しずつ方向修正しながら一件の店にたどり着いた彼は、気軽な様子で店主に声を掛けた。
「すみません、揚げ団子を一袋頂けますか?」
「おやヨシュア様。お久しぶりじゃないですか。今日は視察で?」
「あらやだ、本当。ヨシュア様、お久しぶりですね」
「お忍びですか、ヨシュア様」
店に並ぶ客たちにさざめきが走ったが、そのどれもが好意的なもので、彼らはヨシュアが店頭に並びやすいよう道を開けてくれた。
「ああ、すみません。ありがとうございます」
礼を述べながら店頭で小銭と引き換えに茶色い紙袋を受け取った彼は、それをリーネンへと差し出した。
「ここの名物なんですよ、揚げ団子。おひとつ如何ですか?」
「これ、食べ物?」
袋の中からはシナモンの甘い香気が立ち昇る。
温かい湯気が上がる茶褐色の丸い物体。
初めて見るそれがたくさん入った袋を渡されても、リーネンはじっと見つめるだけだった。
(これ、どうやって食べるの?)
そう、食器を使わない食事を経験したことがない少女は、この団子の食べ方が分からなかったのだ。
袋を持ったまま思案気に小首をかしげるその姿に、先にピンと来たのはチェーリア。彼女はリーネンの手元から団子を一つ取りだすと、そのまま口に放り込んで見せた。
「うん、旨いな。胡麻餡の風味が相変わらずいい塩梅だ」
「ちょっと、姉さん。何勝手に人のもの食べてるんですか」
「たくさんあるんだ。一つくらい、いいだろう。足りなかったらまた買ってやればいい」
「そういう問題じゃありません」
「……い、いただきます」
実演してもらったおかげで何とか食べ方は分かった。どうやらこれは手づかみで食べるらしい。行儀的にどうかと思うが、他に手段はないのなら従うまでだ。
おずおずと紙袋に手を入れたリーネンは、指で摘んだそれに軽く歯を立ててみた。
「っ! おいしい……!」
食べ方を逡巡しているうちに、ほどよく冷めていたのだろう。中に詰まった餡で舌を火傷することなく、少女は団子を美味しく頂けた。
胡麻の風味が香る餡は適度に甘く、揚げた団子の外側はサクッと、中はモチっとしていて食感もいい。
「良かった。お口に合うようで何よりです」
「これ、すき」
はふはふとまだ揚げたての団子をほうばる姿は小リスのようで愛らしく、見ているだけで眦が下がる。
と、そんな彼の前に紙袋が差し出された。
「おいしいから、ヨシュアも食べて」
「いいんですか? じゃあ、ありがたく頂きます」
そう言ってヨシュアが団子を取り出すと、今度はチェーリアへ向けて袋を差し出した。
「チェーリアも、はい」
「いいのか? おまえの分が減ってしまうぞ?」
「いいの。おいしいものは、半分こすると、もっとおいしくなるの。イーテがいつも、そう言ってたもの」
だから、と少女は後ろに立っていたガズラとカティーバにも袋を差し出した。
「いや、翠姫様。我々は……」
「半分こ、いや?」。
「ひ、姫様手ずから下賜されるなど滅相、もーっ?!」
不自然にくぐもった悲鳴は、足先にめり込んだチェーリアの踵のせい。
彼女はリーネンとガズラの間に身体を滑り込ませると、容赦なく彼の言葉を封じる手段に出ていた。
「~~~~っ!!」
あまりの痛みに正常な抗議すら出てこない。ただ、唇を噛みしめ痛みに耐えることしか。
そしてそんなガズラを尻目に、チェーリアはリーネンに向き合うと爽やかな笑みを浮かべた。
「すまないな、リーネン。もうひとつもらえるか?」
「ああ、俺にも頂けますかね」
姉の意図を察した弟も、さりげなくガズラとリーネンの間に割って入ってくる。そして、少女の視線を自分へと誘導した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ああ、あなたもちゃんと食べてますか? 他人にあげてばかりはダメですよ」
そう言うや否や、青年は取り出した揚げ団子をそのまま少女の小さな唇へと押し当てた。
「ほら、口を開けて?」
「ん、……むぐ」
「そう、いいこですね」
ヨシュアがリーネンの相手をしている間、後ろでチェーリアがガズラに耳打ちをする。
「過度の遠慮は拒絶と同じだ。この子を傷つけたくなくば、やめておけ」
それきり振り向くことなくリーネンの傍へと移動した彼女。その後ろ姿を見ながら、ガズラはジンジンと痛む足先へと視線を落とした。
リーネン王女は数百年ぶりにこの地に降臨した『翠姫』。
父や祖父、曾祖父、一族に連なる者すべてが彼女の出現を待ち望み、けれど願いは叶うことなく潰えた。そんな一族の夢を、彼女にお仕え出来るという僥倖を与えられたからこそ、ガズラは先祖代々の分まで誠心誠意、翠姫にお仕えする一心でここまで来た。
彼の王が命じなくても、エノシュにこの話を聞いた時から、自分は姫を連れて逃げる所存でいた。全ては彼女を守るために。
けれど、
「厄災から遠ざけるだけでは、守ることにならないのか?」
呟きは雑踏に紛れて少女には届かない。