日常、そして外出再び
「どこか解らないところがありましたか、リーネン?」
さらさらと動いていた羽根ペンが止まったのを見て、ヨシュアが問いかける。
ここは彼の邸宅内にある図書室。あの後、リーネンの面倒を全面的に見ると宣言したヨシュアだが、あいにく幼女相手に何をすればいいのか、右も左も分からない。なので彼は、まずリーネンと側近たちに彼女の今までの生活を詳細に聞いて回った。その結果、一般的教養から彼女に教える事が必要だと、彼は強く感じたのだった。
なぜなら『翠姫』として崇め奉られるリーネンは、ロクな教育を施されていなかったから。存在するだけで奇跡とされた少女に、モノや道理を教えようとする者はなく、彼女がまともな教育を受けたことはただの一度もなかったという。
そう、少女の持つささやかな知識は、すべて兄が持ちこむ本から得たものだったのだ。
(それじゃ飼い殺しも同然だろう!)
その話を聞いた時、ヨシュアはナハル国に対して複雑な感情を抱いた。
彼の王がなにを考えてそういった措置を取ったのかは知らない。そこまで深い付き合いをしてきたわけじゃないから。それでも愛娘に対してする仕打ちじゃないような気がしてならなかった。
そして彼は心に決めたのだ。右も左も分からないのは彼女も同じ。ならば自分が育ってきたように、彼女に様々なことを教え育てようと。
そして午前中はもっぱら図書室で彼女に勉強を教える事になったのだった。
「ここ、わからない」
「どれ。ああ、この意味はですね『褒美と罰則を明確にかつ公正に取り決めることが必要で、決して個人の気持ちでルールを変えてはならない』という意味ですよ」
「?」
「人は誘惑に負けやすいもので、特に権力を持つ者はその力に溺れ、好き勝手に振る舞いたくなる誘惑が、権力を持たない人よりも大きいんです。けどね、それをやってしまったら国が混乱してしまう」
「だからわざわざ戒めの言葉があるんですよ」と続けた青年の瞳には、そんな陰鬱とした色は見当たらない。
「ヨシュアは、負けてない」
本心からそう言ってくれるのが分かって、青年はその口元をほころばせる。
「そりゃ、これでもこの国の元首ですから。それに俺が権力を私欲で使おうものなら三人の姉から鉄拳制裁食らいますしね。命が懸ってると思えば、そんな浅はかなことはできませんよ」
そう言ってくつりと喉を鳴らす姿は、言葉の物騒さにも関わらず楽しそうだった。
「……ヨシュア、お姉さん好き?」
「好きですよ、もちろん。俺を育ててくれた人たちですからね」
「お父さまとお母さまは?」
その言葉を口にした瞬間、リーネンは己の失態を知った。今まで終始穏やかに笑っていた彼の表情に一瞬だけ憂いが走ったからだ。
「あ、聞いちゃダメ、だった?」
しまった、と顔に書いてある少女に、男は笑いかける。
「あなたは人の感情の機微に聡いんですね。……ああ、そんな顔しないでください。両親はね、俺が幼い時に亡くなったので実は彼らの記憶はあまりないんです」
それを悲しいと取るか、記憶にない分、両親を亡くした悲しみを引きずらないことをよしとするべきか。自分にはよく分からない。
「だから三人の姉たちが俺を育ててくれたんです。長姉アマーリアが教養全般と帝王学を、次姉チェーリアが武術を、そしてあなたも知っている三姉ルチアが政治家としての処世術や情報の活かし方を俺に叩き込んでくれました」
懐かしそうに語る彼。でもなにか今、おかしなことを聞いたような?
「……次姉が、武術?」
難しい顔で眉根を寄せるリーネンに、ヨシュアは「ああ」と気づいたように言葉を足す。
「俺の次姉は滅法腕の立つ人でね、実は今でもこの国の近衛兵団に籍を置いてます」
「お姉さん、が?」
「そうですよ、なにせチェーリア姉さんは女だてらに単身海を渡り、東方まで武術修行に行くくらいの変人でしてね。その甲斐もあって、今じゃ第二近衛兵団長を務めるくらいの猛者になりました」
「っ?!」
女性が軍にいること自体がおとぎ話だ。とはいっても、そんな書物を読んだことはないが。
衝撃の事実をにこにこと当たり前のように話すヨシュア。
その笑顔を信じられない面持ちで見つめていたら、ルチア同様人好きのする笑顔を浮かべた彼が告げた。
「我が国は近隣諸国とは違い女性が活躍できる国なんです。そのための共和制と言っても過言じゃない。うちは他国に比べて人口が少ないから、女性も立派な働き手として考えているためにね。とはいっても、この風潮は始まって日が浅いから、俺の姉たちのように飛び抜けた才能を持つ女性たちが、後続の為に地ならしをしている最中ですが」
そう告げる彼の表情はひどく誇らしげだった。自国を愛し、よりよい国を作っていく。その決意と覚悟を備えた貌。
静かな、けれど力強いそれに、少女のこころの内がそわりと動いた。
「まあ、これは我が国の話ですから、あなたの参考にはならないとは思います」
そう前置きしつつ、青年は少女の瞳を正視しながら続けた。
「でもね、リーネン。今日学んだ心構えは王族として大変重要です。私欲に流された王族に支配された国ほど不幸なものはないんです。誰かが不正に富を得たら、必ずどこかに歪みが生じる。そしてそれは往々にして力なき民であることが多い」
ヨシュアの瞳に見えるのは、過去の痛みか?
遠いまなざしをした彼は、滔々と語る。
「貧困は差別を助長し、やがて国力の衰退に繋がる。だから、忘れてはいけないんです。民の幸せの上に国が成り立つことを」
その声はリーネンと、そして彼自身にも向かっていた。
元首として日々を送る彼は、そうやって己れを自戒するのだろう。国のため、民のため、そこに住まう者たちへの義務として。
そんなヨシュアの姿勢を、リーネンは眩しいと思った。
王族としての心構えがどう必要になるのか、今はまだ分からない。けれど、ヨシュアと同じものを学んでいくのなら、いつか彼のようになれるかもしれない。
(そうなれたら、いいな)
間近にお手本となるべき人間を見つけた少女は、生まれて初めて憧れという感情を胸に抱いた。
そんなささやかな充実感に浸っている少女に、青年は「今日はここまでにしましょう」と声を掛けると、さっさと机上の本を片づけ始める。
「もう、そんな時間?」
「ええ、若干早いですが今日は出掛けたいところがあるので、早めに切り上げましょう」
「おでかけ……」
その言葉で思い出すのはこの国に来た初日、ルチアに連れられて行った服飾店。立ちくらみを起こしそうなほどの長時間、布を当てられたり巻かれたり採寸されたりと、正直に言ってもう二度と体験したくない記憶だ。
「……」
思いだし貧血を起こしかけたリーネンがやや青い顔をしているのを見て、ヨシュアも察したようだ。彼は笑いながら手を振り少女の想像を否定した。
「違いますよ、あなたの考えているようなことにはなりません。というかルチア姉さんと一緒でもない限り、あのような事態には二度と陥らないと思います」
「ちがう、の?」
「ええ、あれは姉さんの趣味が暴走した結果ですからね……本当にあの時はあなたにも、あなたの従者にも悪いことをしました」
でも、と続く言葉。
「これからも積極的に外には出ますよ。市街を見る事も国主として大事な勉強になりますし、なにより気分転換になりますからね。大丈夫、外出も慣れですよ」
(あ、やっぱりこの人、ルチアの弟だわ)
その口調は明るく茶目っ気のあるルチアそっくりだった。
姉の影響を強く受けた弟君は、これまたルチアに良く似た笑顔を浮かべながら「ちょうど今お話しした次姉が来ていますので、この後ご紹介しますね」と言った。
図書室を出て大広間へ向かう廊下は庭に面している。一歩そこへと足を踏み出せば、大きめに作られた腰窓からさんさんと差し込む陽光が、廊下を外と変わらぬ明るさに保つ。強い陽光が作り出す陰影は絨毯の色さえ変えるほどで、絨毯は暗赤色と紅緋の二色に分かれていた。
(不思議。道が別れているみたい)
所詮は同じ一枚の絨毯。分かっていてもリーネンはなんとなく、紅緋色の道を選んで歩いた。どうせ歩くのなら明るい方がいい。その方が彼に近づける気がするから。
視線の先を往くヨシュアの背中を見つめながらそう思う。
心根もその立ち姿同様、凛とした彼に追いつきたい。胸を張って、追いかけたい。
そんな願望が胸の内に生じ始めた少女は、明るい紅緋色の道の上を歩いた。
オーク製の扉を開けば、そこにはルチアとガズラ、エノシュにカティーバ、それと見知らぬ女性が並んでいた。
「あらリーネン、今日の分のお勉強は終わったの?」
「うん、終わったの」
「まあまあ、じゃあこれからお出かけね! 馬に乗りやすい格好にお着替えしましょうか」
リーネンでのリアル着せ替え人形ごっこが大のお気に入りの彼女は、こうやって機会がある度に自分コーディネートの衣装を少女に着せては悦に入っている。うきうきと脳内シュミレーションを行っているだろうルチアに構わず、ヨシュアはもう一人の女性の傍へリーネンを伴って足を進めた。
「リーネン、この人が先ほど話した次姉のチェーリアですよ」
「初めまして、カイツ共和国第二近衛兵団長を務めますチェーリアと申します、お会いできて光栄ですリーネン王女」
キビキビと自己紹介を済ませたチェーリアは、隙のない動作で跪くと少女の手の甲に唇を寄せた。
「聞けば祖国がいまは大変な状況にあるとのこと。ですが、この国に滞在中は私が全力でお守り致しますので、どうぞご安心下さい」
そう言って見上げてくる瞳は紅玉髄のようなオレンジがかった赤色で、光沢のある黒髪を結い上げることもせず無造作に背中に垂らしている。でもそんな素っ気なさがやけに格好よく見えてしまうのは何故だろう?
ルチアよりもヨシュアに似た面差しの彼女が挨拶を終え立ち上がった所で、リーネンは藤色のドレスの裾をつまみ軽く膝を折って返礼する。
「心強いお言葉、ありがたく存じます。リーネン・イシュー・ナハルと申します。チェーリア様」
未だ慣れない儀礼的な言葉を、それでもなんとか捻りだせたリーネンは、次の瞬間ぽんと頭を撫でられた。
「ああ、様付けはいらないよ。弟妹にもどうせつけていないのだろう? 私もチェーリアでかまわない」
「?!」
突然変わった口調にリーネンが目を瞬かせていると、頭上から呆れたようなため息が落ちてきた。
「チェーリア姉さん、もう少しくらい頑張って外面被れないんですか? 破綻するのが早すぎます」
「おまえこそ地が出てるがいいのか、腹黒愚弟よ」
「チェーリア姉様もヨシュアもそれくらいにしてちょうだい。リーネンが驚いてるわ」
仲がいいのか悪いのか、皮肉気な笑みに挑戦的な微笑で応戦する姉弟。それを諌めたルチアが、驚きに硬直ているリーネンに笑いかけた。
「ごめんなさいね、リーネン。この二人少し同族嫌悪の気があるみたいで、しょっちゅうこうなのよ。でも仲が悪いわけじゃないから安心してね」
「同族嫌悪するほど俺たちは似てません。それより人の話の聞かなさ具合はルチア姉さんそっくりですよ」
「この愚弟と似ているのはお前だろうルチア。腹黒具合がそっくりだぞ」
「……こういう時の意気投合具合もぴったりね、あなたたちって」
にこりと笑ったはずの笑顔がなんだか怖いのは仕様なのか?
室内の気温が2℃ほど下がった気がしたリーネンは、ふるりと肌を震わせた。
「さて、こんなところで時間を潰したらもったいないわ。さくさくお出かけしてらっしゃいな、ヘタレ元首と脳筋団長さん。リーネンに市場を見せるのでしょう?」
「ああ、そうですね。市場が活気づく時間帯にあそこまで行かないと」
「じゃあリーネンはお着替えしましょ。市場はとても混雑するから、動きやすく且つ可愛いものにしないとね」
うきうきとした様子でルチアはリーネンを連れ部屋を出て行く。そして扉が閉まって少しした後、それまでずっと黙っていたガズラが口を開いた。
「ヨシュア殿、先ほどルチア殿にもお願いしたが、街中へ外出されるのでしたら護衛として我々も付き添わせて頂きたい」
ガズラの願いに反応したのはヨシュアではなくチェーリアだった。
「ダメだ。地理に明るくない者を連れて行っても護衛にはならない。足手まといだ。そうルチアも言わなかったのか?」
「それは……」
そのまま言い淀む姿から、既に同じことをルチアに指摘され諭されたのだろう。なんといっても理詰めは彼女の十八番なのだから。
それでも諦められきれずにこうして懇願するのは、リーネンが『翠姫』だからか、それとも自国の王女だからか?
彼らの中の天秤は分からないけれど、大切なものをこの手で守りたいと願う切なる心は分かるから。
「ついてくることを許可してもいいですが、条件があります。ひとつは髪を染め、我が国の軍服を身にまとうこと。金の髪はこの国では目立ちますからね。ふたつめは、もし有事に陥った際、リーネン王女を避難させることを最優先としますので、あなた方のことは切り捨てます。それをご理解いただけますか?」
ヨシュアは淡々と条件を述べた。
「もちろんです。いざという時は我々が盾になりますので、どうぞ翠姫様をお守りください」
深々と礼を取るカズラに否応はない。
そして黒髪にカイツ国の軍服を着こんだ彼らが玄関先へと集まると、そこではちょっとした騒動が起こっていた。
「進めハザック! 進め!」
艶のある黒い毛並みの牡馬が興奮していた。
主であるヨシュアの命令を無視し、頑として動かないばかりか、強い不満を表すように鼻息も荒く、しきりに地面をかいている。
もちろんその理由は馬主であるヨシュアにはさっぱりだ。
「どうしたのですか?」
あごに手を当て思案顔のルチアにガズラが問う。
「う~ん、どうも弟の馬が機嫌悪くて走ろうとしないのよ。いつもはヨシュアの言うことをちゃんと聞く、いいコなのに」
大型の体躯といい、足腰の筋肉の付き具合といい、どうみても一級品の軍馬だ。それが命令に背くとは。
首を傾げるガズラとカティーバにルチアも困り顔で答える。
「本当に滅多なことじゃ興奮しないコが、今日に限って一体どうしたのかしら」
馬上で手綱を引き命令しても一向に聞き入れない。ただひたすらに何か不満を訴えるように強く地面をかいている。
その様を誰もが途方に暮れて見つめていた時、少し離れた場所でチェーリアの馬に同乗していたリーネンがおずおずと口を開いた。
「……おいで、ハザック」
小さなその呼び声に、ハザックは一声嘶くと嬉々として彼女の元へ寄って来た。
馬上にヨシュアを乗せたまま。
「なん、ですか……これは」
馬主である自分の命令を頑として受け付けなかった馬が、初対面の少女の言うことを聞いている。その事実に呆けていたヨシュアだったが、大人しくリーネンに額を撫でられているハザックの姿に、彼は深いため息をついた。
なんだこれは、馬の一目惚れか?!
「あのね、ヨシュア」
「……なんでしょう」
疲れた声しか出せなかったが、少女は気にせず続けた。
「この子、わたしを自分に乗せないなら走らないって言ってるの」
「……本気か、ハザック」
思わず愛馬『だった』(過去形)がつきそうなハザックに問いかければ、馬は一際高く嘶き肯定した。
「おまえ……」
主人を逆指名か。
軍馬にあるまじき態度に肩が落ちる思いで手綱を引いたが、やはりハザックは動かない。
「姉さんすみません、リーネンを」
馬を並列させ、チェーリアの前に座るリーネンへと腕を伸ばせば、小さな少女は見た目通りの軽さで、容易く持ち上がる。そして少女を己が座面の前に移すと、黒毛の馬は満足げに嘶き主人の命令通り歩き出した。




