変身、そして初外出
「どう思う、マハル」
リーネン王女との会談ののち、姉にたっぷりと説教と言う名の制裁を加えられたヨシュアは、官邸に向かう馬車の中で憔悴のため息と共にそう切り出した。
「率直に述べていいなら『あれで本当に十六歳なのか?』という疑心で溢れんばかりですね、この胸のうちは」
「……率直すぎる」
二頭立ての馬車は装飾こそ簡素なものだが、大人六人が乗っても余裕のある作りになっている。個人的には騎馬が好きなヨシュアだったが、仕事の時は元首という体面もあるためこれを使用していた。もっとも当初彼の周囲には「元首が乗る馬車に相応しくない。威厳というものをあなたはご存じないのか?」といった騒音しか奏でられない者が多かったが、そういう古い気質のものは時の趨勢と共に淘汰していった次第だ。
そういうわけで今ではこの簡素かつ実用性第一の馬車をヨシュア以下、上院である元老院の者たちはみな公用車として認めている。
その馬車にマハルと二人きり。腹心の部下であり義兄である彼を前にすれば、つい気も緩み『ここだけの話』もしたくなるわけだが。
「だってそうでしょう。一応断っておきますが、外見の問題だけで言っているわけじゃありませんよ。なんですかあれ、あの二文語。赤ん坊じゃあるまいし、もっとまともな話し方が出来ないんですかね? あれじゃ頭の中身も外見通りだと思われても仕方ありませんよ」
「……頼むから、まかり間違っても王女の前でその口、開いてくれるな」
「なに当たり前のこと言ってるんですか」
「いや、いつも以上にその毒舌に磨きがかかっているから、つい」
「つまりヨシュア様は、私がそれくらいの分別もつけられない痴れ者だと思っていると」
「すまん、俺が悪かった。凄むなよ、マハル」
なんせ直前まで姉にみっちりがっつり『紳士たるものとは』という説教を食らったばかりなのだ。それもさんざんヨシュアの不出来な部分を論いながら。
そのダメージがまだ癒えていない今、似た物夫婦のマハルからこれまたチクチクとした精神的ダメージを受けるのはごめん蒙りたかったヨシュアである。
塩をかけた青菜のように萎れた姿の義弟に、マハルもそれ以上追い打ちをかけることはなく、しばらく車内には石畳を回る車輪の音と規則正しい蹄の音が響いていた。
「とりあえず以降は当初の予定通りにしますよ、ヨシュア様」
「ん、……ああ。そうだな。まあ可能な範囲で王女に回す時間を作ってくれ。基本的に姉に彼女の世話は頼んでいるが、あまり任せきりでも悪いしな。――というか、ルチアに任せきりで放任なんて、あとが恐ろしくて俺には出来ない……!」
組んだ両手にあごを乗せて、思い詰めたような表情が彼の心情を物語っている。
そんな悲壮さを全力で醸し出す義弟と、その原因である妻の姿を思い、マハルは軽い嘆息を零した。
そしてその頃、ヨシュアの邸宅ではリーネンの染髪が始まっていた。
「本当に切ってもいいの? こんなにキレイに伸ばしてあるのに」
染髪をする段階になって、リーネンはルチアに「髪、切って」と言いだした。背丈と同様の長さを前にしたルチアが「染粉はこれで足りるかしらねぇ」と言ったのが発端だ。青銀色だから、求められるまま長く伸ばした。ナハルの民がそれを望むから。
けれどここはナハルではないし、今の自分に求められるのは信仰対象としての神秘性ではない。ならば不要なものは切ってもいいのでは、と考えた末リーネンはそう告げたのだった。
「いいの。ここでは、いらないから」
「……そう、ね。普通の女の子になるなら、ここまで長い髪はかえって活動の邪魔になるものね」
それ以上ルチアは何も言わず、リーネンの髪を切り揃え、黒い染粉で丁寧に染め上げていく。
そして光輝くような青銀色の髪が黒い帳に包まれた時、そこにいたのはただの童女だった。
さらり。軽くなった髪が風に揺れる。以前はその長さ、重たさゆえに揺れることなどなかった髪が。
「うん、我ながら良い出来だわ! やはり元がいいと、どんな姿でも美少女は美少女のままね」
「……かるい、すごく」
「それはそうよ。この髪、重たかったでしょう? 半分以上切ったもの」
切った髪を丁寧にリボンで縛ってから「これ、いる?」と聞いてきたルチアにかぶりを振って「いらない」と答えた。
それより今はとても気分がいい。それは頭が軽くなったせいか。それともありふれた黒髪になったことが原因か? なんにせよ、リーネンは生まれて初めて感じる解放感に心を躍らせていた。
「さ、変装も済んだし、お庭でお茶会でもしない? 今の時期はバラが見ごろなのよ」
柔らかい笑顔につられて「はい」と返せば、すぐさま手を取られて中庭へと連れ出された。
ルチアの案内で出た庭はキレイに刈り込まれた樹木と、鮮やかな色の花々で構成されていて、薫る風はほんのりとした甘さを含む。
ほんの少し歩いただけでも、この庭は相当な思い入れを以て作られていることが分かった。元の作りを活かし、人の手を入れるのは最小限。けれど過不足なく入った手入れは、設計者の愛情すら感じるほどだった。
歩きやすいよう設置された小さな石畳を通って庭の中ほどへと進めば、バラのアーチに出くわす。サーモンピンクのバラの下をくぐり、さらに歩を進めればやがて白い大理石で作られた噴水に出会った。
「噴水の先に大きな枝が張り出ているところがあるでしょ? あの下にテーブルがあるから、そこでお茶にしましょ」
陽光を受けきらきらと輝きながら流れる水は楽しげで、見ているだけで心がなごむ。
その先のやや奥まったところに設置されていたのは緑との対比が美しい白い卓と四脚の椅子。それらの上には適度な枝ぶりの樹木が覆い茂り、涼やかな木陰を作っていた。
「さ、どうぞ」
侍女に言って用意させたバスケットから、彼女は茶器と焼き菓子、それとポットを取り出してはリーネンにお茶を勧める。
爽やかな香気が鼻腔をくすぐる。外で飲むお茶は初めてだったが、意外なほどに心地はいいし、紅茶もいつもより美味しく感じる。
「どう? 外で飲むお茶もなかなか乙でしょ?」
ぱちりと音がしそうなウィンクと共に微笑まれる。同性なのにとても惹きつけられるチャーミングさ。
思わずまじまじと彼女の顔を見つめていたら、面白そうに「そんなに見つめられたら穴が開いちゃうわ」と笑われてしまった。
「ルチアは、いくつ?」
「あら? 女性に年齢を聞いちゃうの?」
「ダメ……だった?」
軽くなった髪と気持ちのせいで口まで軽くなってしまったようだ。自分は口下手であると知っていたはずなのに。
そんな反省が胸を去来しかけた時、ルチアは悪戯っぽく微笑んだ。
「そうね、もしあなたが男の子だったら即座に膝詰め説教三時間コースかしらね。レディの年齢を詮索するなんて男の風下にも置けないってね」
「……それ、『風上』じゃ?」
「あら、よく知ってるわね。でもこの場合は『風下』でいいの。だって目障りな存在を視界に入れるのは辛いでしょ? だから丸ごと消えて欲しくて使うんですもの」
にこにこと人のよい笑顔で氷点下の言葉を連ねるルチア。そんなイメージのギャップは自然とリーネンの脳裏に先ほどのヨシュアを思い出させていた。少し引き攣っていた彼の横顔。あれは見間違いじゃなかったのだろう。
「………」
思わずそっと目を伏せてから、リーネンは必死に話題を探す。何か、なにか話題をずらすもの。それを探して数拍、目を泳がせれば楽しげにルチアが笑っていた。
「このあと具体的に、わたしは何をすればいい?」
「そうね、具体的にはいま私とこうしてお茶をすることも『体験して欲しいこと』のひとつかしら。あ、そうそうこのあと疲れていないなら街に行きましょう。あなたの服やら装飾品やら色々仕立てたいのよ」
本当なら館に仕立屋やら装飾品の店主を呼びつければいいのだが、それではリーネンに狭い世界しか見せてやれないから、とルチアは続けた。
「あのね、リーネン。普通の人はみな、家の外で必要な品を買い求めるものなのよ」
「必要な品ってどんなもの? それに『買い求める』って、なに?」
「あ~、そこからなのね」
少女は思った以上に下界から隔絶されて生きてきたらしい。これは見た目年齢よりも、もっと幼子にものを教えるように接しなくては。
改めてリーネンの精神年齢を軌道修正したルチアは、少女の目の高さにカップを持ちあげて見せる。
「たとえばこれ。このカップね。あ、中のお茶でもいいわ。これらは元々この家にはなかったものなの。でも私が欲しいなって思ったから、陶磁器を扱っているお店から買ったのよ。通貨と品物を交換することでね」
「通貨は分かる?」と聞けば、「見たことはないけど、本で読んだことはある」と非常に頼もしい言葉が返ってきた。
(……箱入りにも限度があるわよ)
これはダメだ。百聞は一見にしかず。というわけで早速実地で教え込むしかないだろう。そう判断したルチアはさっさと席を立ちあがった。
「分かったわ、リーネン。こうなったらあなたが一人前になれるよう、お姉さんが手とり足とり全部教えてあげるわね」
言うや否や、ルチアは持ち前の行動力と機動力を生かして、早速少女を馬車に押し込むと街へと繰り出した。
初めて乗る馬車という乗り物。それを引くのは馬という生き物。車窓から流れる景色、頬を撫でる爽やかな風。自分を取り巻く総てのものが真新しくて、物珍しくて、リーネンは終始口を薄く開けっぱなしだった。
そしてルチアと言えばそんな表情のリーネンを、微笑ましそうに見守っていた。
やがて馬車はルチアお勧めの仕立屋に到着する。そこでのルチアはまさに水を得た魚のようだった。
様々な色合いの布をリーネンの胸に当てては「この色だと無垢なかわいらしさが引き立つわね」だの「でも大人っぽい小悪魔路線も捨てがたいわね」と唸ったり、店員と真剣にドレスの型について打ちあわせたり。
はたまた小物であるリボンやバッグ靴と、めまぐるしくかつ精力的に動くから、その勢いに完全に飲まれたリーネンは、思考も身体もほぼ硬直するといった有り様だった。
(ドレス作るのって、こんなに大変だったんだ……知らなかった)
いつも与えられるものを着ていた頃には、ドレス一着を作るのにこんな戦場じみた熱気が必要などと知りもしなかった。
それどころかこんなただの一枚の布がドレスに変わるなんて想像もできなかった。
疲れ果てたリーネンは用意された長椅子に腰かけて、今なお店員と熱く語っているルチアをどこか遠い目で見つめている。
(……疲れた。少し、ねむい)
あふ、と小さなあくびが出た。室内は陽光が入り込み、ほどよい温かさだ。止まることのないルチアの声が、どこか遠くに聞こえてくる。
とろとろと、意識が日差しに溶けてゆく。
とろんとした瞼を睡魔に抗うことなく閉じかけたリーネンは、意識を手放す寸前にカランというベルの音を聞いた気がした。
「姉さん! まったくあなたって人は、どれだけ周りに心配をかけたら気が済むんですかっ」
「っ?!」
突然静寂を破った声にリーネンはびくりと肩を揺らす。眠気がいっぺんに吹き飛んだ。聞いたことがあるような怒鳴り声で。
「なによ、ヨシュア。いきなり来て失礼な子ね」
「失礼で構わないです。だから家人に何も言わず勝手に出掛けるのは、やめて下さい」
「勝手じゃないわよ。ちゃんと御者のトーダには告げてるじゃない」
「なんでそこで自分が使う馬車の御者にだけ外出を伝えてるんですか、と言ってるんです。仕事を終えて帰宅してみれば、あなたと王……リーネン嬢が家からいなくなったと執事長と『彼ら』が半狂乱だったんですからね!」
そんな家人の出迎えを受け、帰宅早々というか一歩も玄関をくぐることなくヨシュアは馬を駆って街中に出戻ってきたのだ。心当たりを次々と当っていた彼が、姉御用達の仕立屋前に見慣れた馬車を見つけて、こうして飛び込んできた次第である。
「本当に、もう金輪際こういったことはお止めいただきたい!」
でないと外交問題に直結どころか、もし万が一リーネンの身に何かあったら即ナハル国に戦争を挑まれても文句は言えないだろう。もしくは問答無用で従属国になるかの二拓だ。
そんなおそろしい未来を想像してしまったヨシュアは、まだ整わない息を肩で継ぎながら、姉を見据えて凄んだ。
「これからは基本的に彼女の面倒は俺が見ます。姉さんには女手でなければいけない部分だけをサポートして頂く予定ですので、そのつもりで」
「ええ! そんなのダメよ。こんな可愛い子、誰が手放すもんですか!」
「姉さん! 遊びじゃないんですよ」
「あら、そんな四面四角な考えで柔軟な心が育つと思ってるの? 遊び心を教えてあげないと人間成長しないのよ」
「姉さんのソレは上級者向け過ぎます!」
話の通じない、もとい自分の欲望のためには人の話を一切聞かなくなる姉を前にして、ヨシュアの苛立ちはピークを迎えようとしていた。
「初級編なら俺でも充分でしょう!」
苛立ちを叩きつけるように言い捨てたあとに流れるのは沈黙。無音。静寂。
気のせいだろうか? 自分が『罠にかかった獲物』になったような気がするのは……。
「……言ったわね、ヨシュア。言質取ったわよ」
「っ!」
しまったと思っても、もう遅い。姉はにやりとしか評せない笑みを浮かべて自分を凝視している。
「人としてユーモアや笑い、楽しみ。それだけじゃないわ、喜怒哀楽すべての初級編をあなた、この子に教えられるのね」
「え……いや、それは……」
「『言質取ったわよ』ってさっき私言ったわよね? 男なら自分の言動に責任を持つべきだと、あなたアマーリア姉様に教わったこと、忘れたの?」
「っ……!!」
アマーリアは長姉だ。今は南の国ダロムで宰相の妻をしている。そんな彼女を一言で表すなら、それは『女傑』以外にない。姉であり母であり父でもあった彼女は大胆剛毅でその手腕は疾風迅雷。今のカイツ共和国と自分を育てた、まさに女傑なのだった。
そんな長姉の名を出されたヨシュアは、今まさにホオジロザメを前にしているようで、正直生きた心地がしない。
まずい。ここで今さら「できない」などと言ったら、三姉のルチアに「屋敷のてっぺんから命綱なしで飛び降りなさいな」と言われるよりも恐ろしい未来が待っている。
常々、そうこの国を離れ異国に嫁ぐ直前まで「正々堂々、自分の発言には責任を以て歩きなさい」と言い残していった長姉の耳にこの件が入ったなら、間違いなくアマーリアはこの国に乗り込んできて自分の根性を鍛え直すと言いだすに違いない。
「………」
一瞬のうちに脳裏を巡った幼い頃の記憶。それには苦痛と苦悩、それに苦難がもれなく付随する。思い出すだに呼吸苦に陥るような思い出の数々に、ヨシュアは顔色を失くして頷いた。
「……やります、責任を以て。彼女の面倒は俺が全面的にみます」
「よし、よく言ったわ! それでこそ私の弟ね」
満面の笑みに『嵌められた』ことを悟ったが、既に後の祭り。この時、カイツ共和国の元首はこの後の公務をほとんど擲っても、リーネンと共に過ごすことを決定づけられたのだ。
「大丈夫よ。マハルもいるんだし、内政なら私の得意分野よ。全面的に協力してあげるから」
満面の笑みで告げられた内容に力なくため息を零し、肩を落としたヨシュアだった。