契約、そして決意
そうして、完全に彼の姿が見えなくなった後、事の推移を見守っていたチェーリアが、おずおずといった態で口を開く。
「リーネン、その……ヨシュアは、どうなったんだ?」
あの傷、あの出血では助からない。少なくもない修羅場をくぐってきたチェーリアは、弟の置かれた状況を正しく理解していた。彼の死は絶対に避けられないものだと。
なのに、どうだろう? リーネンの膝の上で眠るヨシュア。彼はいま穏やかな寝息を立てている。血の海に沈んだ痕跡ひとつ残さずに。
心配と不安、それに疑問の入り混じった表情を晒すチェーリアに、リーネンが浮べるのはうすい微笑。
「ヨシュアは一度、落命した。だけど、彼の命運は精霊契約によって、わたしが変えたの」
「精霊契約?」
聞いたことのない単語に首を傾げれば、
「詳しくは言えない。でも、精霊がその生涯でたった一度だけ使える、特別な契約なの」
と、リーネンはそれだけ説明してくれた。
「そ~~~っ、そう、っか……!」
生涯ただ一度の契約。それを弟に施してくれた結果が死の回避なら、これ以上喜ばしいことはない。
尽きぬ感謝と感激の念に震える唇を噛みしめながら、チェーリアはその場にへたり込んだ。
「ありがとう、リーネン。ありがとう、本当に。弟を救ってくれて、なんと、言ったらよいか……!」
それ以上は言葉にならず、チェーリアは肺が空になるような吐息を吐く。情けないことだが、安堵と感謝に震える胸からはそんなものしか出てこない。
片手で顔を覆い、小刻みに震えるチェーリア。そんな彼女をしばらく見つめていたリーネンは、やがて言葉を選びながら、ぽつぽつと話しだした。
「あのね、もう少ししたらヨシュアも目を覚ますと思う。だからその前にチェーリアにお願いがあるの」
懇願を宿す響きに「うん?」と応じれば、美しい人はその顔にほんの少しの憂いを刷いて、言葉を継いだ。
「さっき話した精霊契約の話、あれは誰にも言わないで欲しいの。絶対、誰にも。ヨシュアにさえも」
「え? あ、ああ。お前がそれを望むなら私に否はないが……」
「でも、なんでだ?」と問えば、彼女は少し困ったように眉尻を下げた。
「精霊契約をしなければ、ヨシュアの死は覆らなかった。けれど、もしそれを彼に知られたら、わたしは自分の願いとは関係なく、この契約を解かなければならないから」
だから、と締めた言葉にチェーリアの血の気はひいた。それはもう脳貧血を起こす勢いで。
嫌な予感がする。否、嫌な予感しかしない。
「それは……その、口外すれば、もしかして、弟は死ぬ……とか?」
「ええ」
端的な肯定の言葉に、チェーリアは固く心に誓った。
例え拷問を受けようとも、この秘密は墓まで持っていくのだと。
「約束する、死んでもこの秘密は口外しない」
きっぱりと武人らしい高潔さで答えるチェーリアに微笑み返しながら、
(騙してごめんなさい、チェーリア)
心の中でリーネンは謝罪を口にした。
精霊契約にそんな効果はない。けれど口外して貰って困るのは本当。だから嘘をついた。人間が精霊契約について知らないことを、いいことに。
小さなちいさなため息は、空気すら震わせず彼女の口内で立ち消えた。
「ところでヨシュアはいつごろ目覚めるんだ? こんな濡れた大地で寝ていたら風邪を引いてしまう」
弟を案ずる姉の姿に、リーネンの笑みが深まる。
「大丈夫、もうそろそろ目を覚ますと思う」
それにヨシュアは天寿を全うするその時まで、病や怪我とは無縁の生活を送るだろう。
それは自分の真名を持つために。
精霊が、自然を構成する元素たちが彼に加護を与えるから。
(死という絶対を、世の摂理を覆すにはこれしか方法がなかった。そして……彼は選ばれたの。古の、あの人のように)
思い起こすのは初代と呼ばれた時代。彼女が加護を与えたのは、自らを省みず他者のために邁進する男だった。誰もが私欲のために非道を尽くす世界で、希有な性質に興味を持ち観察したのが始まり。長く続く観察は、いつしか彼女の心を男へと惹きつけ、やがてそれは恋情へ変わった。
だから彼女は契約を施した。恋しい男が死にゆく、その事実を捻じ曲げるために。
それが史上初めての、そしてそれ以降は今この時まで例のない『精霊契約』だった。
(精霊に愛された人間は、その命と引き換えに一度だけ命運を曲げられる)
すこやかに眠るヨシュアの髪を撫でながら、リーネンは滔々と流れる思考に身を浸す。
世界を造り、また世界を担う精霊。その命は彼ら自身のものであるが、彼らはたった一度だけ、自身が望む相手にそれを与えることができる。
隷属の由に、契約の印に、そして愛情の証に。
そして授与された人間は、たった一度だけ不可避であるはずの命運を曲げることができるのだ。
精霊の命とも呼ぶべき『真名』をその身に宿し、生まれ変わることで。
(でも、だからこそ、あなたは何も知らないままでいて)
心を捧げた人に、この心を知られることは望まない。
だってヨシュアには自由に生きて欲しいから。
生まれてこのかた、息をするだけの存在だった自分に、逃げることでしか生きられなかった自分に、生きている意味を教えてくれた人。
人は幸せになるために生まれてきたと、教えてくれたヨシュアだから。
(あなたを、契約なんて窮屈な鎖で縛りたくないの)
自分の意思で選択し、自分の足で立つことを教えてくれたヨシュア。
だから彼も自由にして欲しい。
――いつか、彼だけの伴侶を選ぶ、その時でさえも。
「……」
僅かに疼く胸から目を逸らして、リーネンはゆったりと青年の黒髪を梳き続けた。
やがて彼が目覚め、驚愕に固まるその瞬間まで。