契約、そして別離
「うわっ?!」
バン!
音ならざる破裂音と身体が吹き飛ぶ衝撃は、ほぼ同時だった。背中から壁に叩きつけられた衝撃に息がつまり、意識が一瞬飛ぶ。
「リッ……っ、ごほっ、リー、ネン……?!」
痛みと衝撃に喘ぐような呼吸をくり返しながら、妹の名を呼ぶ。
けれど応えは返らない。
「リーネン……う、げほっ、かはっ……」
受けたダメージは決して少なくない。それでもイーテは痛む身体をおして起き上がる。
そして彼は妹を見つけた。
天上も壁も扉も。彼女を取り巻く周囲を根こそぎ吹き飛ばし、半壊させ露わになった空の下で。
「う……く、はあっ……!」
そんな妹はイーテの前で身を二つに折り、必死でなにかに耐えている。
それがなんなのか分からないまま、イーテの目はリーネンに釘づけになった。
ゆらゆらと、風に煽られるかのように舞う少女の髪。
それは揺れながら伸びてゆき、本来の青銀色を取り戻していく。
「リーネン、君は……」
目を剥き変化してゆく妹を凝視する。
そう、リーネンは変化していた。この十年分の成長を遂げる形で。
「っく……うあっ……あぁ!」
ギシギシと軋む音が、遠く離れたここまで聞こえてきそうだ。
手足が、身丈が急激に伸びてゆく苦痛に、リーネンは歯を食いしばって耐える。
本来揮えるはずの力、その一端を取り戻すために。
(負け、ないっ……これくらい、なんでもない!)
ギシギシと骨が軋み、腱が伸ばされ、あるいは千切れる音が体内でいくつも響く。
時を留め、子供であることで世界から逃げ続けた十年間。その反動は大きい。
ともすれば意識が飛びそうな激痛の中、それでもリーネンが意識を手放さないのは偏にヨシュアの存在があるから。既に事切れた彼の存在だけが、少女の意識を強く保たせた。
「死なせ、ないから……!」
細く幼くあった少女の身体が、女性らしいまろみを帯びた身体つきに変わる。
均整のとれた、しなやかな肢体に。
「あああああああああああああああああああああああ!!」
高くもまろやかさを帯びた声が轟き渡る。そして、『翠姫の声』に大気が呼応した。
急激に日が翳り、空が暗くなる。見上げれば広大な円盤状の雲がこの地一帯に覆いかぶさっていた。
「な……?!」
イーテの驚きをよそに、鈍色の雲が吐き出すのは集中豪雨だ。
バケツの底を抜くどころの騒ぎではない。この国最大の湖であるシャマイム湖をひっくり返したかのようなどしゃぶりに、1m先すら見えない状況が訪れる。
「リーネン!!」
叫んだはずの自分の声すら豪雨にかき消され聞こえない。煙幕のような雨が妹の姿をかき消す。
顔を上げていることすら難しい集中豪雨に耐えていたイーテは次の瞬間、自分の耳を、そして目を疑った。
「うそ……だろう?」
轟々と叩きつけるように降り注ぐ雨が、目の前で変化を起こす。
それは降り注ぐだけじゃない。
巨大な積乱雲が大地へと手を差し伸べるように、そして水没した大地がその手をとるかのように。
―――水が渦を巻き、天へと昇ってゆく。
「水が……?!」
刻一刻と大きくなる水柱は、やがて水竜巻へと姿を変え、天と地を繋ぐ柱となる。
轟々と音を立て木々をなぎ倒し、土砂を巻き上げ、触れるもの全てを巻き込み破壊しながら天へと還る。
視界さえ奪う凄烈な豪雨と、天に轟く水竜巻がもたらす暴風。
そして暗雲たる世界を切り裂くように白く照らすのは雷光。
まるで破滅の時を迎えたかのような光景を前に、この場に居合わせた人間は矮小な我が身を抱えて小さく蹲るしかなかった。
そんな中、リーネンの周囲だけは静謐に閉ざされていた。
「死んじゃダメよ、ヨシュア。あなたはまだ、死んではダメ」
物言わぬ、すでにそれは骸と呼ぶべき身体を抱きしめて歌うように囁く。
すらりと伸びた長い腕で彼を抱きしめれば、命の抜けた身体はこの雨のように冷たかった。
「……いま、助けるわ」
年相応の身体を手に入れたことで、今彼女が揮える力は充分なほど。
けれどそれはあくまでこの世の理の範疇でのこと。
死した者を蘇生することは叶わない。
―――普通なら。
なにはともあれ、まず行うべきは修復。
リーネンは己が支配下にある水の元素たちに語りかけた。
「戻りなさい、ヨシュアの命を形作る水たちよ。あるべき場所に戻り、速やかに壊れた宿主の肉体を治して」
世界に遍く水の元素たちに「かくあるべき」と指向性を持たせれば、彼らはリーネンが望むとおりの働きをする。
それはまるで逆再生の映像を見るかの如く。ヨシュアの周囲に溢れていた鮮血は見る見るうちに彼の体内へと戻り、開いた傷口が再生してゆく。
ひと呼吸ほどの間に傷が修復した身体。けれど生命活動を再開することはない。
死者を生き返らせることは、世の理に縛られた精霊には不可能だから。
それが分かった上で、リーネンはヨシュアを見つめた。
目を瞑る姿は眠りの淵にいるような穏やかさだ。
その精悍な顔立ちに触れる。―――冷たい頬に、胸が軋んで息ができない
けれど、涙をこぼす代わりに乙女は囁いた。
「……目を開けて、名を呼んで。もう一度、あなたの瞳にわたしを映して」
物言わぬ人の頬を両手で包み込み、少女は言葉を重ねる。
「約束したでしょう? わたしの幸せ探しに付き合ってくれるって」
目を閉じた彼の、冷たい額にこつりと、額を押し当てて。
「わたしね、ヨシュアがいないと、幸せなんて探せないの」
少女は希う。この男の存在を、その命を。
彼が生きる未来を。
その為に、彼女が差し出せるものはたったひとつ。
決心など、意識する前に決まっていた。
『――我、水を担う精霊が一柱は、ここに精霊契約を結ばん』
口をつくのは古代精霊語。
人には理解し得ないそれは、精霊を精霊たらしめる物のひとつで、言葉自体が甚大な力を持つ。
それ故に多用することは精霊の中でも禁じられた言語である。
『其は契約、其は盟約』
リーネンが言の葉を紡ぐ度に、力ある言葉は発光し、彼女の周囲に火花のような閃光を放つ。
『人の子よ、我は求めん、汝が存在を』
彼女の口から紡がれる精霊文字は、発光したまま複雑な文様を描きヨシュアとリーネンの周りを浮遊する。
『高潔たるその魂を我に捧げよ。さすれば我は命を以てそれに応えん』
燐光のように仄白く青く輝く文字は、円盤状に展開してゆく。
その中心でリーネンは、精霊の命とも言うべき己が真名を口にした。
『アルナイル・アルマー』
秘匿されるべき真名が、現世に姿を表す。
空のように澄み、海のように深い青色の光が、リーネンの身体から陽炎のように立ち上る。
とくん とくん
青い光は鼓動のように強弱をつけ明滅する。
それこそが精霊の力の源であり、命とも呼ぶ『真名』であることを、この場にいる彼女だけが知っていた。
失った命は戻らない。それが世の摂理。
人も、精霊も、他のどんな生き物だってこの摂理を越えることはできない。
でも、と彼女は思う。
(たった一度だけ、精霊は選ぶことができる)
とくんとくんと光は拍動し、一拍ごとにその輝きを増してゆく。
(この命を、自分のために使うのか、それとも他者に与えるのか)
他者に与えたなら、自分は終生その者に隷属することになる。
真名を持つ者の命令は絶対服従。しかも精霊の力も、その者の傍にいなければ使えない。
それは命を握られるが故の、文字通りの隷属だった。
それでもリーネンはためらうことなく、真名をその身から剥がしにかかった。
青く輝く命。それは今、乙女の口元に凝集する。
そして、白く色が抜け落ちたヨシュアの口唇へと、彼女はそっと自身の唇を重ねた。
『我が真名を与えることで、契約は結ばれたり』
口移しで明け渡す、命。
青く輝く光がヨシュアの中へと吸い込まれ、契約が締結される。
その瞬間。彼らの周囲に展開していた円環は一気に球体に凝縮し、鋭い閃光と共に弾けた。
「リ……ッ!?」
まるで太陽のように痛烈な光が視界を白く焼き尽くす。
とっさに腕で目を庇ったが、残像が白く尾を引いて何も見えない。
そんなイーテの横を、少しして誰かが走り抜けた。
「ヨシュア!」
女の声がする。これはカイツ国元首の傍にいた武官の声か?
「ヨシュア」と何度も叫びながら走りゆく彼女の足音。それがバシャバシャと水音を立てていることに気づいて、初めてイーテは暴風雨が止んでいることに気づいた。
「ヨシュア! ヨシュアは無事か?!」
水を蹴って駆けた先は、弟を膝に抱く女性の姿だった。
「大丈夫。彼は生きている」
そう答えた乙女の髪は濡れたように輝く青銀色。長く伸びたそれは、まるで小川のように地に流れている。
暁の空のような紫色の双眸は、チェーリアを認めるとやわらかく細められた。
「おまえは……リーネン、なのか?」
「そうよ。これがわたしの本来の姿」
仄かな微笑と共に断じる姿は、まるで朝露に濡れた白百合だ。
恥じらいを含みながらも花開くその姿は、清廉さと同時に艶やかさを漂わせて、見る者の心を奪ってやまない。
(これが、あのリーネンなのか?)
正直なところ信じられない面持ちで、チェーリアはリーネンを凝視していた。
たおやかな曲線を描く身体。すらりと伸びた手足。
急激な成長にところどころ破けた服が、彼女のしなやかなラインを強調している。
白く滑らかな陶磁器を思わせる素肌を晒して。
「……っ」
すっかり年頃の乙女に成長したリーネンを見ていると、禁忌の念が湧きおこるのはなぜだろう?
(同性なのに、なんで後ろめたさを感じるんだ?)
ドギマギする心を持て余して、チェーリアはそっと目を逸らした。
「え、と……その、だな」
なんとなく居たたまれない気分を紛らわすために口を開く。と、その時あらぬ方向から掠れた声がした。
「リーネン……」
ひどく力のない声。でもそれは直前まで自分たちを追いつめていた男の声だ。
ハッと身構え、重心を低く保ったチェーリア。けれどそれは杞憂だったようだ。
離れた所に立つイーテは、絶望を凝らせたような姿で彼の妹だけを凝視していたから。
「君は……」
呆然と。魂が抜けたような声はリーネンだけに向けられている。
自分と同じ、年相応の姿となった妹に。
「……」
「……」
交差するのは似ていて非なる色の双眸。かたや暁の空のように煌めき、かたや斜陽の空のような紫暗色で。
かつてうり二つだった二人の顔は、今やまるで別人だ。
その見覚えのない顔を見つめながら、イーテは口を開く。
「……君は、その男を選ぶの?」
それはまるで苦渋そのものを凝集させた声だった。絶望したたる声だった。
けれど対するリーネンは、憂いをその瞳に宿しながらも、迷いのない声音で答える。
「ええ、わたしは彼を選ぶわ」
涼やかな声が、凛と空間を震わせる。
「もう、逃げたくないの。……だから、イーテとは一緒に行けない」
きっぱりと言い渡される、それは別離の言葉。
大気を震わせる音の意味が分からない。……否、分かりたくもない。
それなのに彼女の言葉を理解した身体は、瘧にかかったようにガタガタと震えだす。
違う。違う 違う 違う 違う 違う!!
頭の中でその一言が木霊する。幾重にも幾重にも。
ぎちりと拳が音を立てる。いつの間に握りしめたのか、過ぎた力に拳は色を失くし、堪え切れない現実に小刻みに震えている。
「君、は……僕以外の……っ」
続く言葉はなかった。だって、そんな現実は到底受け入れられない。
母の胎内から共にあった半身。原初より一緒の半身が離れていくことなど、到底受け入れられるはずがない。
「……」
衝撃が彼の精神を突き崩す。地面が崩れ、奈落の底に墜ちていく感覚。
どこまでも、どこまでも墜ちてゆく、落ちてゆく。
「―――――……ど、こ? リー……ネン」
虚ろな瞳のイーテが周囲を見回す。
まるで誰かを探すかのように。
「君は……どこに、いるの?」
静謐な表情で見つめ返すのは知らない乙女。
でもおかしいな。彼女は自分に似ている気がする。
そう、まるで妹の面影を宿すように。
「リーネン……」
ふらりと、あらぬ方向へ一歩踏み出すイーテ。その姿をリーネンは悲しげに見つめていた。
「どこ……?」
愛する兄。そう、確かに自分は彼を愛していた。ううん、今でも愛している。
でも、ダメなのだ。彼といることは変化を拒むことに他ならない。
兄といる限り、自分はひとりで立つことすらままならないだろう。
たぶん、一生。
だから自分は言わなければならない。
「さよなら、イーテ」
夢の中を歩くような、そんな覚束ない足取りで遠ざかる兄の姿を、リーネンは静かな面持ちで見送った。