再会、そして乖離
ナハル国は周囲を山岳に囲まれた土地にあり、気候は年間を通じて温暖だ。このキドゥーシュ大陸ではカイツ共和国に次いで面積は狭いが、温暖で肥沃な土地柄、耕作と酪農に適し、安定した国益を得ている。
そして何より精霊信仰の発祥地であるこの国は、その事実から周辺諸国より尊崇されたため、自然と不可侵条約が結ばれていた。
そんなナハル国の国境直前でリーネンたちに追いついたのは執念か、はたまた僥倖か。なんにせよヨシュアは国にとって最悪の事態を回避できた。
しかし。
「このままナハル国に戻ります。それが王女としてのわたしの務めだから」
凛然と告げるリーネン。
その瞳の強さにヨシュアは説得の無駄を知り、ナハル国に同行することに決めた。
国境警備隊に『リーネン王女返還』を申し出れば、彼らは国境沿いの街アヴィールに建つ王家の離宮へと案内された。
『ナハルの青い宝石』と名高いペラヒム湖のほとりに建つ離宮。それは、深い緑に囲まれて建つ、白い花崗岩の建築物である。瀟洒なデザインは無垢な乙女を思わせる優美さであるが、同時に風雨に耐えた時間の積み重ねが、一種の泰然さを醸し出しては来客を迎える。
その中の一室である応接間は南向きにあった。
大きな掃きだし窓が半円状に三面設置され、温かな午後の日差しを存分に取り入れている。臙脂色のビロードに金の刺繍が施されたカーテンやソファは、午後の日差しと相まって温かな印象を見る者に抱かせた。
そんな室内に案内された後、メイドは「こちらに後ほどイーテ様がお見えになりますので、しばらくお待ちください」と一礼すると、彼らを部屋に残して扉を閉めた。
室内にしばし静寂が訪れる。
さてこれからどうするか、とヨシュアの思考が回り出した時、くっと外套を引かれる感触に気づく。
振り向いた先にはすみれ色の双眸。
「ごめんなさい、ヨシュア。勝手をしました」
少女はひたと青年を見つめ、彼に掛けた迷惑を謝罪する。
けれどその表情には悔いるところがない。
己がすべきことを全うする。そんな意志が透けて見えた。
「……」
これがあのリーネンだろうか?
青年は瞬き、いま一度少女を見つめた。
人形のように精緻な美貌。けれど中身の伴わない空虚な美しさ。
そんな印象を受けたことが、遠い昔のように思える。それほど眼前の少女は精彩を放っていた。
(たった三日、顔を見なかっただけでこんなにも変わるのか……)
己の役割を知り、その為に行動する。その尊い意思が彼女を内から輝かせる。
まばゆい少女の姿を、目を細めて見遣るヨシュア。
彼女はいま、自分の足で歩きだそうとしている。
それは友人として、そして彼女の師として接してきた彼にとって、とても感慨深いものだった。
「リーネン。君は君のなすべきことを見つけたんですね」
確認の声に少女は頷く。
「この国で何が起こっているのか、それを確かめに。そして必要ならあるべき道を取り戻させるために」
「そうですか」
大丈夫。この子は自分の立場と責を知っている。
そう確信したヨシュアは微笑んだ。
「では、君の思う通りに」
細く小さな肩に手を置いて。
「大丈夫、何があっても俺は君の味方です」
そう続ければ、極上の笑顔が返ってきた。
リーネンの帰還報告を受けたイーテは、逸る心のままに馬を飛ばし、アヴィールの離宮へと向かっていた。
妹の存在を公にしてはならない。彼女の姿を数多の人間に見られると、長年温めてきたイーテの計画に支障が出てしまうから。だから彼は離宮に渡るのにも最低限の護衛だけを連れ、極秘裏に動いていた。
アヴィールの離宮は、元は母の生家だったという。もっとも彼女が王妃に選ばれた後、一家は首都に居を構え直したため、そこは王家所有の離宮となった。
ペラヒム湖のほとりにある第一の門を通過したあと並木道を通り、湖へと流れ込む渓流に沿い、更に幾つかの門をくぐること数キロの道程を越えるとその離宮はある。白い花崗岩で作られた城は中央に八角形のドームが乗り、両端には尖塔が並ぶ。目に入る限りの壁面には花や鳥の彫刻が施され、正面玄関前の二つの円柱に巻きつくように彫られた草花の文様がこの離宮の優美さを前面に押し出している。
衛兵が管理する正門を進み、巨大な絵画が飾られた玄関ホールを抜けると、マホガニー材で作られた階段に出る。艶のある錆色の階段を上って、数々の名画が飾られた長大な廊下を進むと、目指す応接間に到達した。
この奥に最愛の妹がいる。その事実だけでイーテの胸は歓喜に打ち震える。
ともすれば震えてしまいそうになる腕に力を込めて、彼は真鍮製のドアノブを引いた。
開かれた扉の先。そこには白磁の肌に透きとおったすみれ色の双眸を持つ妹がいた。髪は短く背中の中ほどで切り揃えられ、また黒く染められていたが間違えようもない。
彼女こそが、分かたれたこの身の半分なのだから。
「リーネン!」
こみ上げる情動にたまらず身体が動く。
そして気づけば浚うように妹を抱きしめていた。
「っ……」
加減できない力に、息が詰まったのだろう。
押し出されたような妹の呼気にハッとして。
見失いかけていた感情を御すると、イーテはゆったりとリーネンを抱きしめ直した。
「君が無事で、よかった……!」
小さな彼女の頭にキスを落とし、そのまま抱き上げれば、リーネンもまたイーテの頬へキスを返しながら告げた。
「心配かけてごめんなさい、イーテ。でも何も心配いらないの。カイツ共和国ではとてもよくしてもらったから」
リーネンの目線が後ろに流れる。つられて見れば、そこにはカイツ風の衣装をまとった男女が一組。それに裏切り者の元側近に酷似した男がいた。
(あいつが、カイツ共和国元首ヨシュア・カデラートか)
理知的な印象の面差しが静かにイーテを見つめている。思慮深さを湛える石榴の双眸で。
(この男、それなりに出来る、か)
観察眼は人並み以上だと自負しているイーテの見立ては外れることが少ない。その観察眼を以てして底が見切れない相手はそれだけ用心深く思慮深く、また計算高い人物である可能性が高い。
まあ仮にも一国の元首であれば、それくらいの腹芸は必須事項とも言えたが。
なにはともあれ、ここから先は手の内を読まれないことが肝要だ。
腕の中の至宝をなんとしても守るために。
大人しく抱かれているリーネンのこめかみに再度唇を寄せると、イーテは傍らに控える側近へと言い渡した。
「アドム、後のことは任せる。手筈通りに進めよ」
そして踵を返した兄に驚いたのはリーネン。
「待ってイーテ、どこに行くの?」
「このままリディエル城に帰るよ。君も長旅で疲れたでしょ?」
その提案には頷けない。反射的に首を横に振ったリーネンは慌てて言葉を継ぐ。
「待って、その前にここできちんと話をさせて。お父さまを投獄したって本当なの?」
「その件は城に帰ったら話すよ」
それは会話ではなく一方的な宣告だった。
イーテは妹を抱き上げたまま、扉へと歩きだす。
「待って、待ってイーテ! ここでちゃんと明言して。私が帰って来た以上、カイツ共和国への宣戦布告は取り下げるのよね? じゃないとヨシュアたちが安心できないわ」
「それはアドムに任せるんだ。外交は彼の仕事だからね。君が関知する問題じゃないよ」
「違う、私が原因なんだから、関係ないはずない。お願い、イーテ。誤魔化さないでちゃんと説明して」
扉の外に出まいと、兄の肩を叩き抗議する。
「精霊の『力』を取引に、ツァフォン帝国を動かしたことも聞いたわ。だったら、わたしは無関係じゃない。イーテ、あなたはわたしに説明する義務がある!」
「……エノシュと、そこのカティーバは双子だったっけ。全く、裏切り者が多いと困るね」
そう言いつつパチンと指を鳴らすと、扉の外から複数の護衛兵が室内に飛び込んできた。
「重罪人たるカティーバを速やかに捕獲せよ」
「やめて! なんでなの、イーテ?!」
リーネンを抱くイーテの眼前で、護衛兵が半円状に展開する。それは敵を捕縛、あるいは殲滅するための陣形だった。
「イーテ、やめて、止めさせて! ここには国賓がいるのよ?!」
「国賓? 君を拉致監禁するのに手を貸した彼らが国賓? ……君は外の世界に出て少し毒されてしまったのかも知れないね」
可哀想に、と呟く兄が信じられない。この人はヨシュアをどうするつもりなのか?
ひどく冷たい声で、感情の抜け落ちた表情を晒すこの人は、本当にイーテなのか? まるで見知らぬ他人に抱かれているような怖気が走って、少女はふるりと身を震わせた。
それでも、たとえ尽きぬ違和感に肌が粟立っても、ここで怯むわけにはいかない。事の全貌を、真偽を明らかにし、兄の暴走を止めると決めて自分は帰還したのだから。
「イーテ、お願い! 話を聞いて!」
「今、君と話すことは何もないよ。少しだけ待っておいで、リーネン」
平坦すぎる声がリーネンの願いを退ける。
そんな兄妹のやり取りのさなか、ヨシュアたちも既に臨戦態勢に入っていた。
ヨシュアは腰を落とし重心を低くし、隣に立つチェーリアもわずかに膝を緩め、瞬時に動き出せるようにしている。そして捕縛を命じられたカティーバに至っては、既に左腰にはいた剣の柄に手を掛け現状打破の隙を探っていた。
この先はどう考えてもロクな展開にならない。そう確信を持つのはイーテから向けられる剣呑な気配のせいか。
怜悧さが際立つ美貌。けれど薄皮一枚の下で蠢くのは、殺気すら帯びた憤怒の情。
それこそ噴火直前の火山のように脈動しているそれは、不吉しかもたらさない。
「チェーリア」
圧倒的に不利な状況を正しく把握して姉の名を呼ぶ。反応は目線だけで来た。
眼前の敵は十二名。そのどれもが剣を抜き、主の号令を待っている。出口はひとつ、彼らの後ろ。つまり退路は塞がれている状態だ。後ろの窓は二階という構造上使えないだろう。となれば。
(正面突破しかない)
ちらりと前方へと視線を送れば、そっと頷いたチェーリアが僅かにヨシュアの前に移動し、腰にはいた七節棍へと手を伸ばす。
遠くは海の向こう、東方大陸で武術修行していた頃からの、彼女愛用の得物を。
「イーテ、ダメ! 剣を納めさせて! ヨシュアたちは悪いことなど何もしていないわ!」
少女は叫ぶ。兄を翻意させようと。
「彼らはとてもやさしい人よ。この世界で生きていくための常識を、教養を教えてくれた。乗馬も、買い物も、誰かと飲むお茶のおいしさも、みんな彼らが教えてくれたの」
「ねえ、イーテ」とリーネンは説得の言葉を紡ぎ続ける。それが兄の逆鱗に触れているなどとは、思いもせずに。
「ヨシュアはね、わたしの初めての友達なの。だからお願い、彼を傷つけないで」
真摯な願いを込めて、兄を見据える。哀願にも似た色彩を纏って。
「っ!」
その言葉がイーテの中の引き金を引いた。
リーネンを誰より愛し慈しみ、掌中の珠として守ってきたイーテ。だからこそ彼は焦がれるほどに夢見てきた。いつか、それは遠くない未来に、妹を連れこの大陸から逃げ果せることを。籠の鳥だった妹を解き放ち、誰も知らない土地へ、なんのしがらみもない世界で、共に生きていくことを。
それは真っ白な新雪を自分色に染め上げるような、甘美な喜びにも似て。
世間を知らない妹はきっと自分だけを信じ、愛し、頼るだろう。
その笑顔をイーテだけに向けるだろう。
閉じられた楽園。それを少年は夢見ていた。母の胎内に在るような、完全なる楽園を。
――そう、眼前の男の手垢がつく前の、妹と。
われ知らず募る怒りに妹を抱く腕の力が増す。
「痛い」と小さな悲鳴が上がったけれど、もうイーテの耳には入らなかった。
暁の空と称えられた双眸は暗い怒りに支配され、まるでくすんだ鈍色のよう。
明らかな憎悪を向けられたヨシュアは、避けられない未来を感じ取り、剣の柄に手をかける。
(ここは先の先を取るしかない!)
「イーテ! わたしの話を聞いて!」
焦れたリーネンが叫ぶ。それが合図となった。
「逆賊とその協力者を殲滅しろ!」
イーテの命令に配下の者たちが一斉に動き出す。
剣を振りかぶる、その一瞬の隙をついてチェーリアの七節棍が動いた。まずは一閃。横薙ぎに敵を払うと、円運動の勢いで続けざまに二閃目を揮う。
棒術の長さと特性活かした攻撃に前方が開き、即座にヨシュアが飛び込んだ。
「カティーバ、来い!」
命令は端的に。けれど瞬時に反応が返る。ヨシュアの斜め後方から襲い来る剣をカティーバが弾き、彼はヨシュアに並走した。
「リーネンを!」
「承知!」
言うや否やカティーバがイーテに切りかかる。本気とは思えない太刀筋だったが、それでも避けるためにイーテは体勢を崩し、妹を取り落とす。
「きゃ……っ」
「リーネン!」
床に落ちる前にヨシュアの腕が少女を掬い取る。そして青年は全力で駆けだした。
「ヨ、ヨシュア?!」
「黙って! 舌を噛みます! カティーバ先導を! 姉さんは殿を頼みます!」
「はっ」
「任せろ!」
扉に体当たりするように押し開ければ、幸いなことに無人だった廊下を一行は一気に駆け抜ける。
「追え! 必ず奴らを仕留めてこい! だが妹だけは必ず無傷で連れ帰れ!」
背後から襲いくるのは怒声と雷鳴のような足音。そのプレッシャーたるや、少女の柔い心を痛いほどに圧迫した。
「はなっ、離して、ヨシュア! わたし足手まといになって、るっ!」
激しく上下に揺すぶられるから口を開くのも大変な状態で、リーネンは必死に叫ぶ。
ヨシュアたちを仕留めろと言った。自分は無傷でとも。
だったら荷物になる自分は置いて、彼らには無事に逃げきって欲しい。そんな思いで口にした言葉は、「ダメです」の一言で退けられた。
「他国の王族のことですし、口を挟むのは極力控えたい所でしたが」
少女ひとり抱えているとは思えない速度で走りながらヨシュアも応対する。
「彼はあなたに異常な執着を見せている割に、あなたの意思を無下にしすぎている」
たぶん、と続けながら彼らは階段を駆け下りる。
「兄君の元にいけば、あなたは以前以上に自由を奪われる。そんな未来は我慢できませんから」
俺が、と続く声にリーネンは目を見張る。けれどなんで、と問う暇はなかった。
兄の放った兵たちの足音が、距離を詰めてきたからだ。
「ここから裏手に出ます!」
叫びながらカティーバが階段裏に飛び込むと、そこには使用人用の廊下があった。元々人目を避ける目的で作られた扉を開け一目散に突入する。建物内をくまなく網羅しているそれは、敵がいる可能性の高い正面玄関を避け、外に出るにはうってつけの道だった。
「まもなくキッチンです! その奥にある通用口から外に出ます!」
言うや否や飛び込んだキッチンでは、何も知らないコックたちが突然の闖入者に騒然とする。
「すまない。ちょっと通してくれ!」
カティーバが先導し、通用口と思しき扉を開く。
ここは正面玄関の真裏にあたり、普段は使用人しか使わないエリアにある。だからこそ厩舎も近く逃走経路としてはうってつけのはずだった。
「このまま馬を……っ!」
一足先に外に飛び出したカティーバの声が不自然に途切れ、そして。
「出ては駄目です!!」
切羽詰まった制止の声と、風を切る矢音は同時だった。
「っ!!」
その光景はやたらとはっきりと見えた。
射掛けられた矢の数は雨のよう。
弓を引き終わった体勢の男たち。その軍服はナハル国のものではなくて。
唸りを上げ鏃が迫る。
「チッ!」
「ヨシュア!」
とっさに飛び出して来たチェーリアが七節棍を高速で回転させ即席の盾を作る。そのおかげでどうにか第一陣を凌げば、すぐさま第二陣が襲いかかった。
「クソッ! これじゃ前に進めん! 挟み内に合うぞ!」
高速回転させた七節昆で無数の矢を次々に叩き落としながら、チェーリアが毒づいた。
「追手が来ます!」
ヨシュアの後ろに移動したカティーバが剣を構えながら怒鳴る。
「……っ」
前門の虎に後門の狼。
まさに進退極まる状況で、逃走路を考える暇すらない。
どうする? どうすれば? 今自分に何ができる?!
焦りが思考を絡め取ろうとするのに抗いながら、ヨシュアは素早く周囲に目を走らせた。
外はダメだ。
どういう手筈だかツァフォン帝国兵が張っている。
けれど中はナハル国の近衛兵が押さえている。
―――そう、『翠姫』を信奉する、ナハル国の民が。
「っ! すみませんリーネン、しばし無礼を働きます!」
そう言い放つとヨシュアはカティーバを押し退けキッチン内に戻った。
対峙するのはナハル国の近衛兵たち。
「剣を捨て、道を開けろ! さもなくば『翠姫』を害する!」
そう宣言した男は、抱きかかえた少女の首から胸元にかけてひたりと剣を押し当てた。
「なっ!?」
ヨシュアの暴挙に、兵たちは明らかに動揺した。
それはそうだ。彼らにとって『翠姫』とは神なのだから。
ナハル国に生まれた者は、彼女への尊敬と敬愛を糧に育つと言っても過言ではない。そんな存在を害すると言われて、どうして動揺せずにいられようか?
心骨に刻まれた信仰心が彼らを惑わし、その切っ先がぶれる。
その隙をヨシュアは見逃さなかった。
「しっかり掴まって!」
少女へ囁くと同時に、青年は眼前の敵に向かって大きく斬り込んだ。
「うわっ」
一合、返す刀で二合と左右の敵を打ち払う。殺すつもりはない。
例え敵でもリーネンに血を見せたくはないから。
「おいッ!」
開いた血路に飛び込む。走りだす。少女を抱えている分、いつもより瞬発力が利かない。
「逃すな!!」
隙を突かれた格好になった兵たちがヨシュアに切りかかるより早く、カティーバの剣が弧を描き、激しい剣戟に火花が散る。
チェーリアの七節昆もまた、残像を引くほどの突きを連打し、弟の背中を守った。
「追うぞ、カティーバ!」
「はっ!」
共闘しつつヨシュアの後を追う彼らは、先ほど来た道を全速力で戻る。
「どっちに行けばいい!?」
狭く暗い廊下を走り抜けながらヨシュアがカティーバに問えば、即座に「そこを右手に折れ、リネン室を目指して下さい」と応えが返る。
「リネン室にも通用口があります! 厩舎の反対側にはなりますが、その後ろは木立に囲まれ弓は使えません!」
「了解!」
ゼイゼイと息を弾ませながら速度を落とすことなく走り続けるヨシュア。そんな彼の肩に担がれながら、リーネンは喉を塞ぐ熱い感情に唇を噛みしめた。
それは今まで知らなかった感情。
泣きたくなるような、胸が締め付けられるような、苦しさと切なさ。
(もう、充分なの、ヨシュア)
こみ上げる塊に目頭を熱くしながら、リーネンは考える。
なんでこの人は、こんなにも無茶をするのだろう?
イーテの元から逃げ出す時に自分を置いていけば、こんな目には合わなかっただろうに。
少女とはいえ人ひとりだ。その重さを抱え、更には片腕が使えない状況に追い込まれ、視界すら十分利かない状態になっても、彼は自分を手放そうとはしない。
『何があっても俺は君の味方です』と告げた言葉を守るように。
全力でリーネンを守ってくれる。
彼は、と少女は思う。
知識を与えてくれた。教養を、世間を教えてくれた。でも、それだけじゃない。外の世界を、世界に溢れている楽しさを教え、生きていることが楽しいと思わせてくれた人なのだ。
自分の世界はヨシュアを通して開かれた。
(だからもう、充分なのに……!)
たとえこの先、一生幽閉されても、自分は生きていける。
人のぬくもりを、その温かさを教えてもらったから。
この思い出を胸に、生きていける。
(だから、ヨシュアは無事でいてほしいのに。……外の世界で、ずっと)
彼が生きていてくれれば、それだけで嬉しい。それだけで自分は幸せを感じられる。
(―――失うことなんて、考えられないのに)
走り乱れる黒髪が少女の頬をくすぐる。その髪の動きすら愛しくて、切なくて。
自然と少女は青年の首に回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
「っ、大丈夫、ですよ。必ずここから逃げ果せてみせますから」
その動きを不安と勘違いしたのか、ヨシュアが額に汗を浮かべたまま微笑んで見せた。
「ヨシュア……」
「見えた!」
『リネン室』と掲げられたプレートの扉を蹴破る勢いで開ける。
「待て、ヨシュア! 私が開ける!」
すぐさまヨシュアを追い越したチェーリアとカティーバが様子を伺いながら、そっと扉を引く。
「よし、誰もいなさそうだ」
「どうしますか? 厩舎の様子を見て来ましょうか?」
「そうですね、馬がないと逃げるのはやはり難しい。押えられている可能性は高いでしょうが、一応様子を見てきてもらえますか?」
「はっ!」
一礼してその場を去ったカティーバを見送りながら、ヨシュアはリーネンを一旦床に降ろした。
「さて、逃走経路をどうするかですね」
肩で息を継ぎながら、顎に手を当て考える。
来る途中に見た道程、この離宮のおおよその大きさと、離宮を取り囲むように存在する森を思い浮べながら。
なんとかここを抜けだせれば、国境付近で待機を余儀なくされているはずの第二近衛兵団と合流することは容易いだろう。
冷静なレグル副長のことだから、きっと国境を越えてはいないはずだ。
{ここから国境までは、馬で飛ばせば十分逃げ切れる距離だ。問題は馬の入手、そしてこの離宮の脱出)
宮や城の特性上、門は表と裏の二か所が通例だ。それ以上は警備が難しくなる。そして裏門に近い通用口が押さえられていたということは、当然表門も同様だろう。
(となれば、いっそ森を抜け城壁を登る方が堅実か?)
戸口に立ち、全力で思考を回転させるヨシュアの隣に立つチェーリア。彼女は油断なく周囲を警戒している。
そうやって三人が逃げるために様々な労力を払っているというのに、なんで自分は何も出来ないんだろう。
リーネンは自分の不甲斐なさに臍を噛んだ。
ヨシュアを、そしてチェーリアを失いたくない。優しくしてくれた人たちを、なんとかして窮地から救いたい。
そう思っても、ちっぽけな自分に出来ることなど何もないのだ。
『翠姫』と崇められても所詮は人間。肉体の制約を受け、しかもその肉体の成長すら止めた歪な身体では、本来行使できるはずの力すら揮えない。
(なんでわたし、生まれてきたんだろう?)
臍を噛みながら、自身の非力さを呪う。力がないばかりに母を亡くし、父に疎まれ、自分の存在する意義を見失った。
そして現実を拒絶し、そこから逃げ続けた十年間。
そのツケが今まさに回ってきている。彼らの窮地を救えない自分、という形で。
ぎゅっと一度目を瞑った彼女。その時、事は起こった。
「っ、ヨシュアッ!」
切迫したチェーリアの声と同時に、目を開く。見上げる。
視界に映ったモノは、赤い紅い、血飛沫。
「ッ!」
深々と矢に射抜かれたヨシュアの身体が宙を舞う。倒れていく。
「ヨシュア!!」
「くそっ、気をしっかり持て、ヨシュア!」
肩からマントをむしり取り、弟の傍にしゃがみこむチェーリア。
『止血』 それしか彼女は考えられなかった。
それが、致命的な隙を生んだ。
「なっ……!?」
室内になだれ込む足音が聞こえた瞬間、チェーリアは背中に激しい衝撃を感じ、その勢いのまま地面に突き倒された。
「くっそ! 放せ! ヨシュアがっ、弟が……っ!」
倒されたまま後ろ手に腕を捩じられ、肩関節を押さえられる。
背に圧し掛かられ後頭部を押さえられた彼女の前で、弟の身体が見る見るうちに真紅に染まる。
マズイ。あれは致命傷だ。
「くっ! 退け! 早く止血を! くそっ、ヨシュア!」
ビクともしない拘束にそれでも抗えば、頭上から降るのは嘲笑も露わな声。
「やあ、妹を降ろしていてくれてありがとう。おかげで君だけを狙うことが出来たよ」
声の主など見なくても分かる。イーテだ。彼がヨシュアを射たのだ。
「っ、キ、サマ、よくも!」
その顔にはっきりと嘲笑を浮べたイーテはチェーリアを気に留めることなく、室内へ入ってくる。そして、その足は妹の傍で止まった。
「無駄なことはやめなよ、リーネン。その男はどの道助からないよ」
「……イヤっ、ダメよ、止まって! おねがい。水よ、そこに留まって!」
兄の言葉にかぶりを振りながら、リーネンは拍動する出血を止めようと全力を注いでいた。
けれど出血の勢いが強すぎて、少女の願いは具現化されない。
今の彼女の力では噴き上がる血の勢いを少々弱めるだけだった。
「ダメ……っ、ダメよ、おねがい。言うことを聞いて!」
「もうやめなよ。君にはムリだ、リーネン」
「ムリじゃない!」
止まらない血に、そして己の無力さに半泣きになりながら否定すれば、頭上から小さな嘆息が零れた。
「ムリだよ。リーネン。力の大半を封印し、成長すらも止めた君に大した力はないだろう? 諦めなよ、彼はもう助からない」
「っ!!」
兄の言葉は残酷なまでに真実だった。だからこそ、少女を貫く威力を持つ。
本当は、リーネンだって分かっている。
この身体に、現状を変えるほどの力がないことも。
自分自身に絶望した、七つのあの日。リーネンは翠姫であることを忌避したのだから。
けれどあの選択を今、彼女は猛烈に後悔していた。
「~~~~!」
死なせたくない。死なせたくはないのに、力が足りない。
刻々と広がる血だまりは、彼の死を意味している。
それが分かっているのに、どうにも出来ない。
己の非力さ、無能さに、喉が震えて勝手に嗚咽がもれる。
「どうして……っ!」
今となっては何の意味もない言葉を綴る。
どうして。
自分は力を封じたのだろう。
自分は成長を止めたのだろう。
どうして―――あの時、逃げてしまったのだろう。
意識が茫洋としてゆき、むせ返るような血の匂いが、あの日の記憶を呼び起こす。
赤い紅い一面の朱。
抱きしめた兄の身体の冷たさ。
恐ろしい形相の父が罵倒する。
投げつけられた言葉の痛さに身を竦め。
至らない自分の不甲斐なさに絶望した。
(……お母さま)
思い出すのは母のぬくもり。
二度とは会えない、一度きりの抱擁は記憶の中であたたかい。
「リーネン。僕と帰ろう?」
やさしい声。混乱にぼんやりとする頭を上げれば、兄の顔が見える。
あの時、何をおいても留めたかった人の顔がある。
「君のことは僕がずっと守ってあげるから。怖い思いも、寂しい思いもさせないよ」
顔を寄せ、声をひそめてイーテが囁く。
「大丈夫。僕なら君に自由をあげられる。ねえ、僕と二人で誰も『翠姫』のことを知らない土地に逃げよう?」
「……にげ、る?」
逃げる。……逃げると、イーテは言ったの?
どこか焦点の定まらない視線を向ける妹を、イーテはいたずらめいた笑顔で見つめ返す。
「そう。ツァフォン帝国に君の力を渡したりなんかしないから安心して。それはただの方便。僕の本当の目的はね、君を『翠姫』の重荷から解放することだから」
「だから僕とおいで」と差し伸べられた手をじっと見る。
そして自分によく似た顔を。
この人だけが自分を『翠姫』ではなく一人の人間として、妹として扱ってくれた。愛してくれた。
鳥籠に閉じ込められた生活でも、イーテが訪れると思えば、そこに小さな幸せを見いだせた。
「イーテ……」
世界には自分と兄しかいなかった。
「行こう、リーネン」
閉ざされた鳥籠の中は、確かに楽園でもあったのだ。
「……」
ぴくりと動いたリーネンの指先。それは誘われるように、ふらりと持ちあがる。
けれどイーテの手を取る前に、少女の腕は何かに引かれ地に落ちた。
「……?」
のろのろと視線を落とせば、目に映るのは血染めの手。
限界をおして震える腕が、リーネンの手を強く握っていた。
「ヨ……シュア……?」
目にも鮮やかな真紅と、生気の抜けた青白い肌。
それでも柘榴色の双眸には、少女を射抜く強さがあった。
―行くな―
瞳だけでそう告げて。
それを最後に急速に消えていく、命の輝き。
――ああ、彼の瞳から光が消えてゆく。
「~~~~~っ!」
その瞬間、息もできないほどの衝撃が身体の中心を貫いた。
それは雷光の激しさで、少女の目を覚まさせる。
この期に及んで逃げようとした少女を、戒めるように。
「諦めの悪い男は好きじゃないんだよね」
ヨシュアの腕を払い、妹の手を引く。しかしリーネンはかぶりを振った。
「……ダメ」
「リーネン?」
愛しい妹の顔を覗きこむ。
「……ちがうの」
「え?」
「イーテじゃ、ない」
わたしが求めている人は、この目に映したい人は。
「あなたじゃ、ないの」
この心が求める人は、「逃げる自分」をよしとしない人。
己の頭で考え、進むべき道を選び、己が足で歩くことを願う人。
そんな姿勢に惹かれた。憧れた。
自分もそうでありたいと、願った。
だから。
「放してイーテ!」
「っ?!」
兄の手を振りほどき、ヨシュアの胸に取りすがる。
「死んじゃダメ、ヨシュア!」
今まで以上に強い想いで願う。彼の生を。
強く、強く、強く。
頭蓋骨がきしむほど奥歯を噛みしめて。今はもう瞼を閉じてしまったヨシュアの手を強く握る。
(死なせない、ヨシュアは絶対に死なせない!)
魂すらこめた願いに、全身の細胞が湧き立つのを感じる。一拍ごとに増大するそれに、身体中が熱くて堪らない。震えがはしる。
ドクドクと耳元で鼓動が鳴り響く。世界の音が、感覚が遠くなり、世界には自分しか存在しなくなる。
白く焼けた世界。そのどこまでも排他的な世界に、たったひとつ響く声。
『全ては「君がどうしたいか」です。自分の判断を他者に委ねてはいけない。それでは望まない結果になった時に後悔が深くなるからです』
そうね、とあの日のヨシュアに応える。
自分がどうしたいのか。そんなこと、考える余地もないほど決まっている。
「……はっ、う!」
脈動が強くなる。肌の下で、身体の奥で蠢くエネルギーに視界が白く明滅して。
「う……あ、あぁっ」
はち切れんばかりに膨れ上がった熱に、喉がけいれんする。
そして。
「あ、ああああああああああああ――――――っ!!」
少女の喉から迸った絶叫が、天をも貫いた。