最悪、そして疾駆
白熱する議論のせいで官邸に泊ることを余儀なくされたヨシュア。彼は寝入ってから数刻、まだ朝靄も明けきらぬ頃、火急の伝達によって叩き起こされることとなった。
「お休みのところ、大変申し訳ありません!」
「何があった、レグル?」
まだ覚醒しきらないのか、頭の芯がどこかぼうっとする。
けれど血相を変えて飛び込んできた部下の様子に、ヨシュアは表情を改めると報告を促した。
見れば相手は第二近衛兵団副長を務めるレグル。彼にはリーネンの住まう邸宅の警護を任せていたはずだ。
その事実に嫌な予感が背筋を這い上がる。
果たして武官は予想通りの答えを口にした。
「はっ、リーネン様の姿が見当たりません! 従者のカティーバも同様です!」
――最悪だ。
「いつからいない!?」
「昨夜、夕食時に姿を見たのが最後です。その後次の間にて待機しておりましたが、なんら物音はせず異変なし。しかし朝になって部屋をノックしたところ応答がなく、間を置かず数回試みたのち部屋に突入したところ、もぬけの殻でした」
「……窓からか」
彼女に与えた部屋は二階だったが、近衛兵がいれば階下まで降りるのは容易いことだろう。
自然と表情が苦虫を噛み潰したようになる。
本当に、イヤな予感ほど当るとはよく言ったものだ。
天を仰ぎ溜息に似た深呼吸をひとつ。体内の鬱屈を抜くように深く大きく吐き出した後、ヨシュアは覇気に富む声でレグルに指示を出した。
「ただちに第二近衛兵団長であるチェーリア・カデラートの元、第二近衛兵団を招集!速やかに出兵準備をせよ!」
「はっ!」
またヨシュアは手元のベルを鳴らし使用人を呼ぶと、官邸に泊っている大臣たちに大至急小閣議室に集まるよう伝令を出した。
考える時間はもうない。リーネンが単身ナハル国に戻ったのなら、なんとしても彼女が入国する前にその身を確保しなければ。
返すにしろ手元に置くにしろ、それは『カイツ共和国が』主体的に行わなければならないのだ。そうでなければカイツの分は決定的に悪くなる。
ナハルとツァフォンの目論見がまだ解明できない以上、リスクは最小限に抑えなければならない。
(いま下手を打てば、どちらかの属国として組み込まれる……それだけは何としても避けなければ)
国の姿勢がどうであれ、まずはリーネンの身柄の確保を。
そう己の中の優先順位をつけたヨシュアは、自身も旅装に着替えてから部屋を出た。
リーネンが消えた事実に驚天動地の大臣たちだったが、誰もが元首の意見―ナハル国に入る前に身柄の確保を行う―に賛成だったため、ヨシュアは陽が昇りきる前に第二近衛兵団と共に出発した。
可能ならばリーネンを捕獲し連れ帰るために。次点案として、彼女をカイツ国が送り届けた体裁を整えるために。
「間に合うか?」
馬を走らせながら呟いた独り事は風に乗って流れるが、並走していたチェーリアには届いたようだ。
視線は前に固定したままチェーリアが応える。
「我々だけで飛ばすならギリギリ間に合うかもしれないな。いくらハザックが優れた軍馬とはいえ、ふたりで騎乗すれば速度も出ないし疲労も早い」
姉の言葉にちらりと後方を見ると、後方とやや頭身が開き始めていた。
それはこの二人の馬術が優れているせいでもあるが、彼らの馬がとびきりの軍馬であることも理由に上がる。
砂漠で生産されるこの種族はその土地の特性上、異様に足腰が強い。ダロムの特産品でもあるそれは、姉アマーリアの伝手でごく少数だけ譲ってもらった品種なので、今この国にはハザックを筆頭にわずか五頭しかいないのだ。
その希少種を駆るふたりが頭身差をつけるのは当たり前と言えた。
「……」
足並みを合わせていたら間に合わない。けれど敵国にたった二騎で向かうのは危険すぎる。
決断に迷うヨシュア。
彼の頭の中では今ある情報を最大限に活かし、考えうる限りのシミュレーションが行われているのだろう。
張りつめた表情は、彼が高速で思考を巡らせている時のものだから。
(元々この子は『長男』としての責任感が強い子だからな)
そして今は『元首』としての責任感に支配された弟。
並走しながらチェーリアは弟の真剣な横顔を見た。
今の弟は『元首』としてどうすればいいか、その一点を考え過ぎて動けなくなっている。
たぶん――本心など押し殺し過ぎて、自分でも見失っているのだろう。
だったら。
「っせい!」
チェーリアは愛馬の脇腹を蹴ると全速力で駆けだした。
「ちょっ! 姉さん、何を!?」
急速に離される。
「先に行く! リーネンに追いつけるよう祈ってろ!」
「祈ってって……ダメに決まってるでしょう、そんなこと! あなたには近衛兵団長の自覚がないんですか!!」
ヨシュアも手綱を引き締め、速度を上げる。
「団長の座はレグルにくれてやる!」
「そう言う問題じゃないでしょう!」
追い上げる、追いつき、また並走しながら怒鳴り合う。
「お前の言う問題は堅苦しくてイカン! 今は頭を使うより全力で馬を走らせろ! 後のことはその場で考えればいい!」
「それが出来たら苦労はしません! だいたい姉さんがそんなんだから俺がこういう性格になったってご存知なんですかっ!」
「考え込みすぎるクセはルチアの教育の賜物だろうが。人のせいにするな、人のせいに」
「姉さんが勝手に武術修行とやらで単身、海を渡ったのも立派な原因の一つなんですよ! だいたいあれでアマーリア姉さんのシゴキが苛烈になったんですからね! 『チェーリアのように脊髄反射で動く人間では上に立てない』とか散々言われたんですから!」
「あははは! じゃあ反面教師として役に立ったからいいじゃないか」
「笑い事で済ませられるほど、簡単な問題じゃないって分かってないでしょう!」
「人間、時には頭で考えるよりも行動した方がアタリって時もある!」
「そんなもんあるかーっ!!」
いつも通りというかなんというか。
自由奔放な姉に翻弄され自分のペースを見失った青年がふと我に返ると、既に肉眼では探し出せないほどの距離が後続隊と開いていた。
「また、やってしまった……」
姉のペースに乗せられたと自覚した時には時すでに遅し。ここまで開いた距離を詰めるまで待つことは時間のムダでしかない。
「くそっ」
悪態を一つ吐くとヨシュアは散らばった思考をまとめ上げ、手綱を握る腕に力を入れる。
「遅れないで下さいよ、姉さん!」
「はっ、バカを言え。お前如きに遅れをとるか!」
稚拙な口ゲンカの応酬を交わしながらも、二人は全速力で街道を駆け抜けた。