告解、そして決意
時は少し遡る。
ひとりカデラート邸に残されたリーネンは、ショックと動揺で青ざめた表情を晒していた。
今すぐ国に帰りたい願望。真実を求めたい欲求。兄に会いたい気持ちも相まって、焦りに心がひび割れる。
「……どうして?」
はちきれんばかりの焦燥と不安を言葉に託して排出しても、一向に薄まらないどころか更に煽られて苦しいだけ。
不安 憂慮 懸念 危惧 恐れ
負の感情が波のように押し寄せては、少女を苛む。
「いま、イーテに会いたいのに」
自由のない身の上が、これほどつらいことだなんて。
もう何度目か分からない溜息を、またひとつ吐きながらリーネンは窓の外を見遣る。
透きとおるようなコバルトブルーと、真っ白な入道雲の対比も美しいカイツ共和国の空。
それは一年を通じて温暖なナハル国とは、まるで違う様相を呈している。
躍動感に溢れたカイツ共和国。でも今はそれが恨めしかった。
「……」
じっと空を見るリーネン。この空の向こうに祖国を探して。
そして苦悩の王女に寄りそうカティーバもまた、思案に暮れていた。
彼女は、『翠姫』は自分が守るべき主。その栄誉を王より賜った時の興奮を、歓喜を忘れることなど一生ない。ありえない。
自分の命も存在も、全てはこの御方のために――
その想いは十二年前のあの日から、一片の遜色もないのだ。
ならこの一連の事実を、この御方にお教えするべきではないのか?
男は思案する。
ナハル国王に命ぜられ、『翠姫』には全てを秘匿したままこの国に連れ出した。いずれ全ての片が付くまで、カイツ国に待機しつつ警護するために。
けれど祖国が非常事態に陥り、王からの命令が途絶えた今、この先は自らが裁定を持たざるを得ない。
なら、自分は?
眼前で打ちひしがれている主に対して、このままずっと事態の推移を見守るだけでいいのか?
自問自答は「否」と答えを出した。
『翠姫』の存在が発端となった揉め事は、すでに他国を巻き込んだ争乱にまで発展している。この先どう転ぶのか分からない以上、隠し通すことに利点はないだろう。
彼女は、カティーバの主は、既に渦中にその身を置いているのだから。
「翠姫様、少し宜しいでしょうか?」
そう切り出した男は、今まで伏せていた王女を取り巻く事情を、「自分が知りうる限りの情報ですが」と断ってからリーネンに伝え始めた。
「イーテ様は翠姫様の持つ浄化の力をちらつかせることで、北のツァフォン帝国を動かそうとしていたと、私の兄が掴んだのが全ての始まりです」
「……わたしの、力?」
「はい。ツァフォン帝国は産業革命の代償として水と空気の汚染が深刻なレベルであり、すでに国民の健康に被害が出ている状況です。そこに目をつけたイーテ様はツァフォン帝国に提案を持ちかけました。『翠姫』様なら、汚染されたツァフォンを浄化することも可能だろうと」
四つの国を束ねるツァフォン帝国はこのキドゥーシュ大陸でも最北端に位置している。気候は年間を通して寒冷で、一年の大半を雪に閉ざされる地域でもある。
そんな国がこのキドゥーシュ大陸きっての大国でいられる理由。それは広大な土地に眠る潤沢な化石燃料のおかげだった。
約百年前に見つかったこれらは炭や薪よりも安価で、牛馬とは比べ物にならない強力な動力源になることを彼らは知った。それまではめぼしい資源も産業もなかったツァフォンは、この化石燃料を使うことで産業の機械化を図り、国のインフラを作り上げたのだった。
そして国の基盤が出来あがった後は、他国に技術を輸出し始める。
圧倒的な技術力が生む巨万の富は、やがて周辺の諸国を吸収し一国に過ぎなかったツァフォンを帝国にまで押し上げた。
けれど揺るぎない国力を得た代償は、当然の如く甚大で。
一年中国を覆う濃霧は吸えば頭痛と吐き気、それにひどい咳を誘発する。国力は増し、人は病む。けれど一度富の味を覚えた国が金脈を手放せるわけもなく。
結果、ツァフォンの人々は公害に悩みながらも、化石燃料に頼る生活を改めなかった。
そんなツァフォン帝国にとってイーテの提案は、まさに一条の光明だったろう。飛びつかないわけがない。
「イーテ様は国力豊かなツァフォンの援助を受け、ナハル国を近代化すると周囲の若手に話していたそうです。精霊信仰発祥の地であること以外に誇れることもなく、たいした産業もないままでは、いずれナハル国は廃れてしまう。だから古い体制を壊し、自分の代で近代化、強国化を図るのだと」
沈痛な面持ちで話すカティーバからは、彼がその意見に反対であることが窺えた。
「実際王子付きの若手たちは、イーテ様の考えに賛同する者が多かった。けれど兄は殿下の描く青写真に賛同出来なかったのです。国神であらせられる翠姫様を外交に使うことが許せなかった。だから国王陛下に伝えたのです。兄の知る全ての情報を」
そして話を聞いた国王は事の重大性を慮り、懇意にしていたカイツ共和国に娘を託した。その間に息子と話をつけるつもりで。
「……お父さまは、イーテの説得に失敗したのね」
バルコニーへと続く窓を開け放てば、夏特有の熱く乾いた風が髪を揺らす。
気づけば痛みすら感じるほどの強い日差しは幾分和らいでいた。
太陽がだいぶ西に傾いたせいだろう。
この部屋に入った当初は天頂にあった陽が、茜色を帯びるほど長い間、リーネンはカティーバの話を聞き、そして考えていた。
今の自分が出来ること。成すべき事。
『翠姫』としてすべきこと。ナハル国の王女としてやるべきこと。
流されるように生きてきた十六年間では、こんなこと考えもしなかった。
けれど今は違う。この国で生活した期間は短いが、その少ない時間の中でヨシュアはたくさんの事を教えてくれた。
彼が一貫して伝え続けたのは、「自分の足で立ち、行動するための力」だから。
「……」
きゅ、と唇を引き結んで、目を瞑って。
次に瞳を開いた彼女は、従者を真っ直ぐに見据えて告げた。
「国に帰ります。カティーバ、国元までの案内を頼みます」
凛としたまなざしに飲まれ、一瞬返答が遅れた。
けれどそれはとうてい承諾できない命令だ。だからカティーバはリーネンの前に跪きながらも反論した。
「恐れながらその命令は承服できかねます。いま国に帰れば、王子殿下は翠姫様を利用し、野望を遂行するでしょう。お気持ちはわかりますが、ただ今ガズラ師団長が情報収集のために祖国に帰還しております。その情報を待ち、今後の動向を見極めた方が安全かと思われます」
「カティーバ」
その声はとても静かだった。なのに、抗えない音色を持ち男の顔を上げさせる。
「ナハル国王女リーネン・イシャー・ナハルが命じます。私を兄の元へ。父が投獄された今、兄と対等に話ができるのはわたしだけです」
見下ろす双眸は黎明の紫。夜明けを待つ静けさの中に、新しい幕開けの躍動感を秘めている。
(――ああ、この方もまた王族であったか)
国のため民のために己が為すべき事を知る者。それが王族の責務であることを十全に知る『王女』の命令を、王家の近衛兵である自分が退けるわけにはいかない。
「貴女様の仰せのままに、リーネン王女殿下」
斜陽が照らす朱金色の室内で、男は深く頭を垂れた。