激動、そして苦悩
「大臣たちが説明を求めています。彼らはリーネン王女を匿っていることを知らないため、突然のナハル国の通告に文字通り蜂の巣をつついた騒ぎですよ」
官邸へと向かう馬車内で、マハルがこれまでの経緯を端的に説明してくれた。
おかげで現在国が置かれている状況を、ほぼヨシュアは把握している。
情報の収集、把握、理解。そうすれば自ずと打つべき手が見えてくる。
だが、と青年は煮え切らない自身の内心に知らず溜息をついた。
(もう少し、隠しておけると思ったが……甘かったか)
苦るヨシュアを乗せた馬車が止まる。官邸前に止まったそれから降りれば、真っ直ぐに目指すのは中央塔。
カイツ共和国の統治機構を集約したこのエリアは、モスクのような半円形のドーム型の中央塔がまず目に入る。そこから両翼のように続く長い回廊の先には東塔と西塔が建ち、シンメトリーの様式美を誇る。この白亜の建物はいずれも御影石を組み上げて作られており、その瀟洒な玄関をくぐれば陽光が踊る中央ホールに続く。
塔の天辺から地上まで吹き抜けのホールは解放感も素晴らしい造りだが、来訪者は大抵、天井にはめ込まれたステンドグラスが地面に描く光の紋様に視線を奪われる。
そしてホール正面にある中央階段を上がり、右手に曲がれば大閣議室。けれど今日はその奥に在る小閣議室に主だった大臣たちが集まっていると言う。
暗赤色の絨毯を踏みしめ階段を上がろうとする弟に、姉は「待ちなさい」と一声かけると、その足を止めさせた。
「もうリーネン王女のことを隠してはおけないって、ちゃんと理解してるわね、ヨシュア」
ルチアは言外に問う。
国を守るためなら、リーネンを国元に帰すことも視野に入れているか、と。
果たして弟はその問いにためらいをみせた。
本当は迷うことなく分かっている。
カイツ国が無傷で戦火を避けるには、それが一番確実で最適だということを。
罪の全てはシェレグ王にあり、カイツは内紛に巻き込まれたに過ぎないと。そういうスタンスを貫くことが一番穏便に事を収められる。
分かっている。分かっているとも。元首として正しい選択など。
「ヨシュア様」
マハルが決断を促す。
「……今のナハル国に権威の象徴であるリーネンを返すのは、危険だと感じます」
それは本心を織り交ぜた、ギリギリの建前。
突然すぎるナハル国の世代交代。強硬すぎる言い分。そしてツァフォン帝国の出兵。
未だかつてない事態を鑑みれば、その中心である『翠姫』を返して、すんなり事が収まるとは思えない。リスクが高すぎる。
そうした建前を前面に押し出しつつ、本心では違う理由で彼女を返したくないのだ。
(ようやく、だ。ようやく屈託ない笑みが見られるようになってきたのに)
ここで返したら、彼女はまた幽閉されはしまいか?
そしてまた、笑顔を忘れた人形のようになりはしまいか?
その懸念がヨシュアの決断を鈍らせるが、そんなことで時間が止まるわけもなかった。ヨシュアの言葉尻を継ぐように、マハルが口を開く。
「確かに、いくら国神を救出する前提でも、相手国の言い分も聞かず即戦争というのは勇み足に思えます」
きつい印象の瞳を更に細め、彼は苦渋の滲む声で言う。
「しかし、たとえそれが政治的陰謀に基づくものでも、今回は飲まざるをえません。ツァフォン帝国が本気でナハルと組むのなら、あの強大な軍事力に太刀打ちすることは不可能だからです」
ツァフォン帝国軍はナハル国との国境に待機している。ということはその気になればナハルと隣接しているこのカイツに五日と掛からず攻め込むことも可能なのだ。
一個師団に加えナハル国軍が攻めてきた場合、自国の軍事力だけでは到底抗えない。けれど南のダロム国や西のアマラブ国に援軍を求めている時間はないとくれば、自ずと対応策は絞られてくる。
「……そう、だな」
根回しする時間が足りないのだ、圧倒的に。
それが分かっていてもなお、どこか踏ん切りのつかない様子のヨシュア。ルチアはそんな弟の姿を前に、ため息交じりで告げた。
「既にアマーリア姉様とアマラブ国に親書は送ってあるわ。いざという時は軍を動かしてもらえるように」
「ダロム国はアマーリア様のお力でなんとかなるしょうが、アマラブ国は果たして応じてくれますかね?」
長姉アマーリアはダロム国宰相の妻である。だが『ただの妻』ではない。彼女は持ち前の政治的才能を活かし、夫である宰相を通じて国政に参加している女傑なのだ。
だからこの度の要請もダロム国はきっと受け入れてくれるだろう。
しかしアマラブ国はそういった縁故がないため難しい。
けれどルチアは勝算あり気に微笑んだ。
「あそこは広大な土地を活かした畜産と織物以外は大した収益はない国だもの。うちの持つ貿易という流通経路は魅力的なはずよ」
「なるほど。彼らの外貨獲得に一役買ってやれば、充分に恩を売れる算段ですね」
姉の聡明さに感心しながら、ヨシュアは頷いた。
「だから問題は援軍を得た後の話。援軍はきっと来る。けれどその前に、カイツは本気でナハルとツァフォンを敵と見なすのか、他国と戦争を起こすつもりがあるのかを考えなければならないわ」
そうこうしているうちに、三人は赤い絨毯の階段を上り終え、小閣議室前まで来ていた。
使いこまれた飴色の扉に手を掛けて、ヨシュアは姉夫婦を見つめた。
「……正直、ナハルの言い分は砂を飲むように難しい。けれど、俺はこの国の元首であることを忘れたことはありません」
そう宣言すると、彼は怒号飛び交う閣議室の扉を開けた。
そしてヨシュアの登場に、この国の主たる大臣たちは色めき立った。
「ヨシュア様! この度の件についてご説明頂きたい!」
「『翠姫』を手元に置かれているとは本当ですか?」
「ナハル国の通告は虚偽ではないのか?」
「宣戦布告の理由は本当なのですか?」
口々に飛び交う質問、疑問。問いかけの数々は明確な音すら持たず、ただの不協和音のようにヨシュアに襲いかかった。
「……まさに蜂の巣をつついた在り様だ」
思わずぼそりと洩れた小声は喧騒に紛れ、誰にも聞こえない。
そして彼はす、と息を吸うと、一拍溜めてから発声した。
「今から事情を説明しますので、静粛に願います。なお一連の説明が終わるまで質疑は遠慮して頂きたい」
顔を上げ、顎を引く。胸を張りながら、下腹部に力を入れる。そうして出した声は朗々と場内に響き、喧噪を静めた。
これが若輩でありながらこの国の元首に立つ男の持つカリスマ性。すなわち他者を従わせる強い意思の発現であった。
そして話し合いは深夜にまで及んだ。
即刻『翠姫』を送還すべきという意見。
逆に『翠姫』を盾にして取引すべきだという意見。
様々な意見は時間の経過と共にこの二つに収束した。
「取引など持ちかけてナハル国が激高したらどうする! 後ろにはツァフォン帝国がいるのだぞ!」
「素直に返して事が収まる保障などないのですよ。でしたら多少のリスクを負っても確実に安全を確保しないでなんとします?」
父の代から重鎮を務めるダカーは筋金入りの右翼派。対するオゼンはヨシュアが就任後に新しく登用した男で左翼派の筆頭である。
現在カイツ共和国の大臣たちの中でも筆頭格の彼ら。その意見は当然のように真っ向から対立し、舌鋒鋭い論戦は今に至ると言うわけである。
「ダカー殿。なにも私とて戦争を起こしたいわけではありません。ただ手元にあるのは切り札ですよ。折角手にしたカードなら有効に使い、最善の結果を目指すべきでしょう」
「オゼン殿は若さゆえの冒険をしたがるようだが、政治とは確実さが重要なのだ。ハイリスクハイリターンなんぞ要らん!」
「やれやれ、これだから頭の固い老人は……」
「尻の青い坊やに言われたくもないわ!」
時間の経過と共に疲労が目立ち始め論点がずれてゆくが、当の本人たちはお構いなしにデッドヒートを繰り広げている。ちなみにその他の大臣たちは、表情に強い疲労感を滲ませ、どこか虚ろな瞳でダカーとオゼンの論戦を傍観している。
「あの二人は置いておいて、そろそろ頭打ちじゃないですかね」
耳打ちしてきたのはマハル。ルチアは身のない会議を嫌うため「もっと建設的なことをしてくるわ」と夜が更ける前にこの場を去っている。きっと今頃は彼女専用のネットワークを駆使してアマラブ国をくどく算段でも練っているのだろう。
声を掛けてきた義兄を尻目で見遣り小さく頷くと、ヨシュアは椅子から立ち上がった。
ダカーとオゼンの論争以外の音が皆の耳目を集めるのは容易く、閣議室内の人間全てがヨシュアに意識を向けた。
それを見取ってから口を開く。
「ダカーとオゼン以外の意見がある者は?」
問いかけに返る応えはない。
「ならばこの議題は明朝、投票にて決議する」
カイツ共和国はその名の通り共和制だ。国政を行う議員、大臣、そして元首ですら国民投票で決まる政治形態を主とする。よって国の重要な審議も意見がまとまらない場合は投票による案を採択することが常である。
どうあがいても歩み寄れない二つの意見。ならばここは投票で決めるのが常道だろう。
案の定ヨシュアの提案に異議はなく、全ての参加者の賛同が得られた。
「では明朝、中央塔の鐘が七つ鳴った時より議会を再開する。多数決にて出た案を国の意思とし、実行することとする。以上、散会!」