急変、そして驚愕
乾いた風が秋の始まりを告げる朝、その知らせは唐突に訪れた。
いつも通り朝食を済ませ、図書室でヨシュアと勉強していたリーネンは、逼迫したノックの音に机から顔を上げた。
「お勉強中にごめんなさいね、リーネン。ヨシュア、ちょっと来て」
顔を出したのはルチア。いつも優美な彼女にしては珍しく、その表情には緊迫感を孕んでいる。そしてその背後には側近であり外務大臣のマハルが表情を引き締めていた。
姉夫婦のただならぬ様子を感じ取ったヨシュアは、すぐさま傍らのリーネンに「すぐ戻りますので、ここまで訳しておいて下さい」と言い残すと姉と共に図書室を出て行った。
彼はこの国の元首。だから政治や経済など背負うものも多い。こうした危急の知らせも、今まで皆無だったわけじゃない。
だからリーネンはたいして気にすることなく、与えられた課題をこなすために手元の辞書を引いた。
元々知識欲もあり、学ぶ意欲も高かった彼女に足りないものは、学ぶ環境と良い教師。それが解消された時、砂地に水が浸み込むように、彼女は知識や教養を吸収していった。
そして、しばらくの後。
「ヨシュア、……帰って来ないな」
手元には終わってしまった課題。
飛躍的に向上した彼女の知力は、与えられた課題の倍の範囲を終わらせている。
けれど、どれだけ待っても、ヨシュアは部屋に戻ってこなかった。
「……」
いないのなら、探しに行ってもいいかな?
答え合わせをして欲しいし、次の課題の指示も欲しい。
そう考えた少女が席を立ったのは、ごく自然な反応だった。
「それが本当なら最悪の事態ですね」
ヨシュアの声が沈痛な響きを宿している。
「つい先ほどカティーバが情報収集のため帰国の途につきました。エノシュの情報が本当ならナハル国はツァフォン帝国と手を結んだことになります」
「……ナハルとの国境付近にツァフォン帝国兵が二万、か」
「ええ、シェレグ王の投獄と言い、ナハル国の実権は完全にイーテ王子が掌握してしまったようね」
「っ!?」
カツンと窓枠が鳴った。
どうやらよろめいた身体を支えるために手を付いてしまったようだが、リーネンはそれすら気づいていなかった。
「リーネン!?」
驚愕を宿した声さえ耳に入らず、少女は問いを口にする。
「お父さまが投獄って……どうして?」
気まずげに逸らされたのはヨシュアの視線。
「イーテが掌握って、……兄が何か関係してる、の?」
重ねた問いに答えたのはマハルだった。
「そうです。あなたの兄上はクーデターを起こし、ナハル国の実権を握りました」
「マハル待て! まだ確証はないだろう」
「限りなく黒に近いグレーです」
マハルの言にルチアも慎重な口調ながらも、それを肯定する。
「そうよ、ヨシュア。今までどの国も不可侵だったナハル国。その暗黙の了解を破り派兵すれば、下手をすれば残りの国すべてが敵国となる。そんな危険をあの狡猾なツァフォン帝国の皇帝がすると思う? アレはそんな浅はかじゃない。だとすれば絶対の勝機を掴んだか、もしくはナハル国そのものに要請されたかよ」
「姉さん!」
姉の推測は信憑性が高いが、でも今この少女に聞かせたい話じゃない。
そんな意志を込めて姉を見つめたが、真っ向からヨシュアの視線を受け止めたルチアはきっぱりと言い切った。
「リーネンに関わる話だからこそ、この子が知る権利があるのではなくて? 隠すことが最良とは言い切れないこと、あなたが一番よく知っているはずよ、ヨシュア」
その言葉に、ヨシュアはわずかに瞠目した。
「ヨシュア……イーテは、お父さまはどうしちゃったの? わたしの国で今、何が起こってるの?」
心細げな声。そう彼女は何も知らないのだ。自分が中心にいるのにも関わらず。
その様は数年前の自分を見ているようで心苦しい。
不安、もどかしさ、欲しい情報が入らないやりきれなさ。
そしてやがてこの少女も抱くのだろう。
自分に真実を隠す周囲とふがいない自分への『怒り』を。
(……そんなものを、教えたいわけじゃない)
「……」
数瞬の逡巡のあと、彼はまっすぐ少女を見据える。
「先ほどナハル国、新国王を名乗るイーテ・イッシュ・ナハルより通告がありました。『国神であるリーネン・イシャー・ナハルを拉致、誘拐した罪でシェレグ前国王を投獄したこと。そしてリーネン王女を即刻解放しない場合は、当国に対し武力行使も辞さない』とのことです」
「……う、そ」
「嘘じゃありません。現にナハル国は我が国に攻め込む様子を呈しています」
ヨシュアの言葉が信じられないのではなく、告げられた意味自体が理解出来なかった。
あの優しい兄が、父を?
イーテがヨシュアの国を攻め込む?
「うそ」と再度呟いた。
けれどリーネンには、それが起こりうる事態であることも、どこかで納得していた。
最愛の兄は、自分と同じようにこの身を最愛の存在だと公言して憚らない人だから。
誰よりも何よりも、自分を愛してくれる人だから。
「……わたし、が」
原因なの?
思いあたる節はひとつしかない。イーテが無体な事をするとは考えられないが、それでも彼がそんな強硬手段に出る理由を、リーネンはそれしか知らない。
「帰ら、なきゃ……」
呟いた言葉は無意識だった。けれどその声を耳にした瞬間、リーネンは己が取るべき道を見た。
翻る黒髪。スカートの裾がふわりと舞う。
けれど。
「待って下さい、リーネン! 今、帰国してはいけません!」
後ろから伸びてきた腕が少女を浚う。
「っは、なして、ヨシュア! 帰らないと! 帰って、イーテに……っ」
パタパタと暴れる手足を余裕で捌き、抑え込むヨシュア。その腕の拘束を何とか逃れようと暴れる少女。両者の力の差は圧倒的で、あっという間に少女は横抱きにされ青年の顔を仰ぎ見る姿勢になった。
「話を聞いて下さい、リーネン! 今、国に戻るのは危険すぎるんです!」
「やっ、離して!」
力で敵わなくとも諦められるはずがない。兄に、イーテに会って話を聞きたい。いや、聞かねばならない。何故彼がこんな無体を働くのか。
「ヨシュア! 私を国に帰して!」
本当に兄が、父を投獄したのか?
「ダメです! 今のナハル国は訝しい点が多すぎる! そんな危険な場所にどうしてあなたを帰せると思うんですか!」
大音量の一喝に腕の中の身体がびくりと跳ねた。
――ああ、しまった。
怯えさせるつもりはなかったが、結果として恫喝紛いの言動になってしまったようだ。苦る内心を抱え、フリーズしたヨシュアのこめかみに、ルチアの裏拳がヒットする。
「っ、でっ?!」
「ごめんなさいね、リーネン。別に愚弟もあなたのことを脅かすつもりじゃないのよ? ただ、事が事だから慎重に行かないと」
「ルチアもダメって言うの?」
縋るようなまなざしに、ルチアは微苦笑で返す。
「私たちはね、あなたの身の安全をシェレグ王に頼まれたの。だから彼の王との約束を破る行為は見過ごせないわ」
「ナハルに『翠姫』を害する者はいないのに?」
確固たる自信を滲ませて告げる少女に対し、ルチアは緩く首を振り、弟を見た。
一瞬、交差する視線。それに頷きながら、彼は少女に向き合った。
「確かに貴女の身に直接的な危害を加える者はいないでしょう。けれど危害とは身体的なものだけに限らない。貴女の持つ力、『翠姫』の名が持つ威光。それらを狙う者たちの手に落ちたら? それ考えたことはありますか?」
「あ……」
考えたこともなかった問いに、焦れて走り出していた心が塞き止められる。
自分では考えが及ばない視点は第三者のもの故か、それとも経験の差か。
確かに精霊信仰を主とするこの大陸での『翠姫』の価値は、きっと自分が思う以上に高いのだろう。
(……わたし自身が火種に、なる?)
この騒動の火勢に、さらなる勢いをつけてしまう?
空恐ろしい予想に黙りこくる少女。そんな彼女に青年は静かな声で告げた。
「もう、嫌でしょう? 下界と隔絶され、誰とも関わらない生活も。意思を必要とされず人形のように崇められるのも」
「っ」
それは留めの一撃となって、少女の気勢を削いだ。
強張った身体から力が抜ける。抵抗する気を失くしたリーネンを一度ゆるく抱きしめたあと、ヨシュアはそっと彼女を地面に降ろした。
「もう少し情報を整理したら、必ずリーネンにも知らせます。だからあなたは大人しくカティーバたちと待っていて下さい」
出来る限り優しい声を意識して言い含める。少女は項垂れたまま、こくりと頷いた。
「ヨシュア」
姉が促す。時間がないことを。
頷くことで了承を伝え、彼はリーネンを自室へと送り届けると、官邸に向かった。