脱走、そして出会い
その昔、キドゥーシュと呼ばれた大陸がまだ混沌に包まれていた頃、大陸を平定せんと志した者がいた。人々の安寧を願い尽力した若者はその清廉さで水の精霊を惹きつけ、彼女の加護のもと国をひとつに平定したと云う。
精霊の加護受けし国は時の流れと共に八つの国に分かたれたが、初代皇帝が首都をおいた場所、今ではナハルと呼ばれるその国では今なお精霊の加護が続いている。
そう、水を支配下に置く彼女は『翠姫』と呼ばれる存在となって、時折人の世に生まれ落ちるのだ。人のなりをした精霊として。
そして今から遡ること十六年前、ナハル国に実に数百年ぶりの『翠姫』が降臨した。リーネンと名付けられた王女として、双子の兄と共に。
猫の爪ほどの月が浮かぶ夜空はまるで極上のベルベット。深くやわらかな闇に抱かれた世界は、明日を夢みて眠りの中をたゆたう。
そんな静寂を破り響き渡るのは、土を蹴散らす重い馬蹄の音。猛然と舞う土埃さえ一瞬で、はるか後方に置き去りにする速度で、馬を繰り彼らは駆けていた。
黒い森を抜け、二股に分かれる街道に出れば国境はもうすぐだ。
全速力で走る馬の速度を街道の入り口で一旦落とし、馬上のひとりが声を上げた。
「これより二手に別れる。予定通りラヴァン達はこのままダロム国を目指せ」
その声は緊迫していた。
もう一刻の猶予もないのだと、強く知らしめて。
それを十全に知っている者たちは、強く頷くと無言のまま馬首を返した。
走り出す数頭の馬たち。それを確認する間もなく、残された一行もまた馬の手綱を強く握り、再度速度を上げ始める。
闇夜に分かたれる隊。
ひとつ、南方はダロムと呼ばれる熱砂の国へ。
そしてひとつ。それは東方に位置するカイツ共和国へ。
猛然と砂を蹴散らし、巻き上げながら疾走する彼らの想いはただひとつ。
早く。一刻も早く『彼』に、気づかれないうちに。
これは国王の勅令。けれど自分たちの心願でもある。
このナハル国に生まれたからには呼吸するほど自然な、そして必然の願い。
数百年ぶりに降臨した『翠姫』であるリーネン・イシャー・ナハルを守ること。
その為に今、彼女を隣国に送り届けるのだ。秘し隠すために。
彼の国で手厚く擁護するために。
一行の中心を走る黒毛の馬、それを繰る者の腕の中で眠り続ける小さな、けれど何より尊い方を守るため。
彼らは細く頼りない三日月の下を駆け抜けていった。
「……?」
その日の目覚めは困惑と共に始まった。
いつもより身体は重く、頭は靄がかかったようにすっきりしない。しかも肌が感じる空気はいつもよりも暑いような気がする。一年中温暖な気候のナハル国では、あまり……というか全く感じたことのない熱気。この暑苦しい空気はなんだろう?
肌が感じる違和感に重い瞼を苦心して開ければ、そこには見たことのない天蓋。
「……な、に?」
「ああ目覚めたのね、あなた。気分はどう? どこか辛いところはあるかしら?」
突然かかった声は全くもって聞き覚えのない声。
「?」
声のする方に首を回せば、上質なコバルトグリーンのドレスが見えた。
まだ少し視点の定まらない目を二、三度瞬かせ、再度目を凝らして見れば人懐っこい笑顔が目に入る。
天蓋の中に入ってくる彼女の肩の上で、緩やかな栗色の巻き毛がふわりと動く。こちらの様子を伺う紅玉の双眸は柔らかく、けれど躍動感に満ちており、この妙齢の女性がただの侍女ではないことを主張していた。
「顔色はまだ少し優れないわね。少しお水でも飲む?」
「あなた……だれ? ここは?」
起き抜けの状況が全く分からない。確かに自分はいつもの寝室で眠ったはずなのに、なぜ違う部屋で、なぜ知らない女性が傍にいるのだろう?
そんな疑問がありありと顔に出ていたのだろう。見知らぬ婦人はにこりと笑い「あ、ごめんなさいね」と謝罪を口にした。
「私はルチア・チェスティと言うの。ここはカイツ共和国にある弟の私邸。あ、ちなみに弟はカイツ共和国の元首をやっているのよ」
そう言うとルチアと名乗った女性はベッドの端に腰かけ、ほんの少し浮かべた笑みを深くする。
「色々分からないって顔しているわね。……当然だけど。まあ、今のこの状況を含む諸々の事情は、のちほど弟から詳しく説明させるつもりだから、安心して」
悪いようにはしないから、とやさしく微笑む人の目には、慈しみの光が見える。
(この人、悪いひとじゃ、ない)
分からないことだらけだが、それだけで少し。そうほんの少しだけ、安心した。
「ここは、カイツ共和国? なんで、わたし?」
国と場所と目の前の女性のことは分かった。でも『なぜ』『いま』『自分』がここにいるのかが全くもって分からない。
困惑を滲ませた瞳でルチアを見上げれば、彼女はすまなさそうに笑ってからリーネンの頭をそっと撫でた。
「あのね、もし起きられるようなら、弟を呼ぶから詳しい話を聞きましょう?」
するり、するり。あやすように滑る手が気持ちいい。
手のひらから伝わってくるものにも、悪いものは感じない。
だからリーネンは、返事の代わりにもぞもぞとベッドから起き上がった。
「めまいはしない? 気持ち悪さは?」
「うん、だいじょうぶ」
「そう。じゃあ弟を呼びよせるから、それまでにお着替えをしましょう。私のお古で悪いけど、とりあえず今日はこれでガマンしてね」
そう言ってルチアは一旦隣室に顔を出し、二言三言誰かと声を交わした後、ローズピンクのドレスを手に戻ってきた。
「さ、お着替えして髪も整えましょ。せっかくキレイに伸ばした髪なんだから、美しく結わないとね」
楽しげな声と表情でルチアはリーネンに手を差し伸べると、彼女の支度を整えた。
「はい足入れて、手は伸ばしてー。そうね、髪は紐を結ぶ間、前に纏めててくれる?」
言われたとおりに大人しく足首まで流れる髪を束ね、胸の前で抱きしめる。
さらりと流れる髪の色は青銀色。その人にあらざる色の髪を抱く自分が何者なのか、きっとこの女性はとっくに気づいているはず、なのに。
(なんで……なにも言わないの?)
『翠姫』。精霊信仰の象徴たるこの身を崇め奉らない人間はいない。少なくとも自国では。
称賛の嵐、平伏する国民。そうやって祀りながら彼らは自分に強いるのだ。人ではないモノとして生きよと。
(でも、もしかしたら他国では違う、とか?)
この大陸は精霊信仰を主とする大地だと思ったが、実は歳月を経るうちに信仰心が廃れたとか?
なんにせよ過剰な反応はリーネンから言葉を奪い、動きを束縛するものでしかなかったから、普通の人間のように接してくれるルチアにリーネンは好感を抱いた。
「うん、可愛い! じゃあ次は髪ね。鏡台の前に移動しましょ。もっと可愛くしてあげるわ」
寝室は窓際に置いてある鏡台の前にリーネンを座らせると、ルチアは引き出しから黒猪毛のブラシを取り出し青銀色の髪に当てた。
ゆっくりと丁寧に髪を梳かれる心地よさ。
「キレイな髪ねぇ……まるで清水が流れるようだわ」
幾度も幾度も頭のてっぺんから足先まで、丁寧にブラッシングされる心地よさは、いつも身の回りの世話をしてくれた者とは全然違った。国の侍女は壊れ物に触るようにいつも細心の注意を払っていたけれど、この人の手はなんというか……。
(すごく、あたたかい)
もし、母親が梳いてくれるなら、きっとそれはこんな手つきではないだろうか?
そんなことをぼんやりと想像していたリーネンは、控えめに扉を叩く音にハッとした。
「ルチア、ヨシュア様がもうすぐ到着するが準備はどうだ?」
知らない男性の声にびくりと肩を揺らしたリーネンに、ルチアは「大丈夫よ。彼、私の夫なの」と鏡越しに軽快なウィンクをひとつ。すぐに扉に向かって話しかけた。
「もうすぐよ、マハル。ヨシュアが来たら、そこで待たせとけばいいわ」
「出来上がり次第そちらに行くから」と続けた彼女の声に、マハルと呼ばれた男性はため息をつきながら「元首も暇じゃないんだ。手早くな」と残して去っていった。
人の気配が遠ざかったことにほっと肩を落とすリーネン。知らない場所で知らない人に会うのは緊張する。というかしないわけがない。なにしろ自分はまだこの異常な状況について何ひとつ知らないのだから。
「……」
少しだけ湧いてきた警戒心に、知らず身体が固くなる。
すると、両サイドの髪をゆるく捩じりながら、後ろでひとつに結んでいたルチアが「まったく男ってのは、せっかちな生き物ね」と気楽な口調で毒づいた。
「女の子が可愛くなるための時間を、どうしてああも無神経に捉えるのかしらね。世の中の女性がみんな醜女だったら絶望して身投げするのは男のクセに」
「ふっ」
「あら、笑ったわね、あなた。面白かった?」
「……はじめて、聞いた。そういうの」
「だって顔の美醜にこだわるのは絶対男の方なのよ。そのくせ女の支度は長いだの文句を言うのも男。ホント男ってのは、我儘で身勝手な生き物よね」
立て板に水とばかりに悪口を並べながらもルチアの手は止まらない。
ゆるく編んだ髪にローズレッドのリボンを飾りつけて、彼女は鏡越しに笑った。
「可愛い笑顔ね。あなたはそうやって笑っている方がいいわ」
「っ……!」
可愛い、なんて単語は初めて聞いた。
それは称賛? それとも賛美?
どちらにも当てはまらない、なんだか胸の内をくすぐる言葉を噛みしめながら、リーネンはルチア先導の元、隣室へと続く扉の前に立った。
「向こうにいるのは私の弟と夫、それにあなたの国の従者が三人だけだから、気を楽にしてね」
悪戯っぽいウィンクを投げかけた後、ルチアが押し開けた扉。その先は彼女の言葉通りだった。
立ち並ぶ人数は五人。そのうちの三人はリーネンも知っている顔だった。
「ガズラ、エノシュ、カティーバ……」
そこにいたのはナハル国の騎士団長、宰相、そして直属の護衛兵でもある騎士の姿だった。
目が合った彼らは一様にほっとしたような表情を浮かべながらも、みな黙ったまま一礼する。
彼らがこの国の元首に気を使ったことは分かっていた。
じゃあどちらがその元首なのだろう?
リーネンの視線の先にいる男性は二人。
一人はこげ茶の髪に翡翠色の双眸を持つ男性。年の頃は二十代後半くらいだろうか? 少しきつい印象を受けるのは切れ長の瞳のせいだろう。
そしてもう一人。隣の彼よりは若く見えるから、たぶん二十代そこそこ。
(……なんかこの人の目、ひどく惹きつけられる)
リーネンの目は不思議と若い青年に吸い寄せられていた。
クセのない艶やかな黒髪がさらりと遊ぶ肌は健康的な小麦色。精悍な顔つきは勤勉さや実直さを伴った誠実な人柄が滲み出ており、ともすれば堅物にも見える。けれどなにより印象に残るのは、リーネンが思わず見惚れた紅い柘榴色の双眸だった。
意思の力で煌めく柘榴。自分をまっすぐ見据える力強い視線。
さほど長くもない人生だが、これほどまっすぐに自分の目を見据えた人間を、リーネンは兄以外に知らない。それくらい彼女にとって、彼の瞳はひどく眩しく感じられた。
一拍の間、見つめ合って。
端正な目鼻立ちの彼は、しばらくして口を開いた。
「あなたが……リーネン王女、ですか?」
ああ、彼は驚いていたのか。
自分を見据える視線の強さに圧倒され気づかなかったが、その瞳は軽く見開かれ彼の驚愕を示していた。
そう言えば、一番最初に『この姿』を見たルチアは何も言わなかったな、とルチアの方をちらりと盗み見れば、視線に気づいた彼女がにこりと笑んだ。
「ヨシュア、いつまで女の子を凝視すれば気が済むの? とんだ不調法者ね、あなた」
ぴしりと鞭で打つように、非礼を咎めるその声はまさしく出来の悪い弟を叱る姉そのもの。
「あ、いや、その……すみません。確かに初対面で挨拶もせず失礼をしました。非礼をお許しください、リーネン王女」
黒髪の青年はリーネンの前で膝を折ると、恭しく手を取り言葉を紡ぐ。
「私の名はヨシュア・カデラート。このカイツ共和国の元首を務める者です」
そして小さな手の甲に落とすのは敬愛をこめた口唇。
「お会いできて光栄です、水の精霊が化身『翠姫』よ」
「……いえ」
典雅な挨拶は、確かに眼下の青年がこの国の長であることを示していた。ならば、それに見合った礼を取らなければ。
遠い昔、兄に教わったのは宮廷風の挨拶。実生活で使うことのないこの形式張った礼を、それでも兄は「君も王女なんだもの、覚えておくといいよ」と何度も練習に付き合ってくれた。それを脳裏に思い起こしながら、ヨシュアの唇が手の甲から離れた頃合いで、リーネンもドレスの裾をつまみ、軽く片足を折る。
「ナハル国王女リーネン・イシュー・ナハルと申します。……姿は訳あって童形ですが、もうじき十七になります」
そう、ヨシュアの驚きは少しでも『リーネン王女』のことを知っていれば当然のこと。
水のように流れる青銀色の髪は足首を覆うほど長く、見る者の目を奪う。白磁の肌に紫水晶のごとき双眸が映え、佇む姿はまるで北方の国で作られる精緻な人形のように美しかった。
ただし、今年十七になる彼女の姿が、どう見ても七つか八つの童女であることを除けば、だが。
通常では考えられない成長の停滞に、驚かない人間はいないだろう。
しかし自国にいる時にそんな事を気に止める必要もなかった。
神殿の奥深くに祀られた身としては。
「あの……驚かせてしまって、ごめんなさい」
「ああ、いえ。こちらこそ不躾な態度で不愉快にさせてしまい、大変申し訳ありません」
ほとんど人前に出ない生活では自分がどれほど他人に奇異な目で見られるか、それすら考えが回らなかったことに、リーネンはまた少し自分の無知さを知った。
リーネンとヨシュア、二人の間に何とも言えない沈黙が落ちる。
そんな風に固まった場を壊してくれたのは、片頬に手を添え、ため息をついたルチアだった。
「は~、とりあえずヨシュアは後でホールにいらっしゃいね。話が少しあるわ。……本当に、二十歳すぎてもダメダメな所は変わらないのねぇ、あなた」
「……」
ヨシュアの顔からわずかに血の気が引いたように見えたのは目の錯覚だろうか?
口を真一文字に引き結んでいるヨシュアを不思議そうに見上げるリーネンだったが、それもすぐにルチアの「お茶にしましょ!」という明るい一声に中断を余儀なくされた。
ローズウッドで作られた円卓は、それ自体が仄かな芳香を漂わせる、深い紫も美しい逸品。そこに敷かれたテーブルクロスは白地に銀糸で刺繍が施してあり、上品な美しさを醸し出している。
深い緋のビロードが張られた、適度にやわらかな椅子を勧められ、左手にはルチア、差し向かいにヨシュアを挟んでリーネンは円卓についた。
ちなみにヨシュアの隣にはルチアの夫だと云うマハルが着席していたが、ガズラたちナハル国の臣下は着席を辞退し、リーネンの後ろに立ち並んだ。
着席が済むとタイミングを計ったように、侍女がお茶の乗ったワゴンを押して入室してきた。
侍女が用意したのは白い陶磁器に青い花の咲くティーカップ。
この大陸ではついぞ見かけない意匠はどこか異国情緒を漂わせている。そしてそこに注がれるお茶は、これまたこの大陸では珍しい澄んだ黄金色をしており、ふわりと香る芳醇な花の香りが心地よく鼻腔をくすぐった。
「……いい匂い」
ほわりと鼻腔をくすぐる爽やかな花の香りを大きく吸いこめば、吐き出す吐息は感嘆混じりの言葉となる。
「海の向こうの茶と茶器はお気に召しましたか?」
しみじみとお茶を味わっていたリーネンにかかる声はヨシュアのものだ。
それにこくりと頷くことで肯定の意を表せば、彼は嬉しそうに眦を下げた。
「いい茶葉でしょう。気持ちが落ち着く効能があるらしいのです。これは個人的に気に入った品でしてね。元首権限で流通に乗せたんですよ」
「ふふ、良いものはどんどん取り入れるのがこの国流なの」
付け足すようにルチアが教えてくれる。
「そうなの?」
そういえば、カイツ共和国は海に面しているから交易が盛んだと本で読んだことがある。ただしそれはずいぶん昔に書かれた本なので、詳細や最近の動向などは知る由もない。
その理由は誰も彼女に勉学を教えなかったせいにある。兄イーテは幼いころよりナハル国の次期国王として帝王学に勤しみ、短期ながら遊学もした。けれど王女であり、なにより信仰対象である『翠姫』にモノを教えるような者はいなかったのだ。
人間はみな、自分に祈りを捧げ平伏するばかり。だからリーネンは兄が運んでくれた僅かな書籍以外から知識を得る術を持たなかった。
「……」
生まれてこの方、神殿に幽閉されたも同然の十六年間だった。けれど不自由はしなかった。閉じられた世界で息をするだけなら。
そう、あの鳥籠の中でなら。
でもここは、外の世界。神殿でも、ナハル国ですらない、異国の地。
その事実はリーネンを、寄る辺ない気持ちにさせた。
(……ここにイーテがいたら、こんな不安はないのに)
頼りがいのある兄。何でも知っている兄。彼ならどこに行こうと絶対に自分を守ってくれる。そんな絶対的な信頼がある。
その彼が、ここにいてくれたなら―――。
そんな考えても詮なきことを、思い浮かべていたリーネンは、
「……王女、リーネン王女」
この国の元首が呼ぶ声に、思考の淵から意識を戻した。
「本題に入ってもよろしいですか?」
こくりと頷けば、懐から取り出した一通の手紙を彼はテーブル上に置いた。
「今回、貴女を擁護したのは、依頼元があなたの父上であられるシュレグ王だからです。詳細は伏せますが、我々はシェレグ王に恩義ある身。ですので彼の王たっての願いである貴女の安全を図るため、今回お預かりすることとなった次第です」
リーネンに見えるよう置かれた手紙の封蝋は国王の紋章に間違いない。
ちらりとヨシュアへと視線を向ければ、彼は「どうぞ」と中身を見るよう促した。
既に開いている封を開き、中の手紙を取り出す。そこに書かれていたのは、突然の受け入れを了承してくれたことに対する感謝の言葉。そして可能なら擁護期間中、神殿の中しか知らず生きてきた娘に、これを機に普通の生活を教えてやって欲しいとの旨が書かれていた。
かさり。
読み終えた手紙が封筒の中に戻される。
「その親書では分かりづらいでしょうが、現在ナハル国と北のツァフォン帝国の間に少々きな臭い話が持ち上がっているのです。そしてシェレグ王はこれを鎮静化させるまで、大事なご息女である貴女を、安全な場所に預けておきたい所存です」
そこで白羽の矢が立ったのが、シェレグ王に恩義のあったカイツ共和国というわけなのか。
「……」
今ここに自分がいる事情は分かった。けれどそれとは別の心配がふつふつと湧いて胸の内を占めるから、堪らなくなったリーネンは言った。
「イーテは、兄は大丈夫なの?」
リーネンの意識を占めるのは、いつだって双子の兄のこと。
眩いほどの黄金の髪に暁の空を映しとった瞳はアメジスト。脳裏に思い浮べるだけで胸痛くなるほど愛しい兄は、きっとこの世で一番リーネンを愛してくれる人だろう。
そんな強い愛と信頼を寄せた兄を、雲行きの怪しい国元に置いてきた。その事実は少女の胸に重くのしかかり、表情を曇らせた。
「申し訳ありませんが、こちらではそこまでの事情を掴んでいません。ですので、今はなんとも言えないのです」
率直なヨシュアの答えに、リーネンは目に見えて肩を落とす。
それを見かねたルチアが弟の言を継いで話し出した。
「あのね、ナハル国のイーテ王子と言えば、それはもう隣国に名を轟かす傑物なのよ。頭が切れて視野が広い。政治への造詣も深ければ、判断を見誤らない目も持っている。 しかも目的を達成するための手腕といったら、鮮やかの一言に尽きるわ。そんな認識を隣国にもたらすほどの人が、すぐにどうこうなるわけがないと思うの、私はね」
茶目っ気たっぷりのウィンク。その仕草に思わずほっとしたのは、彼女の笑顔のせいだろうか。それとも話しの内容からか?
判別つかないまま、それでも俯いた顔を持ちあげる力にはなったようだ。
少女はルチアに向き直ると小さく頭を下げ、ヨシュアを見つめ返した。
「お話、続けて下さい」
視線の先で彼が頷く。
「では、ここからが本題です。シェレグ王はあなたの見聞を広めることを願っていますし、我々もその願いを叶えたいと思っています。そこで問題がひとつ」
「?」
小首を傾げた少女を、青年はまっすぐに見据える。重大な話なればこそ、相手の目を見て語るのが彼の流儀だったから。
「リーネン王女、貴女のその髪色は目立ちすぎるのです」
「よって」と続いた次の言葉に、思わずリーネンの後ろに立つ側近たちが色めき立った。
「わが国に滞在中は、その髪を染めて頂きたい」
「な……っ!?」
「何をおっしゃられる、ヨシュア殿!」
「バカなっ!」
己の立場を熟知しているはずのガズラとエノシュが、それでも信じられないと思わず反論を口にする。
リーネン直属の護衛兵であるカティーバに至っては思考がそのまま言葉になっていた。
『翠姫』はナハル国の民にとって神聖なる信仰対象だ。その証というべき青銀色の髪を染めるなど、国民にしてみれば神に唾棄するも同然。
その衝撃が彼らの舌鋒を鋭くさせる。
「失礼を承知で申し上げるが、貴殿は本気でそれを翠姫様に強いるおつもりか?!」
「ええ、そうですね」
「精霊の化身であられる翠姫様に、己を偽れと……! 正気の沙汰か!?」
「必要なことです」
素っ気ない元首の対応に益々気色ばむエノシュたちだったが、ヨシュアは彼らに構わなかった。言うべき事は言ったとすぐに視線を外した彼は、真っ直ぐにリーネンに向き直って言葉を続けた。
「青銀色という人には持ちえない色は目立ちすぎます。そしてこの擁護が秘密裏に行われている以上、貴女の正体を明かすわけにはいかない。しかもシュレグ王の願いは、こうして隠れ住んでいてはできないことです」
見つめる視線には誠意を、告げる言葉には事実のみを。
自分の話を過剰に飾ることないヨシュアの話は、いっそ潔いと言えた。
「そういうわけですので、リーネン王女にも、どうかご協力頂きたいのです」
強い意志が閃く柘榴の瞳。そこには真摯に相手を思いやる優しさと、自らが考える最善を貫く強さがあった。
――ああ。この人、悪い人じゃない。
この人は信頼できると、こころが告げる。だから少女は青年を見つめたままこくりと頷いた。
「……何色に、染めればいいの?」
「リーネン様?!」
「姫様!!」
「なんてことを……っ!!」
三者三様の嘆き声を耳にしながらも、きっぱりしたリーネンの姿勢に揺るぎは見られない。そのことが更に側近たちをひどく狼狽させた。
「あの、す、翠姫様?!」
「染めます」
「あの、でもっ!」
「必要なこと、だから」
「……っく、翠姫様!」
それきり口を閉じたリーネンの意思は、充分すぎるほど固まっている。そしてこの決定が覆らないことを側近たちが知るにはそれで充分だった。
彼らは明らかに困惑と狼狽の入り混じった表情を晒し、やがて沈痛な面持ちで視線を下げた。
側近の反対を押し切った少女は凛と背筋を伸ばし、向かいに座るヨシュアへと向き直る。
「他にすることは?」
「そうですね、あとはこの国で様々な体験をして頂くくらいですかね」
「様々な、体験?」
それは一体どういったことだろう? 想像もつかない『様々』に小首を傾げると、隣のルチアが「あとで色々教えるわね」と耳打ちしてくれた。
「さて、こちらからご説明することは以上ですが、何か質問はありませんか?」
「いえ、特には……」
「では用件のみで申し訳ありませんが、この後、会議がありますので私はこれにて失礼させて頂きます。あなたの身の回りの世話は姉のルチアが請け負いますので、不明な点は彼女にお聞きください」
「はい」
では、と一礼した彼が側近と共に扉へと向かっていく。それを追って腰を上げたルチアは「ごめんね、ちょっとだけ待ってて」とリーネンに言い残し、弟と共に部屋を出ていった。
その、扉が閉まる直前に見えたヨシュアの横顔が、微妙に引き攣っていたのは気のせいだろうか?
なんにせよ部屋に残されたナハル国の人間、中でも側近たちは暗澹たる思いを禁じ得なかった。
「よもや翠姫様の髪を染めねばならぬとは……!」
ガズラがそう言えば、エノシュもその顔を苦悩に歪めて相槌を打つ。
「カイツ共和国はこのキドゥーシュ大陸でも珍しい共和制の国だからか、精霊信仰も他国に比べれば薄いと聞く。……まさかその弊害がここに出るとは思わなかったが」
「姫さま、本当に宜しいのですか? 髪を染めるなど屈辱ではありませんか?」
信仰の対象を塗り隠すなど、そんな辱めを甘んじて受けなければならない現状にカティーバは憂慮に堪えないと云った風情で言い募る。
けれど憤り、あるいは悲嘆に暮れる彼らを見るともなしに見ながら、リーネンはぽつりとつぶやいた。
「いいの。だいじょうぶ」
だってこの髪色を求めるのは民であって、自分ではないから。
それに。
(イーテはいつも悲しそうな瞳で、この髪を見るのだもの)
大好きな兄が見せる愁い。その原因であるこの青銀色の髪をリーネンはあまり好きではなかった。
開け放した窓から熱気を孕んだ風が入り込み、リーネンの頬を撫でる。
ここはカイツ共和国。リーネンが知らない、外の世界。
ここで自分は、どうなってゆくのだろうか?
安寧で窮屈な鳥籠から突然出された小鳥は、青い空と白い雲を前に戸惑いを隠せなかった。